メニュー059 水⑦
大三郎は、フィリアを見て口元を大きく歪めた。
「これはこれは、三流喫茶店の三流経営者じゃないか。こんな所までやって来るとは図々しい女だ」
嘲笑を隠そうともしない声音だった。
フィリアは表情一つ変えず、丁寧に頭を下げる。
「あなたに、お話があって伺いました」
「話なら妻から聞いている。私の家で公安だの超法規的措置だの、好き勝手な嘘を並べ、大立ち回りを演じたそうじゃないか」
病室の空気が一気に冷え込む。
それでもフィリアは、大三郎の挑発に乗ることなく、真っ直ぐ彼を見つめ返した。
「蘭ちゃんの全身がアザだらけでした。あれは、あなたの仕業ですか」
フィリアのその言葉に、大三郎は小さく舌打ちをした。
「本来なら怒鳴って追い返してやりたいところだが、ここは病室だからな。冷静に忠告してやろう。いいか、これは我々親子の問題だ。そして私には私の指導方針がある。貴様が口出す余地はない」
「蘭ちゃんは、私の大切な友人です。どんな理由があろうと、彼女を傷つけることは許しません」
一瞬の静寂の後、大三郎は腹を抱えるほど大きく笑い出した。
「ハッハッハ!許さないだと?貴様は、まだ自分が置かれている状況が分かっていないようだな。いいか、この後お前は警察に逮捕される。娘の誘拐、拉致、監禁、私への暴行、名誉毀損、自宅への不法侵入……罪状はいくらでもある。せいぜい逮捕されるまでの短い時間を楽しむことだ」
脅しにも等しい言葉だった。
フィリアは、大三郎の言葉を聞き流すようにベッドへ視線を移した。
眠り続ける良太を見つめ、静かに問い掛ける。
「息子さんは、まだ目を覚まされないのですか」
「逮捕されると聞いて話を変えたな。まあいい。こいつは脳に障害を負っている。医者は『このまま目を覚まさないかもしれない』と言っている。息子が跡を継げない以上、あのクズに会社を継がせるしかない」
「それで蘭ちゃんに暴力を振るってまで、無理やり部屋に閉じ込めたのですか?彼女は、ずっと部屋で震えていました」
「娘の意思など関係ない。私が守るべきものは、日向製薬の未来だけだ」
「……そうですか」
フィリアは小さく息を吐いて、ゆっくり立ち上がった。
「二度と娘に近付かないと約束するなら、警察への通報は見逃してやってもいい。貴様みたいな世間知らずのお嬢様が、牢屋生活に耐えられるとは思えんからな」
「牢屋なら……知っています」
フィリアは、病室に置かれた一本のペットボトルを手に取った。
透明な水が静かに揺れる。
「これは……水ですか?」
「ああ、さっき買ったものだ。捨てておいてくれ。ついでに、お前も病室から立ち去るんだ」
「用事を済ませたら、すぐに出ていきます」
「用事だと?私は、お前に用などない」
「私も、あなたに用はありません。この病室へ来た目的は、あなたに会うためではありませんので」
「私に会うためではない?では何のために来たというのだ。植物状態の息子へ花でも供えに来たのか?」
フィリアは、静かに首を横へ振ると、ペットボトルの蓋をゆっくり開ける。
そして、小さな祈りを捧げ始めた。
眩い光が、一瞬で病室全体を照らし、さらに廊下へ、病院全体へと広がっていく。
大三郎は「な、なんだ!?何が起こっている!?」と叫んだ。
光は勢いを増し、病院中を昼間以上の明るさで満たしていく。
やがて、病室を埋め尽くしていた光は、朝霧が晴れるように薄れていった。
光が完全に消えると、病院は騒然となった。
「今の光は、なんだ!?」
「この病室からだ!」
「落雷か!?」
「馬鹿を言うな!病院の個室に、雷が落ちるはずないだろ!」
病院スタッフ達が、次々と病室にやって来て、突然起きた異常事態に戸惑いながら周囲を見回している。
一方フィリアは、良太の枕元へ立ち、呼吸器を外し、ペットボトルの水を彼の口元へ運んでいた。
大三郎は、目の前の光景を見た瞬間―――
「なっ!き、貴様!何をしている!」
病院スタッフが、フィリアに詰め寄る。
「やめなさい!」
「あの女を止めろ!」
「警備員を呼べ!」
スタッフ達は、慌ててフィリアの腕をつかみ、その身体を押さえようとする。
その時だった。
良太の身体から黄金色の光が溢れ出した。
誰もが言葉を失う。
そして―――
良太の瞼が、ゆっくりと開いた。
病室の空気が止まる。
良太は「……ここは?」と、言葉を発した。
病院スタッフは、慌てて脈拍、瞳孔、呼吸を確認していく。
「脳波も正常だ!」
「神経反応も回復している!」
「そんなバカな!」
「あり得ない!」
スタッフ達が、驚愕の声を上げる。
大三郎は「……な、何が起こったんだ……」と呟いた。
フィリアは、良太へ優しく問い掛けた。
「お身体の具合はいかがですか?」
良太は、何度か腕を動かして、身体を起こすと、フィリアに視線を向けた。
「あなたが……僕を助けてくださったのですか?」
フィリアは誇ることなく、小さく微笑んだ。
相手は、憎むべき男の息子だ。
だが、その前に一人の患者だ。
『患者を救う』
フィリアにとって、何よりも優先される事だ。
そしてフィリアは、大三郎へ顔を向ける。
「息子さんの意識が戻りました。これで蘭ちゃんは自由のはずです。ですので彼女は、私が責任を持ってお預かりいたします」
大三郎は、震える唇でフィリアを凝視している。
「お前は……何者なんだ?……」
フィリアは、その問いには答えなかった。
「息子さんは、おそらく完治しておりますが、もし身体の調子が優れないようでしたら、残りのお水を飲ませてあげてください」
こうしてフィリアは、病室を後にした。
残された病室では、長い沈黙が流れた。
完全に回復した良太。
呆然と立ち尽くす大三郎。
医学では説明できない奇跡を目の当たりにした病院スタッフ達。
この日の出来事は、日本中を揺るがす大事件の始まりとなる。
そして日向製薬は、この奇跡を境に、破滅の道を歩み始める。
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