第17話 岩甲猪と閃光筒
約束の日は、思ったより早く来た。
壁打ちをした翌々日の朝。
戸を叩く音がして、外にエマが立っていた。
「テレサちゃん。書類が一段落したから……今日、村の外縁を見て回ってもいい?」
鞄を胸に抱え、筆記具を耳に挟んでいる。
本人はたぶん、また筆記具を探す。
「行けます」
「本当? 助かります……」
弓と矢筒を背負い、腰の小刀を確かめる。
クロエも呼んだ。
「付いてきていい。でも、呼ぶまで黙ってて」
『了解。呼ブマデ沈黙』
どくろんが、肩の横で小さく上下した。
――
村の縁を、外れの家から順に回る。
地震で崩れた土手。
傾いた柵。
折れた枝が塞いでいる細道。
エマは一軒ごとに声をかけ、安否や壊れた場所を帳面へ書きつけた。
テレサは道を示し、足場の悪いところだけ先に歩く。
「こっちは、雨が降ると崩れる」
「じゃあ、先に直してもらえるように書いておくね」
会話は多くない。
それでも、黙っているのが苦しい相手ではなかった。
最後の家を出た頃には、日がだいぶ高くなっていた。
「これで全部です。ありがとう、テレサちゃん」
エマが帳面を閉じる。
来た道へ戻ろうとした、そのときだった。
クロエが止まった。
鼻を上げる。
耳が前を向き、背の毛が逆立つ。
テレサは弓へ手を掛けた。
クロエの唸りは低く、長い。普段の警戒とは違う、腹の底から出る音だった。
地面が、小さく揺れる。
地震ではない。
一定の間隔で、重いものが土を踏んでいる。
帰り道は、森側の斜面と、外れの家に残った石壁との間を抜けている。
斜面には地震で亀裂が走り、石壁は途中まで崩れていた。
その細道の先――村へ戻る側の木立から、低い影が現れた。
牛ほどの体格。
猪に似た太い首。
頭から背を覆う、岩盤のような外皮。
前脚が土を踏むたび、小石が浮く。
風向きが変わり、獣の臭いが届いた。土と、獣脂と、雷のあとに似た匂い。喉の奥が、勝手に乾いた。
岩甲猪。
土石をまとって突進する魔獣だ。
一人なら戦わない。
木立へ入って注意を引き、村と反対側へ誘導する。
十分に離してから視界を切る。
正面から討つ相手じゃない。
「テレサちゃん……」
「走らないで」
岩甲猪が帰路を塞いでいる。
横の斜面は、テレサとクロエなら登れても、エマには無理だ。
魔獣がこちらを見た。
鼻息とともに、浮いていた小石が落ちる。
「エマ。石壁の裏へ」
崩れ残った角なら、一人が伏せられる。
正面から飛んでくる石も防げる。
「私が森側へ引く。道が空いたら、村まで走って」
「でも、テレサちゃんは」
「早く」
エマが鞄を抱えて駆ける。
岩甲猪の頭が、その動きを追った。
テレサは矢をつがえ、風を乗せる。
目を狙って放つ。
矢はわずかに逸れ、岩のような額に弾かれた。
岩甲猪の視線がテレサへ戻る。
前脚が地面を掻いた。
土が盛り上がり、拳ほどの石が浮かぶ。
「クロ、離れて」
石が飛ぶ。
横へ跳ぶ。
一つが背後の木を抉り、もう一つが肩をかすめた。
上着が裂ける。
熱が走る。
腕は動く。
岩甲猪が地を蹴った。
速い。あの巨体で、木立の影を跨ぐ間もなく距離が縮む。地面の震えが、足の裏から胃まで届いた。
テレサは腰の鞄から細い筒を抜く。
閃光筒。
エマを連れてくると決めて買った、一本限りの退路だ。
革紐を引いて栓を抜く。
一つ。
魔獣との間へ投げる。
二つ。
目を伏せ、口を開く。
三つ。
白い光と破裂音が弾けた。
瞼を閉じていても視界が赤く染まる。耳の奥では、細い音が鳴り続けている。閃光筒は、投げた側のことも殴っていく道具だ。
岩甲猪の足音が乱れ、突進が斜面側へ逸れた。
帰路が開く。
「エマ、今――」
岩甲猪が前脚を踏ん張った。
巨体は道に残ったまま。
頭だけが石壁へ向く。
「出ないで」
エマを逃がすには足りない。
だが、逸れた前脚は、亀裂の走る斜面際を踏んでいる。
倒して、道を空ける。
テレサは斜面側へ走った。
岩甲猪が追う。
閃光で乱れた足のまま、さらに一歩、脆い土へ踏み込む。
角が届く直前で横へ飛ぶ。
風圧に体を流されながら受け身を取る。
掠めてもいない角の風だけで、これだ。掠らせれば、終わる。
振り返ると、岩甲猪の前脚が斜面へ沈んでいた。
土が崩れる。
巨体が傾く。
後脚だけで踏みとどまり、前脚を引き抜こうとする。
「クロ!」
クロエが横から駆け込み、届かない位置で短く吠えた。
岩甲猪の頭が動く。
重心が斜面側へ寄る。
二本目。
風を乗せ、前脚の付け根――外皮の途切れる場所へ放つ。
矢が深く入った。
離れの感触は、指に良く残った。見れば、矢柄は羽根の近くまで沈んでいる。骨に弾かれず、肉へ届いた深さだった。
岩甲猪が身を捩る。
斜面が耐えきれず、巨体ごと崩れ落ちた。
角の周りに光が集まり、土石が浮く。
「クロ、戻れ!」
クロエが離れる。
石が四方へ飛んだ。
テレサは斜面の陰へ伏せる。
一つが石壁の外側を叩いたが、厚い石積みは動かなかった。
音が止む前に立つ。
三本目。
岩甲猪は、傷ついた前脚で体を起こそうとしている。
猶予は一度。
風を乗せる。
狙うのは、横倒しになって露出した喉。
息を止め、放つ。
矢が外皮の隙間から喉へ沈んだ。
岩甲猪の頭が、力なく地へ落ちる。
浮いていた石も、雨のように地面へ落ちた。
静けさが、遅れて戻ってくる。森の縁で、鳥が一羽だけ鳴いた。
テレサは矢をもう一本つがえたまま待つ。
脚が一度痙攣し、動かなくなる。
「……終わり」
弓を下ろす。
膝が震えそうになる。
息を吐いて、無理に止めた。
口の中に、薄い鉄の味がする。いつの間にか、頬の内側を噛んでいたらしい。
クロエを呼び戻し、傷がないことを確かめる。
「クロ。いい子」
石壁の裏から、エマが顔を出した。
顔は白く、目の縁が赤い。それでも、言われたとおり一度も飛び出さなかった。石壁の縁を握っていた手に、砂がついている。
「テレサちゃん」
「もう大丈夫」
エマは魔獣を大きく避けながら近づき、途中で足をもつれさせた。
それでも転ばず、テレサの前まで来る。
「肩、血が出てる」
「浅いから」
「浅くても怪我です」
エマの声が震えていた。
鞄を開き、布を取り出す。
指先も震えているのに、傷へ当てる手つきは丁寧だった。
布を巻く前に、傷の周りを水で流し、端を折って当て布を作る。手順を知っている手だった。震えは指先だけで、順番は崩れない。
「あんなの、一人で倒したの?」
「クロもいた」
「そういう意味じゃなくて」
テレサは答えなかった。
本当なら、一人でも倒そうとはしない。
逃げられなかったから、倒しただけだ。
エマが布を結ぶ。
「私がいたから、逃げられなかったんだよね」
「案内を引き受けたのは私」
「それでも」
「倒せたから、いい」
エマは納得していない顔をした。
けれど、それ以上は言わなかった。
テレサはどくろんを見る。
「沈黙、解除」
『命令解除。生存ヲ確認。ますたー、無謀デス』
「ほかに方法なかった」
『結果論デス』
「うるさい」
『沈黙命令ノ再設定ヲ推奨シマスカ?』
エマが、張り詰めていた息を小さく漏らした。
笑ったのかもしれない。
この大きさの魔獣を、村の近くへ放置はできない。
場所を確認し、道に目印を置く。村へ戻ったら、すぐに討伐後の処理を頼む。
帰り道では、エマが鞄と弓の両方を持つと言い張った。
弓だけは渡せないので、代わりに空になった水筒を任せた。
肩の傷は、それほど深くない。
腕も動く。
それでも明日は、弓を引く回数を減らした方がよさそうだった。




