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あのおもてなしは、夢だったのではないかしら。
メレル公爵邸に招かれ、自分好みのレモンティーとのタルトを振る舞われた、あの商談から一夜。学園の廊下を歩きつつ、まだあの部屋を満たしていた柑橘類の甘い香りと、フリッツ様から注がれたお茶の温かさが、残り火のようにじんわりと胸を温めていた。
(いけないわクラリッサ。相手はあの黒王子様よ。ただの取引相手として、至れり尽くせりな対応をしてくださっただけ。勘違いして浮かれるなんて、商人失格なんだから……)
何度も自分にそう言い聞かせるけれど、思い出すたびに頬が緩んでしまうのを止められない。定期取引の書類に書かれた彼のサインを見るだけで、心臓がおかしなリズムを刻む。商売上のことだと分かっていても、どうしても、ほんの少しだけ期待してしまう自分がいた。
「ちょっとクラリッサ!ずるい、ずるすぎるわ!」
背後から突然響いた、場にそぐわない甲高い声。何事かと振り返ると、そこには血相を変えて肩を怒らせたモラレスさんが突撃してくるところだった。
「えっ……? モラレスさん……?」
怒髪天を衝く勢いで詰め寄ってくる彼女の迫力に、思わず半歩後ずさる。
「とぼけないで! あんた、フリッツ様にばかり学園中の噂やを最近の動きを横流ししてるでしょう!? 王子たちが今何を欲しがってるとか、どういう対応をされたら好感度が上がるとか、裏で全部フリッツ様にリークしてるじゃない!」
「何の話をしているの?」
また始まった。この人の、頭が痛くなるような意味不明な言葉。こちらの様子を気にしたようすもなく、彼女は止まることなく話を続ける。
「隠さなくても分かってるんだから! 私がどの王子と仲を深めようとしても、いっつもフリッツ様が先回りして潰しにくるのよ! あんたの店と公爵家が定期取引を結んだって聞いたけど、その情報を独占するための契約でしょう!?」
意味が分からない。意味が分からない、言葉たちなのに。
それを聞いた瞬間、ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
この5年間やたらと学内の人間の話をして来たこと。昨日の、あの有利すぎる条件の契約書。私がサインを終える瞬間を逆算したように運ばれてきたお茶。脳裏の中で、すべてのバラバラだったピースが、最悪の形でカチリと嵌まっていく。
「いっつもフリッツ様ばかりずるいわ! 私にだって、あなたのこと利用させてよ!」
「り、よう……」
「そうよ! 私にだって、王子たちの好感度を上げるための情報をよこしなさいよ! フリッツ様だって、あんたをただの便利な情報屋として利用してるだけなんだから、私にだって利用させてくれたっていいじゃない!」
「……っ!」
胸の奥を、剥き出しの氷塊で殴られたような衝撃が走った。頭から血の気が引き、立っているのすら頼りなくなる。
(ああ。そうか。やっぱり、そうだったのね)
あの人が、平民の私にあんなに優しくしてくれた理由。街中のあらゆる平民や噂話、最新の流行が集まってくる実家の商店に、学園の人々が代わる代わる訪れる学園の売店。そのどちらにもいる私。
メレル公爵家の跡取りとして、学園内のパワーバランスを握り、他の高位貴族や王子たちの動向をいち早く察知するために。彼は、うちの店が持つ情報網としての価値を高く評価して、他家に渡らないように破格の条件で囲い込み、便利に利用していただけだったのだ。
あの部屋に満ちていたレモンの香りも、好みドンピシャだったお茶菓子も、すべては私が気持ちよく情報を喋るように仕組まれた、誰にでも優しい黒王子様の罠。
震えそうになる声に、気を付けながら口を開く。
「モラレスさん、申し訳ないけど、私には何のお話か分からないわ。失礼します」
「ちょっと待ちなさいよクラリッサ! まだ私のターンは終わってないわよ!」
叫ぶ彼女の声を背中で聞きながら、私は逃げるように走り出した。
情けない。恥ずかしい。悔しい。
商売だからって、あんなに自分にブレーキをかけていたくせに。本当は、あのレモンティーの温かさに、彼の優しい瞳に、ほんの少しだけ期待してしまっていた自分が、たまらなく惨めで、涙が溢れそうだった。
完全に、心が折れてしまった。
頭の中はフリッツ様にとって、私はただの便利な道具という冷たい事実だけで埋め尽くされ、周囲の音なんて何も聞こえなくなっていた。
──だから、気づけなかった。
放課後、トボトボと学園の裏門から出た私のすぐ側に、格式高い紋章をあえて隠した、不気味なほど漆黒の馬車が静かに近づいてきていたことに。
「おい、お前がドーミエ商店の娘だな」
「え─」
振り返る暇すらなかった。背後から伸びてきた大柄な男たちの手によって、乱暴に口を塞がれる。
「んぐっ……!? んんっ!?」
「暴れるな。大人しく来てもらおうか。メレル公爵家のお気に入りだそうじゃないか」
抵抗する間もなく、暗い馬車の車内へと無理やり押し込まれた。
バタン、と重々しい扉が閉まり、外から鍵がかけられる音が響く。激しい衝撃と共に馬車が急発進し、身体が冷たい床へと叩きつけられた。─誘拐された。
(フリッツ様……っ)
恐怖で震える身体を抱きしめながら、心の中で、自分を道具として利用しているはずの、あの人の名前を必死に叫んでいた。
◇◇◇
放課後の図書館は、いつものように静かだった。奥の個室席で、第三王子派の今後の動きに関する報告書に目を通す。
頭の中では、まだクラリッサの笑顔がちらついて邪魔だった。あのパーティーで見た、必死に笑顔を保ちながらも泥を被ろうとした彼女の姿が、なかなか脳裏から離れない。
妹が生まれた時に頭に流れ込んできた記憶にいた、ただのお助けキャラ。本来なら名前を覚える必要もない相手。妹の悪役令嬢化と我が家の没落を避けるために、情報源として利用していただけなのに。
好感度を確かめるためのあのパーティーは、ヒロインことサーラ・モラレスよりもクラリッサに自然と目が向いてしまった。
ゲームと同じ場を用意すべく打ち合わせを重ねていたが、彼女はしっかり理由をもってゲーム通りの物に決定していった。あの舞台にはそのような意図があったのかとこちらが驚かされたほどだ。ゲームでは彼女に焦点があてられることはない。当然だ、ヒロインではないのだから。でも、当日なんとかパーティーを成功させようと立ち回る彼女を見ていると、生きてることを認識させられた。
─ここはゲームの世界ではない。誰もが自分の人生を生きている。
そう思ったら、もうダメだった。
打ち合わせからあんなに一生懸命な姿を見せられて、微笑みかけられて。胸が高鳴らない男なんているだろうか?
でも、この世界は身分が物を言う。クラリッサは平民、自分は貴族、しかも公爵。なんとか横槍入れられず手に入れる方法は。
第一王子に王位は務まるはずもないし、つけさせない。第二王子は穀倉地帯への婿入りを決めている。となれば、王位が回ってくるのは妹の婚約者。今は距離をおいているようだが、まああの人のことだ、なにか意図あってのことだろう。多分、サーラ関係の。
そうすると我が家は王妃の実家。ここで自分が高位貴族と婚姻するようなことがあれば、力の均衡が傾きすぎてしまう。ここにつけ込めないだろうか。
「フリッツ・メレル!!」
考え込んでいると、図書館の静寂をぶち破る、甲高い声が響いた。サーラ・モラレスだった。息を切らして個室に飛び込んできて、机に両手をつき、顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「イベント取られたわよ!またあんたのせいね!!」
「……何の話だ?」
眉を寄せた。サーラは苛立った様子でまくしたてる。
「私の誘拐イベント!本来なら私がヒロインとして攫われて、誰かが助けに来るはずだったのに!待ってた私の目の前でクラリッサが攫われてったのよ!」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……クラリッサが?」
声が、自分でも驚くほど低く掠れていた。心臓が、激しく不規則に鳴り始める。報告書を握っていた指が、白くなるほど力を込めていた。
サーラはまだ文句を続けている。
「本当に最悪!ルートが全部めちゃくちゃじゃない!あんたが何か手を回したんでしょ!?」
クラリッサの客に向ける笑顔。パーティーで泥を被りながらも必死に笑顔を保っていた姿。公爵邸でタルトを美味しそうに食べていた、屈託のない表情。
すべてが、瞬時に脳裏を駆け巡った。報告書が床に落ちるのも構わず、立ち上がる。
「な、なによ」
「失礼モラレス嬢、私はこれで」
「はあ!?なに言って─」
「お前一人だけ連れて行く。馬車を用意しろ」
ヒロインがわめこうがどうでもいい。図書館を飛び出しながら、侍従の一人にだけ声をかけた。
多くの人間を連れていけば、相手に動きを察知される。一人だけで十分だ。
すぐさま用意された馬車の中で、拳を強く握りしめる。
(クラリッサ……)
彼女の笑顔が、必死におもてなしをしていた姿が、頭から離れない。
「……絶対に、助ける」
低く、掠れた声が自分の口から漏れた。馬車は、夕暮れの学園を後にして、夜の闇へと駆け出していった。




