メニュー053 水①
ようやく梅雨が明けて、本格的な夏が到来した。
喫茶店の制服も、夏仕様へ衣替えした。
フィリアは、 半袖の真っ白なブラウスを身に付けて、閉店後の店内で、サイフォンを磨いていた。
「夏服は動きやすくて良いですね。サイフォンのお手入れも、やりやすくなりました」
蘭は「……夏服……快適」と答えながら、モップで床を磨いている。
蘭も、フィリアと同じデザインの夏服を着ている。
フィリアは「今日も暑くなりそうですね」と呟いた。
そして、カランと扉の鈴が店内に響いた。
一人の男が来店した。
営業時間は、すでに終わっている。
フィリアは「申し訳ありません。本日の営業は、終了しております」と声をかけた。
店内へ入って来た男は、50代半ばほどで、高級そうな黒いスーツを身にまとい、腕には高価な腕時計が光っている。
その時だった。
バタンと店内に重い音が響いた。
蘭が、モップを落とした音だった。
蘭の顔色が、真っ青になっており、身体も小刻みに震えている。
「蘭ちゃん?」
蘭は何も答えず、視線だけが男へ向けられ、その瞳には恐怖が浮かんでいた。
フィリアは、瞬時に察する。
(何かがおかしい)
(蘭ちゃんは、この男を知っている)
(しかも普通の知り合いではない)
(明らかに、この男に怯えている様子だ)
そしてフィリアは、即座に蘭の前へ立った。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「お前が、この店の経営者か」
「はい。フィリア・アンダルシアと申します」
「そうか」
そして男は、内ポケットから名刺を取り出した。
フィリアは、受け取った名刺へ視線を落とす。
【日向製薬 代表取締役社長 日向 大三郎】
(日向製薬……薬を扱う組織)
(帝国の『薬師ギルド』のような組織か)
(社長とは『ギルド長』の事)
そして大三郎は、蘭を指差して言った。
「コイツの父親だ」
フィリアは、蘭に視線を向ける。
蘭は、俯いたまま震えている。
大三郎は、カウンター席へ腰掛けた。
重苦しい沈黙が、店内に流れている。
フィリアは、空気を和らげようと考えた。
「お疲れでしょうし、コーヒーでもお淹れしましょうか」
「結構だ。三流喫茶店のマズイコーヒーなど飲むに足らん」
大三郎は鼻で笑いながら、そう答えた。
すると震えていた蘭が、小さく顔を上げ る。
「……フィリアさんの……コーヒーを……バカにしないで」
その声は、確かな怒りが込められていた。
大三郎は、まるで虫でも見るような視線で「ほう」と呟いた。
「お前のようなクズが、私に意見をするとはな」
蘭の肩が、ピクリと震える。
フィリアは、思わず一歩前へ出た。
「蘭ちゃんに向かってクズとは、いくら父親でも言い過ぎではないでしょうか」
「三流喫茶店の三流経営者は、黙っていてもらいたい。これは我々親子の問題だ」
蘭は、小さな声で言った。
「……フィリアさんを……悪く言うのは……やめて……」
「やめてだと?お前に指図される筋合いはない」
そして大三郎は、腕時計へ視線を落とした。
「まあいい。私は忙しいのだ。こんな店に長居するつもりはない。さっさと要件だけ伝える」
すると蘭は、俯いたまま呟いた。
「……私は……あなたに……用なんてない」
その瞬間、大三郎の表情がさらに険しくなった。
「私も本来なら、お前のようなクズとは、とっくに縁を切るつもりだった。だがな、状況が変わったのだ」
フィリアは、一杯の水を「どうぞ」と大三郎に差し出した。
すると大三郎は、激昂した。
「三流喫茶店の水なんか飲めるか!まさか貴様が、娘を誘拐して洗脳したのではないだろうな!貴様せいで、娘が私に反抗するようになったではないか!余所者が、これ以上、我が家の邪魔をするな!わかったか!」
大三郎は、そう叫ぶと、水が入ったグラスをフィリアに投げつけた。
フィリアの夏服が水で濡れた。
さらにグラスが床に落ちて、ガシャンと音をたて割れてしまった。
フィリアは確信した。
(この男はヤバい)
(蘭ちゃんは、この父親を本気で恐れている)
(私が、蘭ちゃんを守らなければならない)
(蘭ちゃんが『聖女様』だからではない)
(『大切な友人』として、蘭ちゃんを守らないと)
蘭は慌てて「フィリアさん……大丈夫?」と駆け寄ってきた。
フィリアは「私は大丈夫です」と答えると、冷静に話を始めた。
「縁を切るつもりだった相手に、なぜ会いに来られたのでしょうか」
「娘を洗脳した誘拐犯に話をする義理はないが、教えてやろう。娘を連れ戻しに来たんだ」
「……どうして……今さら」
蘭の震える声は、とても小さかった。
「良太が交通事故に遭った」
良太とは【日向 良太】、つまり蘭の義兄だ。
「命は助かったが、意識が戻らない。医者の話では、いつ目を覚ますか分からんそうだ」
大三郎は、冷たい視線を蘭に向けながら話を続けた。
「もちろん日向製薬は、良太に継がせる予定だ。だが『万が一』ということもある。だから、お前を連れ戻しに来た。お前は、良太が目を覚まさなかった時の『保険』だ。良太の意識が戻れば、お前は、また用済みだ」
蘭の瞳から、ゆっくりと光が失われていった。
フィリアは『保険』という言葉に耳を疑った。
そして、静かな怒りが込み上げる。
「つまり、蘭ちゃんを家族として迎えに来たのではなく『代用品として必要になった』ということでしょうか」
「そう受け取ってもらって構わん」
フィリアの問いに、大三郎は悪びれる様子を見せない。
「このクズにも、クズなりに役に立ってもらう」
蘭は何も言えず、ただ俯き、小さく肩を震わせている。
フィリアは、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
(蘭ちゃんは、ずっとこんな言葉を浴び続けてきたのだ)
(毎日、何年も……)
(人格を否定され、存在価値を否定され、それでも耐え続けてきた)
蘭は「……帰りません」と言葉を発した。
すると大三郎は「……なんだと」と言って、カウンター席から立ち上がると、蘭にビンタをした。
「クズのくせに、私の決定に歯向かう気か!」
蘭は、ビンタの衝撃で、床に倒れ込んだ。
顔に青アザができている。
フィリアは「何をするんですか!」と声を上げた。
「黙れ!三流経営者は黙ってろ!」
そして大三郎は、床に伏せる蘭の腕を、強引につかんだ。
「さあ帰るぞ。お前には、薬学部へ進学するために今から猛勉強をしてもらう。これまで以上に厳しく接するつもりだ。覚悟するんだな」
大三郎は、店の外へ蘭を引きずり出そうとしている。
蘭は「……やめて」と必死に抵抗する。
フィリアも、大三郎の手を引き離そうとしている。
喫茶異世界は、修羅場と化した。
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