第9話 違和感は事実の隣に
翌朝。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、穏やかな笑顔が浮かぶ。
――あなたを殺す必要があるかどうか、その確認に参りました。
思い出すだけで胃の奥が重くなる。
「……行こか」
棚の上で待機していたどくろんが青い眼を灯した。
『調査開始』
「うん」
「まずは事実集め」
『是』
二人は家を出た。
村は少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
崩れた石垣を積み直す者。
折れた柵を直す者。
地震の傷跡はまだ残っている。
それでも、人は前へ進んでいた。
「あれ?」
声を掛けられた。
「テレサさんじゃないか!」
振り返る。
革鞄を肩へ提げた男が、こちらへ歩いてくる。
少しくたびれた旅装。
寝癖のような髪。
日に焼けた顔。
けれど目だけは少年のようによく動く。
「マティアス先生」
「よかった!」
本当に安心したように笑った。
「無事だったんだね!」
「はい」
「本当に良かった」
その笑顔には裏が見えない。
革鞄の口からは、束ねた薬草と書き付けの端が覗いている。歩きながらも調べ物の途中らしい。
すれ違う村人が「先生」と会釈し、マティアスはその一人ずつへ、名前で返した。
王立学術院の学者でありながら、何年も村へ住み着き、村人からも「マティアス先生」と呼ばれている人物だ。
「体はもう平気かい?」
「だいぶ」
「それなら安心だ」
「地震の日の夕方から、三日も帰らなかったんだろう? 正直、覚悟したよ」
「はい」
「森の穴に落ちてました」
マティアスは頷き、少し間を置く。
「あの日のことは、思い出せるかい」
「いや、思い出させたいわけじゃないんだ」
テレサが答える前に、マティアスは片手を振る。
「ああいう怖い目は、誰かに話すとだいぶ違うものだよ。……誰かに、話せたかい」
「あんまり」
考えるより先に、口が動いていた。
「暗かったので、よく覚えてないんです」
誰にも話さないと、もう決めてある。
マティアスはすぐには答えない。
革鞄の肩紐に掛けた指が、紐を握り直す。
「……そうか」
「覚えていないなら、それでいい。無理に思い出すことはないよ」
いかにも先生らしい言い方だった。
「はい」
「先生」
「うん?」
「最近、村へ来てる旅商人さんのことなんですけど」
マティアスは少し首を傾げる。
「ああ」
「シリル君か」
テレサは頷いた。
「はい」
「先生は、あの人のことを知ってますか?」
「もちろん」
マティアスは笑う。
「何度か話したことはあるよ」
「研究で必要な道具を頼んだこともあったしね」
「そうなんですね」
「商人としては優秀だと思う」
「頼んだ物もきちんと持ってきてくれるし、村の人とも上手くやっていた」
そこまでは迷いなく答えた。
「ただ」
少しだけ考える。
「商人らしく、全部を話す人ではないかな」
「秘密は多そうですね」
苦笑する。
「まあ、それは商売柄なんだろうけど」
言い方に、棘はなかった。人を悪く言い慣れていない人の、精一杯の留保に聞こえた。
テレサは静かに頷いた。
「ありがとう」
聞きたかったのは、それだけだった。
そう言って立ち去ろうとすると、
「……テレサさん」
マティアスが呼び止めた。
「ん?」
「どうして急にシリル君を?」
ごく自然な質問だった。
「ちょっと気になって」
「それだけです」
マティアスは数秒だけ考え、
「そうか」
と笑った。
「ならいいんだ」
「うん」
「また何かあったらおいで」
「ありがとうございます、先生」
軽く手を振って別れる。
しばらく歩いてから、どくろんが小さく言った。
『ますたー』
「ん?」
『先生』
「うん」
『質問』
テレサは歩みを止めない。
「そうやな」
「最後の質問だけ」
「少し気になった」
『理由』
「まだ分からへん」
首を振る。
「でも」
「何でシリルさんのことを聞くんか、先生は気になったみたいや」
どくろんは数秒沈黙した。
『記録』
『保留』
「せや」
まだ何も分からない。
朝の光の中で見た先生の笑顔は、昨日のシリルの笑顔とは、別の生き物のようだった。
――そう見える、というだけのことも、一応、事実の隣に置いておく。
だから今は、その違和感も、事実の一つとして頭の片隅へ置いておくことにした。
マティアス先生と別れたあと、テレサは一度、家へ戻った。
棚の上のどくろんが、小さく揺れる。
『ますたー』
『調査、継続?』
「する」
「その前に」
『是』
「お腹減った」
地震のあと、備蓄は薄い。
調査も、食べなきゃ続かない。
「クロ」
呼ぶと、屋内の隅からクロエが立ち上がった。
尾が一回、短く振られる。
「狩りいくよ」
どくろんへ視線をやる。
「……お前は、できれば家で待ってて」
『不可』
「理由」
『ますたーカラノ離隔、非対応』
「はいはい。どうせついてくるんでしょ」
『是』
「なら、発声制限。呼ぶまで黙ってて」
『了解。呼ブマデ沈黙』
眼の灯りが落ちる。
それでも球体は、棚には戻らない。
テレサの肩の横へ、静かに浮いた。
――
弓を背負い、村の外へ出る。
クロエが先。どくろんが横。
少しだけ、森の奥へ入る。
縁だけの猟では足りない日もある。
森は、事件のあいだも変わらず森だった。
実のなる木に鳥が集まり、沢の水は冷たく、風は葉の裏を返していく。
この音の中にいると、息の仕方を思い出す。
クロエの足取りも、村の中より柔らかい。仕事の顔と、機嫌のいい尻尾が、両方いっぺんに出ている。
クロエが先に草を分け、低い姿勢で進む。
テレサは息を合わせ、音を消す。
どくろんは黙ったまま、木の葉にも当たらない高さでついてくる。
一日分では足りない。
調査が続くなら、数日分は確保したい。
クロエが止まった。
耳が前へ向く。
テレサは視線を送り、頷く。
追い出し。
短い疾走。
矢をつがえる。
風の魔力は乗せない。
この大きさなら、その必要はない。
放つ。
一発で足りた。
回収はクロエがする。
「よし」
短く言い、頭に一度だけ手を置く。
クロエの尾が、小さく動く。
その場で処理する。
血を抜き、食用になる部分を整える。
刃は寝かせて、教わった順序のとおりに。手が覚えている仕事は、考え事より速い。
持ち帰る分は、ここで形にしておく。
毛皮になる皮は傷を広げないように剥ぎ、食用とは別に畳む。
食用に適さない部分はひとまとめにし、葉と布で包む。
匂いが漏れにくくしておく。
魔獣のいる森では、現場に置いたまま次を狙えない。
腰へ固定し、廃棄まで持ったまま動く。
クロエは周囲を警戒したまま、足もとに伏せている。
どくろんは黙ったまま浮いている。
まだ足りない。
もう一匹、狩る。
クロエが再び先へ出る。
別の獣道。短い追い出し。
矢は、やはり一発で足りた。
クロエが回収して戻る。
「いいよ」
頭にぽんと手を乗せる。
クロエの耳が、一度だけ後ろへ寝る。
同じように処理する。
こちらの皮も、売れる状態で持ち帰る。
これなら、数日は持つ。
食用を抱え直す。
村へ戻る前に、適さない部分を地中廃棄する。
村から離れた場所へ向かう。
――
その途中で、クロエの動きが変わった。
尾が下がる。
低い喉音。
足が、いつもの警戒より重い。
テレサも止まる。
風が、獣のものではない臭いを運んできた。
血の匂いとも、普通の獣とも違う。
魔獣。
戦うサイズではない。
少なくとも、今の自分とクロエだけでは、勝ちにいく相手ではない。
どくろんは沈黙したまま、肩の横で止まっている。
逃げるだけなら簡単だ。
だが、逃げる向きを間違えると、村に引き込むことになる。
村に入れたら、面倒になる。
個人の猟の程度では済まない。
村を挙げての討伐になる。
テレサは腰の小刀へ、一度だけ指を触れた。
抜かない。
指先が、わずかに冷たい。
腰の包みに、指が当たる。
「クロ。待て」
低く命じ、村と反対の方角を指さす。
包みをほどく。
封じられていた臭いが、あたりに充満する。
木の影が、ゆっくり動いた。
気配が、臭いの方へ寄る。
村とは反対側、森の奥に誘導する。
クロエは足もとに留まったまま、唸りもしない。
それでも喉の震えは、消えない。
「……えらい」
声は、命じるときより低い。
それ以上は触らない。
テレサは食用の獲物を抱え直し、森の奥のほうへ。
息を浅くする。
背中が、まだ向いている気がする。
気配がついてくる。
もう少し奥へ。
枝を避け、斜面を下り、距離を取る。
気配があとを追ってくる。
クロエの喉音は、低いまま消えない。
村からは十分に離れた。
中身をそこに残す。
爺さんの声が、手の動きのあとに重なる。
「村側へ逃げるな」
「……分かってる」
誰に言うでもなく、短く返した。
気配は、まだ奥へ向いている。
臭いの方だ。
そのすきに、村の方角へ向き直る。
――
家の前で、クロエの足を洗う。
泥を落としてから、中へ入れる。
クロエの首に腕を回し、抱きしめる。
頭や耳のまわりを、わしゃわしゃと掻く。
「お疲れ。よくやった。いい子」
クロエは目を細め、しっぽを短く振る。
もう一度、首筋をわしゃわしゃしてから離れる。
「待ってて」
クロエは敷物へ伏せた。
目だけが、テレサを追う。
肩の横のどくろんが、眼を灯す。
『発声制限、解除?』
「うん」
『狩リ、成功?』
「食料は取れた」
『魔獣ノ気配、観測?』
「……まあ。村に寄せずに返した。黙っててくれて助かった」
『発声制限中デシタ』
「えらい」
『記録』
「細かいことはいい」
弓を置き、手を洗う。
持ち帰った獲物を干し、塩を振る。
皮は板に張って、陰へ。矢は汚れを拭い、乱れた羽根を指で直す。
道具を仕舞う順番は、ハルトじいの家の頃のままだ。
ここまでやって、ようやく今日の猟は終わる。
腹は、まだ後だ。
いまは、調査を続ける。
「クロは留守番」
クロエは耳を後ろへ倒し、不満を隠さない顔でテレサを見上げた。それでも、敷物へ伏せ直す。尾の先だけが、一度だけ床を打った。
「お前は……まあ、ついてくるんでしょ」
『是』
村の中心へ向かう。




