メニュー036 クリームシチュー
春の柔らかな朝の陽射しが、新宿の街を照らしている。
今日は祝日の月曜日、つまり定休日だ。
フィリアは、珍しく早起きをしていた。
なぜなら今日は、とても重要なイベントがある日だからだ。
ここ最近、店の経営状況は決して良くない。
節約出来る所は、節約しなければならない。
そんな時、銭湯の常連達から教えてもらった。
今日、大久保公園で3ヶ月に一度の【春の炊き出し】が行われると。
大久保公園の炊き出しイベントは、春夏秋冬の各季節ごとに1回ずつ行われるらしい。
行かない理由はなかった。
「食費が1食浮きます」
フィリアは真剣な表情で頷く。
そして、身支度を整えて店を出た。
春風が頬を撫でる。
空は青く、街路樹には新しい葉が芽吹いていた。
しばらく歩くと、大久保公園が見えてきた。
入口には大きな看板が立っている。
【大久保公園・炊き出し広場】
フィリアは、自然と笑みを浮かべた。
公園には、すでに多くの人が集まっている。
湯気の立つ大鍋、忙しそうに動き回る人々、漂ってくる美味しそうな香り。
その光景を見た瞬間、フィリアの胸に懐かしさが込み上げてくる。
前回ここへ来たのは、寒い冬の季節だった。
異界へ飛ばされた初日。
右も左も分からず歩き続け、寒さと空腹で限界寸前だったあの日。
そんな自分を救ってくれたのが、この場所だった。
そして―――
あの日食べた一杯の『豚汁』。
本当に美味しかった。
あの日の豚汁は、一生忘れないだろう。
あの一杯があったからこそ、自分はこの街で生きようと思えた。
今思えば、あの豚汁が全ての始まりだったのかもしれない。
「今日も、豚汁を食べられるのでしょうか」
期待に胸を膨らませつつ、大鍋へ近づくフィリア。
すると、聞き覚えのある声が響いた。
「あら、あの時のお嬢ちゃんじゃないか!」
冬の炊き出しの日に、豚汁を配っていた『おばちゃん』だった。
今日もエプロン姿で、大鍋をかき混ぜている。
フィリアは思わず背筋を伸ばした。
この方は、この街の貴族様だ。
少なくともフィリアはそう思っている。
無償で民へ食事を振る舞う人格者。
間違いなく貴族、きっとこの街の領主様なのだろう。
「お嬢ちゃん、また来てくれたのかい!」
おばちゃんは嬉しそうに笑った。
フィリアは慌てて頭を下げる。
「ご無沙汰しております。本日も、素晴らしい施しの場へお招き頂き、ありがとうございます」
おばちゃんはキョトンとした。
そして、いつものように豪快に笑う。
「相変わらず、丁寧なお嬢ちゃんだねぇ」
フィリアは真剣だった。
街に住む者として、ご領主様への礼儀を欠いてはならない。
そしてフィリアは、大鍋の中を覗き込んだ。
「……白い」
フィリアの蒼い瞳が大きく開く。
前回の豚汁は茶色だった。
そして今日、鍋の中で湯気を立てているのは真っ白なスープだ。
濃厚な香りが漂ってくる。
「今日はクリームシチューだよ!」
おばあちゃんが笑顔で言う。
「くりいむ……しちゅう?」
初めて聞く料理だ。
フィリアは、期待に胸を膨らませる。
おばちゃんは、器へたっぷりと注ぎ「はい、どうぞ!」とフィリアへ差し出した。
フィリアは「ありがとうございます」と器を受け取る。
真っ白なスープの中には、じゃがいも、人参、玉ねぎ、鶏肉がゴロゴロと入っている。
湯気と共に甘い香りが立ちのぼる。
フィリアは、近くのベンチに腰を下ろし、スプーンを手に取る。
まずはスープを一口。
濃厚でトロリとした口当たりが舌を包み込む。
牛乳の優しい甘味、野菜から溶け出した旨味、そば鶏肉の出汁。
それら全てが混ざり合い、まろやかな味わいを作り出している。
身体の芯から温まる味だった。
続いて、じゃがいもを口へ運ぶ。
ホクホクと柔らかく、スプーンだけで簡単に崩れる。
スープとの相性が抜群だった。
人参も甘くて美味しい。
玉ねぎは口の中でとろけた。
じっくり煮込まれた鶏肉も、驚くほど柔らかく、噛むたびに旨味が溢れ出した。
「美味しいです……」
フィリアは思わず呟いた。
その時だった。
「おう、フィリアちゃん!」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、銭湯の常連達だった。
「フィリアちゃんも来てたのか!」
「皆様も来ていたのですね」
「そりゃ来るだろ!」
「タダだからな!」
「来ない理由がねぇ!」
フィリアも真剣に頷く。
節約は、とても大切だ。
そして、皆で同じベンチに座り、クリームシチューを食べながら会話をする。
他愛もない話だった。
桜が綺麗だとか。
最近暖かくなったとか。
銭湯のボイラーが調子悪いらしいとか。
髭を剃った権蔵が最近お洒落になっているとか。
とても楽しい会話だった。
フィリアは、スプーンを動かしながら、前回の炊き出しを思い出す。
あの寒い冬の日、フィリアは一人だった。
初めて見る街、言葉、そして人々……。
この先、どうしたらよいか途方に暮れていた。
そして、この場所で豚汁を食べた。
あの時は一人だったが、今は違う。
向かいには銭湯の常連達がいる。
笑い合える人達がいる。
フィリアは、ゆっくりと周囲を見渡した。
そして気づく。
「私には……居場所が出来たのですね」
誰に聞かせるでもない小さな呟きだった。
胸の奥が温かくなった。
異界へ来たばかりの頃は、想像も出来なかった。
自分がこの街で笑っている未来も。
この街の人と食事をしている未来も。
見上げれば満開の桜が咲いていた。
淡い桃色の花びらが風に舞う。
ひらひらと空を漂い、春の陽射しを受けて輝いていた。
フィリアは、美しい光景だと思った。
最後の一口を食べ終える。
クリームシチューは、最後まで温かかった。
身体だけではない。
心まで温めてくれる味だった。
フィリアは思う。
異界へ来たあの日、自分を救ったのは『豚汁』だった。
そして今日、この『クリームシチュー』が自分を温めてくれている。
料理には、人を幸せにする力がある。
そしてこの国は『美味しいご飯』で溢れている。
フィリアは満開の桜を見上げながら、幸せそうに微笑んだのだった。
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