表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/60

メニュー029 美味しいコーヒー①

 土曜日の朝。


 喫茶異世界では、穏やかな空気が流れている。


 窓から差し込む朝日。

 棚に並ぶ食器。

 コーヒー豆の香り。


 普段通りの朝の光景。


 だが、フィリアの心は普段通りとはいかず、落ち着かない様子だ。


 理由は分かっている。


 今日は、マスターが【旅立つ日】だ。


 フィリアは、定休日の店内で黙々と掃除を続けていた。


 何かをしていないと落ち着かなかった。


 そんなフィリアを見ながら、マスターはテーブル席でコーヒーを飲んでいる。


 フィリアが淹れたコーヒーだ。



 

 「……美味しい」




 マスターは、穏やかな表情でそう言った。


 フィリアは驚いた。


 マスターが、フィリアのコーヒーを飲んで、初めて『合格』ではなく『美味しい』と言葉にしたからだ。


 マスターは、懐中時計の時間を確認すると静かに立ち上がった。


 「そろそろ行こうかな」


 その一言に、フィリアの身体が小さく震えた。


 とうとう、その時が来てしまった。


 マスターは、ゆっくりと厨房を見渡した。


 長年過ごした店内、カウンター、テーブル、食器棚、そしてサイフォン。


 一つ一つを目に焼き付けるように眺めている。


 そして最後にフィリアへ視線を向けた。


 「フィリア」


 「はい」




 「この店を頼んだよ」




 フィリアは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、丁寧に頭を下げる。


 「お任せください。マスターが戻るまで、私が店を守ります」


 「うん………………ありがとう」

 

 マスターは、長い沈黙を挟み、笑顔でそう言った。


 そして荷物を肩へ掛けると、ゆっくり扉へ向かう。


 まるで、少し散歩へ出掛けるだけのような表情をしている。


 カランと扉の鈴が鳴る。


 マスターは振り返らない。


 ただ、片手を軽く上げるだけだった。


 フィリアは、その背中を見送った。


 そして、マスターの背中に向かって、深々とお辞儀した。


 「私を店に置いて下さり……コーヒーの淹れ方を教えて下さり……大事な店を託して下さり……ありがとうございました」


 春を待つ冬空の下を歩くマスターの背中。


 フィリアには、少しだけ小さく見えた。


 やがて角を曲がり、その背中が見えなくなった。


 それでもフィリアは、しばらくお辞儀をしたまま頭を上げなかった。




 翌朝の日曜日。


 フィリアは、昨夜なかなか寝付けなかった。


 マスターがいない店は静か過ぎた。


 まだ一日しか経っていないというのに、店内が不思議なほど広く感じる。


 一階へ降りて顔を洗うフィリア。


 そして朝食の準備をしようと思った、その時だった。


 カランと扉の鈴が鳴った。


 フィリアは首を傾げる。


 今日は定休日だ。


 「はい」と答えるフィリア。


 一人の男性が立っていた。


 彼は、黒いスーツを着ている。


 40代後半くらいだろうか。


 眼鏡を掛けた真面目そうな男性だった。


 「フィリア様は、ご在宅しょうか」


 「私ですが」


 男性は丁寧に一礼した。


 そして名刺を差し出す。


 「私は、弁護士のサエキと申します」



 『弁護士』



 確か、こちらの世界で法律を扱う専門家だったはずだ。


 フィリアは不思議に思った。


 なぜ弁護士が訪ねて来たのだろう。


 弁護士は静かに言った。




 「私は、故・滝川(たきがわ) 錬一(れんいち)様の代理人です」




 【滝川 錬一】は、マスターの名前だ。




 そして―――




 故。




 聞き慣れない単語だ。


 言語理解能力が翻訳を始める。




 故―――死亡した人物。




 亡くなった者。




 翻訳された瞬間、フィリアの思考が停止した。




 「滝川錬一様は、昨晩、永眠されました」




 フィリアは理解出来なかった。


 受け入れられない。


 昨日の朝まで―――


 マスターは元気だった。

 マスターは笑っていた。

 マスターと話をした。


 フィリアは、言葉を失っている。


 弁護士は、静かに説明を続けた。


 「滝川様は、不治の病を患っておられました」


 フィリアの瞳が揺れる。



 『不治の病』



 治療出来ない病気。


 薬師として重い言葉だ。


 「毎朝、病院から店へ通われていたのです」


 フィリアは「病院……」と、ようやく言葉を発する。


 「はい。入院されていました」


 フィリアは知らなかった。


 何も知らされていなかった。


 毎日顔を合わせていた。


 毎日一緒に働いていた。


 だが、気付かなかった。


 弁護士は続ける。


 「滝川様には、ご家族がいらっしゃいません」


 フィリアは、静かに聞く事しか出来ない。


 「滝川様は、天涯孤独だと、おっしゃっていました」


 その言葉は、フィリアの胸に刺さった。


 まるで、自分の事を言われているようだ。


 故郷を失ったフィリア。

 家族を失ったフィリア。


 そして、マスターも同じだった。


 何十年も。


 ずっと孤独だった。


 弁護士は、鞄に手を入れる。


 「滝川様よりフィリア様へ、こちらをお預かりしております」


 【店の権利書】


 【一通の手紙】


 【銀色の懐中時計】


 フィリアの視線が、懐中時計に向けられた。


 それは、マスターが37年間愛用している懐中時計だった。



 『コーヒーを淹れる時も、料理の時間を測る時も、ずっとこれを使ってきたんだ』



 マスターの言葉が蘇る。


 細かな傷が無数に刻まれている。


 長い年月の証だ。


 フィリアは、震える手で懐中時計にそっと触れた。


 懐中時計は、まだ温かい気がした。


 気のせいだと分かっている。


 それでも、そう感じた。


 最後に弁護士は、深く頭を下げた。


 「この度は、御愁傷様でございます」


 そして静かに店を後にした。


 カランと扉の鈴が鳴る。


 再び静寂が戻った。


 わずか10分間の出来事だった。


 店内には、フィリア一人が残される。


 静かな店内。


 フィリアは何も考えられない。


 いや。


 考えたくなかった。


 だが、薬師としての思考は止まらない。


 自然と答えへ辿り着いてしまう。


 聖魔法は、決して万能ではない。


 そんな事は最初から知っている。


 聖女がいても病人は消えない。


 聖魔法にも限界がある。


 聖女が一日に治療出来る人数には限りがある。


 聖魔法で治せない病もある。


 だから薬師が必要だ。


 だから薬学の研究を続けてきた。


 だからポーションを作り続けた。


 病に苦しむ人を、少しでも減らしたいと思ってきた。


 それなのに、


 この世界へ来て、


 新しい居場所を見つけて、


 温かい人達に囲まれて、


 食べて、笑って、働いて、


 いつの間にか忘れてしまっていた。


 人は死ぬ。


 救えない命がある。


 その当たり前の事実を。


 フィリアは俯いた。


 悔しかった。


 情けなかった。




 「………………薬師失格だ」




 フィリアが、ようやく言葉を発した。




 読んでいただき、ありがとうございました。


 【ブックマーク登録】や【★★★★★評価】で応援を頂けますと、とても励みになります。


 どうぞよろしくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ