メニュー035 バター醤油ご飯
金曜日の閉店後、店内は静まり返っていた。
最後のお客を見送ったフィリアは、カウンター前で肩を落とした。
「お金がありません……」
深刻だった。
フィリアは、両手で頭を抱えている。
もちろん、お客が全く来ないわけではない。
銭湯の常連達は、相変わらず店に来てくれる。
権蔵も来る。
唯という、闇ギルドの『詐欺師』兼『暗殺者』兼『スパイ』兼『勧誘担当』の女も、毎週火曜日にやって来る。
それでも客足は減る一方だった。
マスターが生きていた頃、この店は、常連客で溢れていた。
マスターと会話をする者。
新聞や本を読む者。
何もせずコーヒーと向き合う者。
多くの常連客が、マスターのコーヒーを愛していた。
その常連客は、マスターが旅立った後、店に来なくなった。
フィリアは、カウンターに顔を伏せる。
「はぁ……」
深いため息が漏れた。
明日から3連休だ。
月曜日が祝日のため、土曜日、日曜日、月曜日は店休日になる。
つまり3日間売上はゼロ。
考えれば考えるほど胃が痛くなる。
とりあえず何か食べよう。
空腹のままでは良い考えも浮かばない。
フィリアは冷蔵庫へ向かった。
今日は節約だ。
余り物で済ませよう。
そう考えて冷蔵庫を開いた瞬間―――
フィリアは固まった。
「……」
何もない。
いや、正確には一つだけあった。
ナポリタンの味付けに使う『バター』だけが、ポツンと置かれている。
それだけだった。
「……」
フィリアは、無言で扉を閉めた。
そして、もう一度開けた。
やはりバターしかなかった。
「……」
再び閉めた。
しばらく考えるフィリア。
外食という選択肢もあるが……。
いや、却下だ。
今は、1円でも節約しなければならない。
その時、フィリアの脳裏に、懐かしい記憶が蘇った。
マスターが生きていた頃……。
~数ヶ月前~
閉店後、マスターは、いつも『ある昼食』を食べていた。
フィリアは、不思議に思って尋ねた事がある。
「マスター、今日も『バター醤油ご飯』ですか?」
「ああ。好きなんだ」
「本当に『それだけ』の味付けで、美味しいのですか?」
「この『それだけ』の味付けが、シンプルで美味しいんだよ」
『バター醤油ご飯』
作ってみよう。
幸い米はある。
お米の炊き方も、マスターに教わった。
さっそくフィリアは、棚から米袋を取り出した。
そして、ボウルに米を入れて水を注ぐ。
白く濁った水を捨てながら、優しく米を研いでいく。
すると、脳裏にマスターの声が聞こえてきた。
『そんなに力を入れて研いではダメだよ』
フィリアの手がピタリと止まる。
『お米は、優しく研がないといけないんだ』
「はい、マスター」
思わず返事をするフィリア。
もちろん店内には、フィリアしかいない。
それでも、すぐそばにマスターを感じた。
米を研ぎ終えたフィリアは、コーンスープ用の小さな鍋を取り出した。
この喫茶店に炊飯器はない。
いつもマスターは、この鍋でご飯を炊いていた。
鍋に米と水を入れる。
その後しばらく放置する。
『お米に、水をたっぷり吸わせるのがコツさ』
マスターの声がまた蘇る。
フィリアは微笑んだ。
そして鍋を火にかける。
鍋の中からグツグツと音が聞こえてきた。
沸騰後、弱火にする。
『フィリア、炊き上がるまで鍋の蓋を開けてはいけないよ』
フィリアは、時間をはかる為に、制服の胸ポケットから懐中時計を取り出した。
マスターから譲り受けた大切な時計だ。
『耳を澄ませて音を聞くんだ』
フィリアは、目を閉じて耳を澄ませる。
グツグツ、グツグツ……。
鍋の中から聞こえる音。
『どうだい?美味しそうな音が聞こえてくるだろう?』
まるでマスターが隣にいるようだった。
フィリアは笑っていた。
今、自分は一人ではない。
マスターと一緒に料理をしている。
フィリアは、記憶をたどりながら、そんな気持ちになっていた。
そして火を止めて蒸らしに入る。
静かに待つフィリア。
数分後、フィリアは、ゆっくりと蓋を開いた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
真っ白なご飯が湯気を立てていた。
一粒一粒が艶やかに輝いている。
フィリアは、炊きたてのご飯を皿に盛る。
そして、冷蔵庫から取り出したバターを乗せる。
バターが、ご飯の熱でジワリと溶けた。
そこへ醤油を垂らす。
ジュワリ……。
醤油の香りが一気に立ちのぼる。
フィリアの蒼い瞳が輝いた。
「良い香りです……」
フィリアは、居酒屋で『焼きおにぎり』を食べて以来、醤油がお気に入りになっていた。
溶けたバターが、ご飯に染み込んでいく。
さらに、ご飯の上でバターと醤油が混ざり合う。
とてもシンプルな一皿が完成した。
フィリアは、スプーンを手に取り、口へ運ぶ。
その瞬間―――
「っっっ!!!」
炊きたてのご飯が、舌の上でほぐれていく。
バターの濃厚なコクが広がる。
そこへ醤油の香ばしさが重なる。
炊きたてのご飯。
バター。
醤油。
たった【それだけ】の味付け。
『本当に【それだけ】の味付けで、美味しいのですか?』
『この【それだけ】の味付けが、シンプルで美味しいんだよ』
マスターとの会話が蘇る。
「シンプルだけど……美味しいです」
フィリアは、スプーンを持つ手が止まらない。
そして、ふと思う。
マスターは、毎日『バター醤油ご飯』を食べていた。
『好きだから』という理由もあるだろう。
だが、本当にそれだけだろうか。
今なら分かる。
喫茶異世界は、マスターがいた頃も、決して裕福ではなかったはず……。
マスターは、フィリアにお給金を渡す時、いつも言っていた。
『本当はもっと払いたいんだけどね』
申し訳なさそうに笑いながら……。
マスターは無理をしていたのだ。
自分の食費を削って。
自分の生活を削って。
フィリアへお金を払ってくれていた。
フィリアの胸がジンワリと熱くなる。
「マスター……」
湯気の向こうに、優しく笑うマスターが見えた気がした。
マスターは、もういない。
マスターが旅立って2ヶ月が過ぎた。
フィリアは、この2ヶ月間、マスターを思い出さない日は1日もなかった。
毎日、マスターとの思い出が蘇る。
いつもフィリアは、マスターを思い出して悲しい気持ちになる。
そして同時に、温かい気持ちになる。
今日もフィリアは、マスターを思い出す。
マスターの声を聞く。
フィリアは『バター醤油ご飯』を黙々と食べ続けた。
優しくて、温かくて、どこか切ない味がした。
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