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トラブルがあってもパーティーは止まらない。乙女小説のような状況にうっとりもしていられない。気を取り直して展示コーナーの質疑応答をしたり、料理の補充をしたりしているとあっという間に時は流れていく。
最後の保護者を見送ったあとも、仕事は終わらなかった。展示物の回収に 残った食材の確認、 備品の仕分け。
フリッツ様が率先して動いてくださるから、手伝ってくれた生徒達も連れて動いてくれる。それでも人手が足りず、あちこちから声が飛んでいた。
「ドーミエさん、この帳簿ってどう書くんですか?」
「今行きます!」
「余った焼き菓子の数が合わないんだけど」
「ちょっと待ってて!」
夢中になって走り回り、気が付けばホールの中には、ほとんど誰も残っていなかった。床に落ちた飾り花を拾い上げる。
ふと窓の外を見ると、空はすっかり暗くなっていた。フリッツ様ご要望の満月が煌びやかに光っている。
「終わった……」
ぽつりと呟いた。成功したのか失敗したのか、正直まだ分からない。ただ、目の前のことを必死でこなしていただけだったけれど、とにかく終わった。
手元の帳簿を閉じた瞬間、張り詰めていた糸が切れたみたいに力が抜ける。近くにあった壁へ背中を預け、そのままずるずると座り込んだ。
かつん、と足音が響く。
見上げると、そこにはいつの間にか片手に小さなトレイを持ったフリッツ様が立っていた。トレイの上には、数個だけ余った、我が商店のクッキーが乗っている。
「……一つ、もらってもいいかな」
「え? あ、はい。どうぞ……」
フリッツ様は形の良い指先でクッキーを口に運ぶと、サク、と小さく音を立ててそれを咀嚼した。どこか懐かしむように目を細めてつぶやく。
「……美味しいな。本当に、温かくて優しい味がする」
その横顔があまりにも綺麗で。見惚れてしまった。
トレイを近くの台座に置くと、フリッツ様は品良く片膝をつき、床に座り込んでいる私と視線の高さを合わせてくれた。いつもなら絶対に平民の前でそんな姿勢を取らないはずの公爵子息が、今はすぐ目の前にいる。
「今日は、本当にありがとう。全部、見ていたよ」
その声は、いつもより柔らかい。疲れていても、思わず笑顔になる。
「そんな、フリッツ様……さっきは、こちらこそありがとうございました」
「私は何も。君は本当に強い子だな。…少し、私には眩しくて─」
言葉を途中で切って、フリッツ様は小さく微笑んだ。
「もう休みなさい。今日はよく頑張った」
フリッツ様の纏う、上等な香水と、片付けで少し汗をかいた男の子らしい熱い体温が、すぐ近くで伝わってくる。私の額にそっと手を伸ばしかけ─けれど、指は寸前でピタリと止まった。
「……お疲れ様」
フリッツ様はそれだけ言い残し、背を向けて去っていく。商人として必死にやり抜いた。そしそれをちゃんと見てくれていた人がいる。
壁にもたれたまま、胸の奥が熱くなるのを感じていた。自分の仕事ぶりが認められて、嬉しかった。けれど、それ以上に。
触れられそうになった額をそっと手で押さえながら、私は去っていった彼の背中を見つめずにはいられなかった。
(本当にずるいわ、黒王子って…)
胸の高鳴りはまだやみそうになかった。
◇◇◇
学園のパーティーが終わってから数日後。
我がドーミエ商店に、メレル公爵家からの正式な刻印が入った書状が届いた。内容は、先日の労いと、今後の定期取引に関する契約を結ぶため、私を公爵邸へ招待したい、というものだった。
「定期取引……!?やった、やったよお父さん、お母さん!」
「クラリッサ、お前って子は……!」
厨房で抱き合って涙を流す両親に見送られ、我が家で一番上等な、仕立て直したばかりの紺色のワンピースを着て公爵邸へと向かった。
けれど、馬車から降りて、天を突くような鉄製の正門を見上げた瞬間、歓喜の気持ちは一瞬で消し飛んだ。
(……広すぎる。というか、家っていうかお城じゃないかしら、これ?)
案内された敷地は、どこまでも続く美しい庭園。すれ違う使用人たちは皆、一分の隙もない衣服を纏い、私のような平民の娘にも完璧な一礼をくれる。それが逆に恐ろしい。磨き上げられた大理石の廊下を歩きながら、自分の靴音が妙に安っぽく響く気がして、胃がキリキリと痛み出すのを感じていた。
やっぱり、住む世界が違う。あの打ち合わせの日々は、学園という特殊な空間だったから許された奇跡のような時間だったのだ。
「ドーミエ嬢。遠いところをよく来てくれたね」
通された商談室で待っていたフリッツ様は、いつも通りの、いや、いつも以上に完璧な公爵子息の微笑みを浮かべていた。
上質な仕立ての衣服を着こなす彼の姿はやはり国宝級の鑑賞物。感動しつつ、深々と頭を下げる。
「お招きいただき光栄でございます、フリッツ様」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。他の者もいないのだから、学園の時のように話してくれてもいいんだが。まあ、かけてくれ」
それは流石に、と苦笑する。勧められるまま、ふかふかの革張りの椅子に腰を下ろした。その瞬間、ふわりと鼻腔をくすぐる香りがあった。重厚な木製の家具には少し似つかわしくない、爽やかなレモンとベルガモットの香り。
公爵家のお部屋といえば、もっとお香のような、重たい格式高い香りがするものだと思っていたのだけれど。
(嬉しい、好きな香りだわ)
緊張がほどけていく。
フリッツ様は滑らかな手つきで契約書を差し出してきた。そこに並んでいた条件は、我がドーミエ商店にとって有利すぎるほどの好条件。仕入れ値の保証、学園内での独占販売権の継続、さらには公爵家直属の流通網の使用許可まで。
隅々まで目を通して、注釈も但し書きもないことを確認して、おずおずと切り出した。
「あの、フリッツ様……この条件は、我が家に対して破格すぎではないでしょうか?」
「当然の権利だよ。先日、君たちがどれほど素晴らしい仕事をしたか。その対価だ。我がメレル家は、優秀な商人の努力を買い叩くような真似はしない」
フリッツ様は至って真面目な顔で、流れるように書類へのサインを求めてきた。
もう一度最初から最後まで確認してから、震える手でサインを書き終え、大きく息を吐いた。これで、実家の未来は安泰だ。
「さて、本題の契約はこれで終了だ。……だが、ドーミエ嬢。ここからは、今後の我が家の茶会で出すお菓子の市場調査を兼ねた意見交換に付き合ってもらいたい」
「市場調査、ですか?」
「ああ。我が家が新しくお抱えにしようとしている他国の菓子職人がいてね。その試作品を、ぜひ流行に敏感な君の視点で評価してほしいんだ」
フリッツ様が声をかけるとすぐ扉が開き、お茶のセットが運ばれてきた。まるで、最初から私がサインを終える瞬間を完璧に逆算していたかのような手際だ。
目の前に置かれたのは、透き通るような琥珀色の紅茶。驚くほど高価な、南方の特級レモンが贅沢に添えられている。ふわりと広がる柑橘の香りは、まさに私が一番好きなあの匂い。
そして銀の皿には、香ばしく焼き上げられたピスタチオとアーモンドのタルトが載っていた。
(……あら?)
レモンティーに、大粒のナッツの焼き菓子。脳裏に、放課後の売店でのうっすらとした記憶が蘇る。『私、ナッツのガリガリした食感が大好きなんです』と、新作の試作中にポロッと言った、あの雑談。
(……いいえ偶然、完全に偶然の極みよ。 相手は次期公爵様。平民の私の好みに合わせて商談のお茶菓子を選ぶわけがないじゃないの!)
内心で激しく首を横に振った。深読みして勘違いするなんて、それこそ平民の分際で一番やってはいけない大失態だ。
恐る恐るフリッツ様の顔を盗み見ると、一切の私情を挟まない、極めて真面目な顔で手元のメモ帳を開いていた。
「このタルトなのだが、アーモンドのロースト加減と生地の甘みのバランスについて、商人としての率直な感想を聞かせてほしい。現在の社会の流行に合致しているだろうか」
「分かりました、いただきます」
やっぱりそうだ。彼はただ、商人としての意見を求めているだけだ。とんだ勘違いをするところだったわ。
ほっと胸をなでおろし、商売へと頭を切り替えた。おもむろにフォークを手に取り、タルトを一口、口に運ぶ。
「……っ、美味しい……!」
サクッとした小気味いい生地の歯ごたえのあと、口いっぱいに広がる香ばしいピスタチオの風味。バターの濃厚なコクがあるのに、決してしつこくない。
「フリッツ様、これ、素晴らしいです。 特にこのアーモンドのロースト具合、少し強めに火を入れて苦味を出しているから、生地の甘さと絶妙に調和しています。私のような平民から、貴族の奥様方のような舌の肥えたお客様にも、間違いなく大ウケします!」
「そうか。……それは、良かった」
フリッツ様の声が、なぜか少しだけ掠れていた。見上げると、彼は手元の万年筆を握りしめたまま、微動だにせずこちらをじっと見つめている。
「フリッツ様……? 何か、おかしなことを言いましたか?」
「いや。……いや、何でもない。君が、あまりにも美味しそうに食べるものだから、職人も報われると思ってね」
フリッツ様は拳で軽く口元を覆うと、いつもの微笑みを顔に貼り直した。すこし不思議に思いつつも、思ったことを口にする。
「ただ、もしこれを学園の売店や、若い方に向けて出すのであれば、少し改良が必要ですね」
「ほう。聞かせてくれ」
「若い生徒にとっては、この濃厚さは少し大人っぽすぎるかもしれません。タルト生地にほんの少しレモンの皮のすりおろしを加えるとか…後味をスッキリさせた方が、何個でも食べたくなると思います」
「なるほど、後味の引き算か。さすがはドーミエ嬢、実に有益な意見だ。早速伝えておくよ」
それから私たちは、お菓子の仕様変更や、今後の仕入れのターゲット層についての議論を交わした。話している内容は、どこまでも真面目な商売の話。
なのに熱く語るたびに、フリッツ様は嬉しそうに目を細め、カップが空になりかけると、流れるような動作で自らレモンティーを注ぎ足してくれる。
(すごい至れり尽くせり……。流石誰にでも優しい黒王子)
思わず感心してしまう。ほぼお茶を楽しんでいるだけになっていると、軽いノックの音が響いた。フリッツ様にちらりと視線を向けられたので、了承の意を込めて頷く。
「どうぞ」
「お兄様、来週パーティーの件で少し─あら」
振り返ると、そこにはメレル嬢が立っていた。パーティーの時、フリッツ様の隣でエスコートを受けていた、可憐な公爵令嬢。慌てて立ち上がり、カーテシーをする。
「失礼いたしました、お兄様、ドーミエさん。いらしていたのね」
「先日はありがとうございました。お邪魔しております、メレル嬢」
「今後の定期取引の契約と、新作菓子の市場調査に付き合ってもらっていたんだよ」
「いいのよ、顔を上げてドーミエさん。……市場調査、ねえ」
メレル嬢は、テーブルの上に並んだレモンティーとタルトに視線を走らせ、何か、とんでもなく奇妙なものでも見たかのようにフリッツ様の顔を交互に見つめている。その視線に、なんとなく居心地の悪さを感じて、手元の資料に目を落とした。
「………それではお兄様、お話はまた後にしますわね。ドーミエさん、失礼するわ」
「あ、はい。失礼いたします……」
最後まで不思議そうな、どこか戸惑うような目をメレル様に向けたまま、メレル嬢は静かに部屋を去っていった。
(……やっぱり、このお茶菓子のラインナップ、公爵家としてはちょっと珍しかったのかしら?)
少しだけ首を傾げたものの、フリッツ様が何事もなかったかのように「さて、話を戻そうか」と商売の話を始めたので、すぐ頭を戻し、商談を再開したのだった。
◇◇◇
それから一時間ほどして、すべての商談を終えたクラリッサが、ホクホク顔で公爵邸を後にした。彼女を乗せた馬車が見えなくなるまで窓辺から見送っていたフリッツは、ふう、と静かに息を吐く。その横顔には、先ほどまでクラリッサに向けていた、柔らかく熱い温度はもう残っていない。
パタン、と部屋の扉が開き、先ほど下がったはずのカトリーヌが静かに歩み寄ってきた。彼女は兄の隣に並び、同じように窓の外を見つめながら、ぽつりと口を開く。
「珍しいわね、お兄様」
「─何がだい?」
フリッツは視線も動かさず、いつも通りの穏やかな、しかしどこか壁のある声で問い返した。カトリーヌは、そんな兄の頑なな態度に、小さくため息をつく。
「分かってらっしゃるくせに。……あんな風に、誰かの好みをこれ見よがしに詰め込んだ空間でお仕事なさるなんて。お兄様、あの方が話すたびに、今にも零れ落ちそうなほど甘いお顔をされていましたわよ」
「……」
「あの方、平民の商店の娘さんでしょう? 御用達にするだけならまだしも、あそこまで個人的に目をかけるなんて、お兄様らしくありませんわね」
妹の、静かだけれど核心を突いた言葉。
フリッツはしばらく黙っていたが、やがてフッと自嘲気味に、酷く優しい笑みを唇に浮かべた。
「……らしくない、か。自分でも、どうかしているとは思うよ」
「お兄様……」
「ま、彼女は我が家にとって必要な存在だ。それだけだよ」
そう言いながら、視線はクラリッサが使っていたカップに。最後まで建前を崩さない兄の言葉に、カトリーヌはそれ以上追及するのを諦めた。




