13
翌朝。
窓から差し込む柔らかな朝日の光で、目を覚ました。色々とありすぎて、泣きながら眠ってしまったらしい。
一晩眠ったことで、昨日の出来事で動転していた頭が冷えたのを感じる。泣き腫らした目は重く、胸の奥はまだズキズキと痛んだけれど、ドアが静かに開く音で、ハッと身構えた。
「あら、目が覚めたのね。気分はどうかしら」
入ってきたのは、メレル嬢だった。その瞳には、私を心から心配するような温かい色が浮かんでいる。
「メレル嬢……。あの、申し訳ありません、平民の私がこのようなお部屋を……」
「いいのよ、気にしないで。それに二人きりじゃない、畏まらないで!で、できれば、カトリーヌって呼んでもらえると嬉しいわ。お兄様から、あなたがひどい目に遭ったと聞いて本当に心配したの。……でも、お医者様からは怪我は軽いと聞いているし、顔色も昨日よりはずっと良さそうで安心したわ」
メレル嬢─カトリーヌ様はホッとしたように息を吐くと、ベッドの端に腰掛け、私の背中を優しく、ゆっくりとさすってくれた。年下とは思えないその気遣いと手の温かさに、昨日から張り詰めていた心が、少しずつ溶けていくような気がした。
「ただね、お兄様から伝言を預かっているの。『目が覚めたのであれば、我が家に長居されては困る。すぐに馬車を用意させるから、速やかに実家へ帰ってくれ』……だそうよ。今後の定期取引も、一度白紙にするという通知書も一緒にね」
「契約を……白紙に……」
差し出された冷たい書面を見つめながら、視界がまた悔しさで歪みそうになる。やっぱり、昨日の迷惑だ、という言葉は本気だったのね。利用価値がなくなったから、私のことも、商店のことも、全て切り捨てるんだわ。
耐えられず、俯いてしまう。カトリーヌ様は困ったように、けれど変わらない優しさでさすり続けてくれる。
「お兄様ったら、何を考えているのか分からないわね。……でも、あなたは何も悪くないわ。今回は公爵家の不手際なのだから、自分を責めたりしないでね」
カトリーヌ様は立ち上がると、元気づけるように微笑んだ。
「馬車の準備はできているわ。少し落ち着いたら、学園の売店にもまたお邪魔するわ!」
「……っ、はい。ありがとうございます、カトリーヌ様」
彼女が部屋を出て行くと、客室はしんと静まり返った。何だかぼんやりしてしまう。一人、ベッドの脇に置かれたフリッツ様の上着を見つめた。
◇◇◇
実家に帰ると、開口一番心配された。それはそうだろう、いきなりの外泊なのだから。
「帰り道体調がいきなり悪くなって、道路でうずくまってたんですって?」
「様子を見ていただいたって聞いたけど、大丈夫か?」
「転んじゃったんですか、少し傷が。しかしすごいっすね、公爵家って。いきなり人泊めれるんだ」
そういうことになってるのか、と思いながら口を開く。
「大丈夫。ごめんね、心配かけて」
重い気持ちを抱えたまま定期取引が白紙になったことを伝えると、やっぱりね、という雰囲気だった。貴族が庶民を振り回すのはいつものことなのだから。
傷ついても朝はくる。いつも通り登校して、売店を開ける。昼休みにきた後輩─ファリーナは、明るく笑いかけてきた。
「クラリッサ先輩!パーティー大成功だと伺いました。お疲れ様です」
「ありがとう、何とかなったわ」
「私のところにまで小麦取引できないかって問い合わせきてますよ」
「あら、それはよかった」
「…疲れてます?」
「え?」
「値札、一桁違いますけど」
やっちゃったわ。
いつも通りを心がけてはいるけれど、間違えてしまうものは仕方ない。
「レモンティーいれてきますね!」
「待って!」
思った以上に大きな声が出てしまい、ファリーナがきょとんと目を瞬かせる。
「あ……ごめんなさい」
「いいえ、どうされました?」
脳裏に黒髪がちらつく。レモンティーを飲むには、ほろ苦すぎる。
「今は…ミルクティーがいいの」
「珍しいですね」
「何が?」
「先輩、いつもレモンティーじゃないですか」
「……、」
その言葉に、胸の奥がキュッと締め付けられる。そうだ。一息つくとき、自然と手が伸びるのはいつも爽やかな柑橘の香りがするお茶だった。私の好みを知っていたから、フリッツ様は公爵邸のあの部屋をレモンの香りで満たしていたのだろうか。嵌めるための計算として?黒髪黒目の外見じゃなくて、腹の中が黒いから黒王子なんじゃないかしら。
思考がまた暗い方へ引っ張られそうになり、慌てて頭を振る。
「そう、かしら。たまには、甘いものが恋しくなる時もあるのよ」
「ふふ、分かる気がします。じゃあ、とびきり甘いミルクティーを淹れてきますね」
ファリーナがトントンと軽い足取りで奥の給湯スペースへ向かうのを見送りながら、小さく息を吐き出す。
いつも通り。いつも通りに営業しなきゃ。
そう自分に言い聞かせてカウンターの前に立ち直した、その時だった。
「クラリッサ!」
──また貴女なのね、モラレスさん。
息を荒くして売店に突っ込んできたモラレスさんは、相変わらず不満げに眉を釣り上げていた。
「ちょっと! あんた、フリッツ様に何を吹き込んだのよ!? 誘拐イベントがめちゃくちゃになったせいで、シナリオの修正が大変なんだから! なんでフリッツ様ルートみたいな──」
騒ぎ立てるモラレスさんの声に、周囲の生徒たちの視線が集まっていく。またゲームがどうの、ルートがどうのと。頭が痛くなりそうだった。
けれど、モラレスさんの言葉はすぐに途切れた。背後から近づく冷徹な気配に、カツン、と硬く冷たい足音。
「……モラレス嬢。こんなところで何をしている」
心臓が跳ね上がった。
現れたのはフリッツ様だった。いつも通りの姿。けれど、そのお人形のように整った美しい顔には、いつもの穏やかな微笑みなんて欠片もなかった。
「フリッツ様! ちょうど良かったわ、貴方にも言いたいことが──」
「淑女科は確か次、体力育成だったな。訓練場までは遠い。ここで油を売っている暇はないのでは?」
フリッツ様は、モラレスさんの言葉を遮るように冷たく言い放った。思わず、縋るような思いでその瞳を見つめてしまう。けれど──こちらをチラリとも見なかった。関わらない、という言葉は本気だったのだ。
まるでそこには誰もいない、ただの背景か何かであるかのように。あの日、怪我はないかとガタガタ震える手で私を抱きしめた人と同じとは思えないほど、その瞳は酷く冷え切っていた。
「え、ちょっと待ってよフリッツ様! 腕引っ張らないで──!」
文句を言うモラレスさんの腕を掴み、フリッツ様はそのまま促すように歩き出す。去り行く二人の背中を、私はただ、木立ちのように立ち尽くして見つめることしかできなかった。
「先輩、お待たせしました!とびきり甘いミルクティーですよ」
ファリーナがトレイを持って戻ってきたときには、指先は、まるで冬の氷に触れた時のように冷たくなっていた。
差し出されたカップから、優しく甘い湯気が立ちのぼる。
なぜだろう。一段と、甘いものが欲しくなった。




