メニュー054 水②
カランと入口の鈴が響いた。
「おい、ずいぶん騒がしいじゃねぇか」
店にあらわれたのは、権蔵だった。
「コーヒー豆の買い取りの打ち合わせに来たんだが、取り込み中なら出直そうか?」
そこまで言った権蔵は、店内の異様な光景に気がついた。
フィリアの服は水で濡れ、床は割れたグラスが散乱している。
蘭は、男に腕をつかまれたまま必死に抵抗している。
そして、蘭を守るようにフィリアが立ちはだかっている。
権蔵の表情から笑みが消えた。
長年、歌舞伎町で暮らしてきた男の目が、一瞬で状況を見抜く。
フィリアは「助けて下さい!権蔵さん!」と叫んだ。
権蔵は、大三郎を床に投げ飛ばした。
「コラッてめぇ!フィリアちゃんの店で、何暴れてやがるんだ!」
大三郎は「……何をする」と床に倒れ込んだ。
フィリアは、その隙に蘭を背中に隠した。
蘭は、フィリアの背中に、しがみついている。
蘭の腕には、強くつかまれた跡が残っており、顔の青アザも腫れ上がっていた。
大三郎は「貴様ら!この私を誰だと思ってる!そっちがそのつもりなら、私にも考えがあるぞ!」と発狂している。
権蔵も、負けじと声を張り上げた。
「誰だか知らねぇが!ここは俺達の、そして歌舞伎町の憩いの場所なんだ!余所者に荒らされてたまるか!なんなら今すぐ警察を呼んだっていいんだぜ!」
すると大三郎は、乱れたスーツの襟元を整えながら、大声で笑い始めた。
「ハッハッハッハッハッ!!!!!」
フィリアは「何がおかしいのですか」と問いかけた。
「警察とは傑作だな。どうやら、貴様らは私を知らないらしい」
「知らねぇな。俺には、若い女性に暴力を振るうイカれた奴にしか見えねえ」
「私は、日向製薬の代表、日向大三郎だ」
その言葉に、権蔵は眉一つ動かさない。
「それがどうした」
「日向製薬は、製薬業界において国内最大シェアを誇る企業だ。この国の医療を支えている。代議士や官僚とも付き合いがある」
「つまり、自分は偉いから、何をしても許されるって言いてぇのか」
「私は、現実を語っているだけだ。力のある者には、相応の影響力がある。当然の話だろう。私を警察へ突き出すと言っていたな。好きにすればいい。私は、警察官僚とも付き合いがある」
権蔵は「なるほどな」と呟いた。
「理解できたようだな」
「いや、イカれ野郎の言葉は、耳に入ってこねぇ」
大三郎の表情から笑みが消えた。
「そうか。やはり歌舞伎町の低俗な住人には、難しかったようだな」
そして大三郎は、蘭を指差して言った。
「お前に、最後のチャンスをやる。もし、お前が家に戻らなければ、この店を潰す。どんな手を使ってでも必ず潰す」
蘭は「……え」と顔を上げる。
「お前が慕う三流経営者のその女も潰す。私は、先程、その女から暴行を受けた。そして、娘を誘拐して洗脳した。この事実を持って、その女を地獄に落とす」
蘭は「……私……誘拐も洗脳も……されてない」と口にした。
そして権蔵が「おい、ちょっと待てよ!お前を投げ飛ばしたのは俺だぜ!フィリアは関係ないだろうが!」と言った。
すると大三郎は、再び笑い始めた。
「ハッハッハッ。そんなもの、でっち上げればいい。私には、人脈がある。私が『誘拐された』『監禁された』『暴行を受けた』と言えば、それだけで十分だ。真実など誰も気にしない。重要なのは、誰が言ったかだ」
蘭が「……私は」と小さく震える声を漏らした。
「お前が大人しく帰って来れば、この店も助かる。その女も助かる」
フィリアが「蘭ちゃん!聞いちゃダメ!」と呼び掛ける。
「全部……私の……せいだ……」
蘭は、そう呟くと、張り詰めていた糸が切れたように、瞳から大粒の涙があふれ出した。
涙は、止まることなく頬を伝い、制服の胸元へ落ちていく。
「蘭ちゃん!」
フィリアが慌てて駆け寄る。
蘭は、その場へ力なく膝をつくと、両手で顔を覆った。
「……ごめんなさい」
震える声だった。
「……ごめんなさい……フィリアさん」
「蘭ちゃんが、謝る必要なんてありません!」
フィリアは、肩に手を添える。
蘭は、小刻みに首を振り続けた。
「私が……ここに来たから……」
「違います!」
「私が……フィリアさんと……出会ったから……」
「違います!」
フィリアは、思わず大きな声を上げた。
「フィリアさんを……巻き込んじゃった……」
その言葉と同時に、蘭の身体から力が抜けた。
ガクリと前へ倒れ込み、床へ崩れ落ちる。
フィリアは、蘭の身体を抱き締めた。
蘭は、声を押し殺しながら泣き続けている。
権蔵は、その姿を見て拳を握り締める。
「……てめぇ」
低く唸るような声だった。
大三郎は鼻で笑う。
「クズは、泣けば許されると思っている。この程度で泣くような人間だから、何をやっても一流になれんのだ」
「黙れ!」
権蔵の怒声が店内へ響いた。
大三郎は、余裕の笑みを崩さない。
フィリアは、蘭の背中へ優しく手を添えながら、静かに囁く。
「蘭ちゃん、大丈夫ですよ」
その声は、蘭の心へ、ゆっくりと染み込むように響いていった。
フィリアは、蘭の背中をそっとさすりながら、大三郎を真っ直ぐ見つめた。
フィリアと大三郎の目が合う。
「おい三流経営者、牢屋に入った事はあるかね?貴様のような、お嬢様は、ないだろうねぇ。だが、床に這いつくばるクズが、私に逆らえば、貴様はブタ箱へ入る事になる」
その瞬間、フィリアの脳裏に、王宮の地下牢で過ごした光景が蘇る。
薄暗い石造りの地下牢。
冷たい床に敷かれた藁。
侮蔑と疑いの視線。
『国家反逆者』
『毒殺未遂』
『帝国の裏切り者』
身に覚えのない罪を着せられ、最後には、異界追放という運命が待っていた。
大三郎は、蘭を見下ろしながら、冷ややかな笑みを浮かべる。
「これ以上、ここで時間を無駄にするつもりはない」
そして蘭を指差し、最後通告を突き付けた。
「おい蘭!」
蘭は、ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた瞳には、恐怖が色濃く残っている。
「お前に一晩だけ時間をやる。明日、必ず家に帰って来い。そうすれば、この店も、その女も助かる。全てはお前の行動しだいだ。判断を誤るなよ」
フィリアは、唇を噛み締める。
「だが、お前が私の命令に逆らえば、店は潰れ、三流経営者の女は地獄行きだ」
そして大三郎は、店を後にした。
カランと鈴が、小さく鳴る。
いつもは、客を送り出す優しい音色。
だが、この日は違った。
胸を締め付けるような、切ない音だった。
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