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学園売店店員の穏やかではない日々  作者: 夢幻


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 どれほどの時間が経ったのだろう。

 目隠しをされ、乱暴に馬車へ揺られた果てに、冷たい石床の部屋へと放り出されていた。視界を奪われ、両手首を後ろできつく縛られた状態では、ここがどこなのかも分からない。ただ、鼻を突くカビ臭さと、じっとりとした湿気から、どこかの地下室であることだけは察せられた。


(怖い……お父さん、お母さん……っ)


 恐怖で歯の根が合わない。けれど、泣いて悲鳴を上げることだけは必死に堪えていた。私はドーミエ商店の娘だ。ここで無様に命乞いをして、実家の商店に変な噂が付きまとうのは嫌だった。

 カツン、カツン、と重々しい足音が響き、目の前の目隠しが手荒に剥ぎ取られる。眩しさに目を細めると、そこに立っていたのは、豪奢だが悪趣味な衣服を纏った、見覚えのない中年の貴族男だった。その背後には、いかにも裏稼業といった風体の、体格の良い男たちが数人控えている。


「ふん、本当にただの平民の小娘だな。こんな芋臭い娘が、あのメレル公爵家の若造を揺るがしているとは、笑わせる」


 男は蔑むような笑みを浮かべ、革靴の先で私の顎を乱暴に持ち上げた。


「あのフリッツ・メレルが先日、平民の商店を侮辱した夫人たちを公爵家の威光で脅しつけて黙らせたと聞いてな……。どんな大層な女かと思えば。やはり、あの小僧も青二才だ。この程度の小娘に振り回されているとは、絶好の弱みだな」


「っ……フリッツ様は、関係ありません! 私はただの、学園の売店の店員です……!」


「黙れ、平民が気安く口答えするな」


 男は忌々しげに舌打ちすると、背後の男たちを顎で指した。


「おい、この娘の服を剥ぎ取れ。身代金の要求と、こいつが泥塗れになって泣き叫ぶ姿をメレルへの脅迫状に添えてやる。払うなら平民ごときを重んじると噂が立つし、払わないなら非情なことよ噂が立てれる。ふっ、社交界でどれほどの泥を被ることか……これで第三王子派閥も終わりだ」


「え─」


 男たちのニヤついた視線が一斉にこちらに注がれ、大柄な手が制服の襟元へと伸びてくる。布地の擦れる嫌な音が地下室に響いた。


(嫌……っ、触らないで……!!)


 心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。フリッツ様に利用されていたと知って落ち込んでいたはずなのに、こんな瞬間に脳裏を過るのは、あの人の優しい笑顔と、掴まれた手首の熱さだけだった。


「フリッツ、様…」


 呟きは絶望の涙と共に虚空へ消える







 ─はずだった。


 バンッ!!と音がなり、扉が蹴破られた。木片は飛び散り、部屋の中が一瞬静まり返る。


「な、なんだ!?」


「誰だ!」


「うるさい」


 その声を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。

 いつも優しく名前を呼んでくれる、あの涼やかで甘い声ではない。地獄の底から響いてくるような、低く、一切の感情が削ぎ落とされた、剥き出しの殺意。


「フリッツ、様……?」


 扉の向こうから現れたフリッツ様は、いつも通りの微笑みなんて、少しも残っていなかった。前髪は乱れ、瞳は見たこともないほどギラギラとした狂気を孕んで鈍く光っている。衣服の一部には返り血のようなものまで付着しており、彼がここまでどれほどの障害を越えてきたかが一目で分かる。

 部屋を見回すフリッツ様と、目があった。一滴、涙が流れていく。彼の目が、見開かれた。


「その汚い手で、彼女に触れるな!!」 


 最初に反応した取り巻きの一人がナイフを抜いて斬りかかってくる。

 フリッツ様は身を低くしてそれをかわし、肘鉄を顎に叩き込み、続けて膝を腹に叩き込んだ。男は悶絶して床に崩れ落ちる。


「てめえ、メレル家のガキが……!」


 別の男が剣を抜いた。フリッツ様は剣を避けながら懐に飛び込み、男の手首を捻り上げて剣を落とさせ、顔面に強烈な掌底を叩き込む。

 鼻血を噴き出して男が吹っ飛んだ。


「邪魔だ」


 だが三人目の男がフリッツ様の背後からナイフを振り下ろした。


「フリッツ様、後ろ!」


 私の叫びで彼はギリギリで身を翻し、肩を浅く切りつけられた。血が滴るのを見て、胸が締め付けられる。それでもフリッツ様は表情一つ変えず、男の手首を掴んで捻り上げ、顔面に肘を叩き込んだ。


「ひっ、メ、メレル公爵子息!? なぜここが──ぎゃああああっ!?」


「黙れ」


 フリッツ様の声は氷のように冷たい。一瞬で間合いを詰め、貴族の腕を捻り上げ、顔を石のテーブルに叩きつけた。

 ガァン!

 血とワインが飛び散り、男が悲鳴を上げる。


「彼女に……触れたこと、一生後悔させてやる」


 フリッツは貴族の首を押さえつけながら、冷徹な目で側近に命じた。


「全員捕らえろ。後で正式に罪を問う。……容赦はするな」


「あ……、あ……」


 あまりの恐怖と圧倒的な光景に、声も出せずに震える。そんな私に気づいた瞬間、フリッツ様の瞳から狂気がスッと消えた。眉が下がり、心配そうに駆け寄られる。


「クラリッサ……!」


 フリッツ様はなりふり構わず床に膝をつくと、縛られていた私の縄を一瞬にして切り、自らの上等な上着を脱いで、破れた襟元を包み込むように羽織らせた。壊れ物を扱うように、けれど骨が軋むほどの強い力で、その胸の中に抱き締められる。


「大丈夫か?怪我は?触られたか?」


「だ、大丈夫です。少し、襟元を、触られただけ…」


 矢継ぎ早に尋ねられ、震えながらも口を開く。


「くそっ、でも良かった、間に合って……。君が消えたと聞いて、俺は……俺は………!」


 耳元で聞こえるフリッツ様の声は、私よりよっぽどガタガタと震えていた。抱きしめる手も、驚くほど熱くて、そして怯える子供のように震えている。

 その声と温かさに、気持ちがほぐれていく。


 クラリッサ。


 今さら、名前を初めて呼ばれたことに気づいた。




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