メニュー055 水③
薬師ギルドの中庭で、一人の少女が楽しそうに走り回っている。
「ガイアス!見て見て!お花さんが元気になったよ!」
「さすがじゃな、フィリア。毎日、お世話を頑張ったからじゃな」
「えへへ!」
ガイアスに頭を撫でられた幼きフィリアは、嬉しそうに、はにかむ。
「よいか、フィリア。お主の聖魔法は、たくさんの人を助けることが出来る素晴らしい力じゃ」
「うん!そうだね!」
「じゃが、その力は同時に、この国の均衡を変えかねないほど大きな力でもある」
「きんこう?」
「まだ、少し難しかったかもしれんな」
そして、フィリアの肩へそっと手を置いた。
「ただ、一つだけ約束してほしいことがある」
「約束?」
「お主の聖魔法を、水へ直接使ってはならんぞ」
フィリアは、不思議そうな顔を浮かべる。
「ガイアス、どうして水に聖魔法を使っちゃだめなの?」
「それはじゃな……」
◆
夜、喫茶異世界の蘭の部屋では、静かな空気が流れていた。
フィリアは、蘭の腕へ丁寧に湿布を当てている。
昼間に受けた暴力の痕は痛々しく、腕にも頬にも大きな痣が残っていた。
「蘭ちゃん、大丈夫ですか」
蘭は小さく微笑もうとしたが、その表情は痛みに歪む。
「私は……大丈夫」
その声には、少しも大丈夫な様子はなかった。
フィリアは胸が締め付けられる思いで蘭を見つめる。
「フィリアさん……巻き込んでしまって……ごめんなさい」
「私のことは気にしないでください。それよりも、今夜はゆっくり休んでください。身体を休めることが一番大切です」
蘭は、小さく頷いた。
フィリアは、その姿を見つめながら強く思う。
(絶対に蘭ちゃんを、あの男の所へ帰してはいけない)
(もう二度と、こんな傷を増やしてはいけない)
その決意は、何よりも強かった。
「蘭ちゃん、少し待っていてくださいね」
「……うん」
フィリアは部屋を出ると、一階へ降りて、流し台の前に立った。
棚からグラスを取り出し、水道の蛇口をひねる。
水が音を立てながら、グラスを満たしていく。
その水面を見つめるフィリアの表情は、どこか悲しげだった。
「ガイアス……約束を破ってごめん」
フィリアの右手から、柔らかな光が溢れ始める。
それは一瞬で、喫茶店全体を包み込むほどの眩い光へ変わっていく。
◆
「ガイアス、どうして水に聖魔法を使っちゃだめなの?」
「それはじゃな……聖女を越えるからじゃよ」
◆
店内のすべてが神々しい光に照らされて、昼間よりも明るい世界が広がった。
普通の人間なら、その眩しさに目を開けていることさえ出来ないだろう。
だがフィリアは、その光の中心を、じっと見つめている。
少しも眩しそうな様子はない。
その理由は、フィリアの【瞳】にあった。
フィリアの瞳は【蒼い】。
『青』ではない。
『蒼』だ。
『蒼色の瞳』は―――
【初代聖女の瞳の色】
聖女は、代を重ねるに連れて、瞳の色が薄くなっていく。
聖魔法の力も弱まっていく。
やがて瞳の色は、『蒼』から『青』へ変化していった。
聖女マリーの瞳は、『薄い青色』だ。
フィリアは、【初代聖女の力】を引き継いだ【先祖返り】であった。
つまりフィリアは、聖女マリーを遥かに凌ぐ聖魔法を有している。
やがてグラスの水は、静かに輝きを収める。
透明の水は、見た目こそ変わらないが、奇跡とも呼べる力が宿っていた。
フィリアは、蘭の部屋の扉を開いた。
蘭は、布団に横になったまま、痛みに耐えるように腕を押さえている。
フィリアは、できるだけ普段と変わらない笑顔を見せながら、グラスを差し出した。
「蘭ちゃん、お水を持ってきました。喉も渇いていると思いますので、ゆっくり飲んでください」
「……ありがとう」
蘭は一口だけ、水を口へ含む。
その瞬間、柔らかな光が、蘭の身体を優しく包み込んだ。
「……え?」
突然の眩しさに、蘭は思わず目を閉じる。
頬に残っていた痛みが消えた。
腕を締め付けていた痛みも、まるで最初から存在しなかったかのように薄れていく。
やがて光は消えた。
蘭は腕を触れる。
「……痛くない」
信じられないという表情で、頬へも手を伸ばす。
腫れも熱も消えている。
フィリアは、安心したように微笑んだ。
「よかったです。これで一安心ですね。でも念のため、明日は、一日ゆっくり休んでください」
蘭は、自分の身体を何度も確かめたあと、フィリアへ視線を向ける。
「……フィリアさん」
「はい?」
「フィリアさんは……何者なの?」
「そうですね……蘭ちゃんには、いつか全部お話しします……いつか必ず」
蘭は、フィリアの優しい笑顔を見つめ、小さく頷いた。
「……うん」
しばらく沈黙が流れたあと、蘭は照れくさそうに呟く。
「コーヒー……飲みたい」
「コーヒーですか?今飲むと眠れなくなってしまいますよ」
「今……飲みたい」
その言葉を聞いたフィリアは、小さく微笑む。
「わかりました。それでは、とっておきの一杯を淹れてきますね」
「……ありがとう」
フィリアは一階へ降りると、静かにサイフォンの前へ立った。
『おい三流経営者、牢屋に入った事はあるかね?貴様のような、お嬢様は、ないだろうねぇ。だが、床に這いつくばるクズが、私に逆らえば、貴様はブタ箱へ入る事になる』
あの男の言葉が蘇る。
(たとえ私が、この国の牢屋へ入ることになったとしても構わない)
(蘭ちゃんは、必ず守ってみせる)
(マスターが残した『喫茶異世界』も、必ず守ってみせる)
すると、階段を下りる足音が聞こえてきた。
フィリアが振り向くと、蘭がゆっくりと歩いてきた。
「もう身体は、大丈夫なのですか?」
「うん……お水を飲んだら……痛みがなくなった……不思議」
フィリアは、一瞬だけ動揺したものの、すぐに笑顔を作る。
「そ、そうですか。それは本当によかったです。そうだ、一緒にシュークリームを食べませんか?今日の分を、まだ食べていませんでしたから」
「……食べる」
二人は、いつものテーブル席に座った。
テーブルには、コーヒー2つと、シュークリームが並ぶ。
「それでは、いただきましょう」
蘭は、コーヒーを、ゆっくりと口へ運んだ。
「やっぱり……美味しい」
「ありがとうございます」
そして蘭は、静かに言った。
「フィリアさん……本当にごめんなさい……そして……本当にありがとう」
翌朝―――
「蘭ちゃん、朝食の準備が出来ましたよ~」
返事がない。
フィリアが扉を開けると、布団が綺麗に整えられている。
その部屋には、もう誰もいなかった。
蘭は―――
―――姿を消した。
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