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「フリッツ様、ご用意が出来ました」
「ああ、ありがとう」
普段の服とは全く異なる、ごわごわとした質感の服に腕を通す。目立つ黒髪は、ありふれた茶に変えた。
「では、行くか」
あの、イベントの場所へ。
◇◇◇
3つ下の妹、カトリーヌが生まれた時、別の人生の記憶が頭に流れ込んできた。ゲーム、というものの記憶だった。
そこでは妹は今と同じく第三王子の婚約者となっていたが、もっと陰鬱で、仲も上っ面だけ。あの執着じみた溺愛っぷりは影も形もなく、転入生に心を奪われた第三王子に婚約破棄を言い渡され、実家は没落していく。
最悪だ、と思った。
そこからやれることは何でもやった。思い違いにより不仲だった両親の仲直りに奔走し、妹は過度に甘やかしすぎないように。心変わりをするのは人の常、ということも繰り返し伝えてきた。自分自身は、勉強も武術も手を抜かず。第三王子との顔合わせでは妹以上に緊張していたものだ。
記憶は飛び飛びで、詳細まで分からないものもあったが、繰り返し出てくる人物がいた。
それが、クラリッサ・ドーミエだった。
授業時間以外は売店にいて、王子達の話を振ると近況を教えてくれる。それを元に行動すると、転入生は王子達との仲を深めることができる。
危険人物として、入学してからこまめに通うようにした。記憶の中では王子達以外の話は殆どしなかったように思うが、実際通ってみると色々な生徒と関わっているようだった。
打ち合わせでもそうだ。こちらの振った話に合わせているだけで、別に王子達の話題しかできないわけではない。むしろ、彼女から話すのは商品に客に、売り上げに。商売のことばかり。
─クラリッサ・ドーミエは、俺が知っているはずの人物とはまるで違っていた。
茶髪に眼鏡、平民の服を着て、王都の平民街にあるドーミエ商店の前に立つ。
ゲームの記憶が正しければ、ここは中盤、転入生がスチルを回収しに訪れる場所の一つだ。タイミング的に、今日か来週末。
木製の古びたドアを押した。カランカラン、と素朴な鈴の音が響く。一歩足を踏み入れて、小さく目を見開いた。
こじんまりとした店内だが、埃一つない。棚の配置、商品の回転率、そして何より文房具から日用品にいたるまで、客が手に取りやすいよう計算されて陳列されている。
学園の売店で見せる手腕のルーツがここにあるのだと、感心したように棚を眺めていると、奥の木扉が勢いよく開いた。
「いらっしゃいませー!ドーミエ商店へようこそ!」
響いたのは、学園の売店で聞くトーンよりも、ずっと高くて、弾むような、元気な声だった。
そこには、実家のエプロンをきゅっと結び、カーキの髪をラフにお団子にまとめたクラリッサの姿があった。
額にかすかに汗をにじませ、いかにも看板娘といった風情で、満面の笑みを浮かべている。
思わず、息を呑んだ。
学園での彼女は、こちらを前にするといつも緊張で顔を強張らせるか、商売用の穏やかな笑顔を作っていた。だが、今目の前にいる彼女は違う。
完全にリラックスして、客と談笑しながら表情をころころ変えている。
「……っ」
咄嗟に気配を消し、手近なインクの瓶を手に取って顔を伏せた。
クラリッサの視線が一瞬、こちらへ向く。心臓がなぜか激しく跳ね上がった。
「あ、新規のお客様ですね! 文房具をお探しですか? 奥の棚に今季の新作の便箋もありますので、ごゆっくりどうぞ!」
そう言って、クラリッサは屈託のない笑みを向けた後、すぐに常連らしき平民のおじさんの対応に戻ってしまった。
(よし、気づかれなかった)
完璧に変装が成功したことに安堵するのと同時に、胸が痛んだ気がして内心首をかしげる。
彼女のあの、守るべき境界線のない、ただの少女としての無防備な笑顔。それが、珍しかったからだろうか。いや、それだけではない。打ち合わせの席で見せる笑顔より、ずっと年相応だったからか。あるいは、あれが本来の彼女なのだと知ってしまったからか。
平民の客には簡単に向けられるのに、公爵家であるこちらには、どれだけ打ち合わせを重ねても絶対に見られないもの。
(何を考えているんだか)
手の中のインク瓶を見つめながら、自嘲気味に口の端を上げる。
その時だった。
「ねえ、ルーカス様。ここ素敵、寄っていきましょうよ」
「ああもちろん、モラレス嬢」
よく知った二人の声が聞こえて、気配を消してそちらの様子をうかがう。
転入生はやはり、妹の婚約者、第三王子ルーカスに狙いを付けているようだ。
「わあ素敵、どれもいいわねえ」
「本当だね」
「いらっしゃいませ!あら、モラレス嬢に…っ!?」
クラリッサが息を飲む。そりゃあそうだろう、素顔を全面に晒した第三王子がこんなところにいるんだから。警備は?と侍従を見ると首を振られた。本当に二人きりらしい。記憶にあるイベントの通りだ。
「本日はどのようなご用件で…?」
「彼女が欲しいものがあるというから見にきたんだ」
「そうなの!可愛い髪飾りがほしくって…これなんかどうかしら」
「うん、君なら何でも良いと思うよ」
嬉しそうにしている転入生には悪いが、確実に何でもどうでも良いと思うよ、だと思う。対外的に抗議しないのはおかしいから転入生に強く当たっているが、ルーカスの妹への入れ込みっぷりは異常だ。他人が割って入れるものではない。
でも、それが分からない人間もいるもので。クラリッサの低い声が、こちらまで聞こえてきた
「申し訳ありません。私はその商品を売れません」
「ほう?」
「えーっ何で?」
無邪気な声が店内に響く。視線が、集まっていく。それでもクラリッサは退かなかった。
「髪飾りを贈る行為は、婚約者がいる方に推奨できないからです。うちの商品を買って、悲しむ人がいると分かっているのにお売りできません」
「はあ!?私が買いたいのよ!?」
「でん…そちらの方からの贈り物ではない、ということでしょうか」
「いやそれは、買ってもらいたいと思ってたけど…」
記憶の中のクラリッサなら、喜んで商品を売っていた。とてもお似合いだわ、と。そして転入生は攻略対象者との好感度を上げる。それがイベントだった。
だが目の前のクラリッサは違う。彼女はもう一度、きっぱりと言った。
「モラレス嬢が自分で買うのならお売りします。でも、そちらの方が買うのなら。申し訳ありませんが、他のお店へ」
「なによ!」
「嬢ちゃん、クラリッサちゃんの言う通りだ!」
「というかそこの坊っちゃんがいけねえ、婚約者がいんのになんで女と出歩いてんだ?」
「二股かい?ふざけないでおくれ!」
転入生が反発しようとしても、他の客がクラリッサに加勢していく。
「な、何よそれ! 商人のくせに、客が買いたいって言ってるものを拒否するなんて! ルーカス様、言ってやってください!」
キンキンと甲高い声でルーカスにすがる転入生。
だが、ルーカスの反応は、彼女の期待とは全く異なるものだった。
「……いや。ドーミエ嬢の言う通りだ」
「えっ?」
「騒がせてすまない。私たちはこれで」
「ちょっと、ルーカス様ぁ」
さっさと踵を返すルーカスに、名残惜しそうに商品を見ながらも、転入生も出ていく。それをインク瓶を棚に戻しながら見つめた。
カトリーヌのために、王子相手に一歩も引かなかったクラリッサ。彼女はその一本気な誠実さで妹を守ってくれていたのだ。
(ああ、本当にゲームの記憶は当てにならないな)
思わず苦笑する。要注意人物?ただの、気の良い商人だ。
「お騒がせしてすみませんでした! あ、そちらのお客様、お待たせしてしまって……」
店を出ようとしたが、こちらへ彼女が申し訳なさそうに歩いてくる。帽子を深く被り直し、極力声を低くして、先ほどまで握っていたインク瓶を差し出した。
「……いや。これを、一つ」
「ありがとうございます! 毎度あり!」
彼女の指先が、包みを手渡すときにほんの一瞬、手に触れた。その温かさがいやに気になる。
彼女は最後まで、目の前の地味な平民がフリッツ・メレルだとは気づかないまま、満面の笑みで見送ってくれた。




