メニュー029 美味しいコーヒー①
土曜日の朝。
喫茶異世界では、穏やかな空気が流れている。
窓から差し込む朝日。
棚に並ぶ食器。
コーヒー豆の香り。
普段通りの朝の光景。
だが、フィリアの心は普段通りとはいかず、落ち着かない様子だ。
理由は分かっている。
今日は、マスターが【旅立つ日】だ。
フィリアは、定休日の店内で黙々と掃除を続けていた。
何かをしていないと落ち着かなかった。
そんなフィリアを見ながら、マスターはテーブル席でコーヒーを飲んでいる。
フィリアが淹れたコーヒーだ。
「……美味しい」
マスターは、穏やかな表情でそう言った。
フィリアは驚いた。
マスターが、フィリアのコーヒーを飲んで、初めて『合格』ではなく『美味しい』と言葉にしたからだ。
マスターは、懐中時計の時間を確認すると静かに立ち上がった。
「そろそろ行こうかな」
その一言に、フィリアの身体が小さく震えた。
とうとう、その時が来てしまった。
マスターは、ゆっくりと厨房を見渡した。
長年過ごした店内、カウンター、テーブル、食器棚、そしてサイフォン。
一つ一つを目に焼き付けるように眺めている。
そして最後にフィリアへ視線を向けた。
「フィリア」
「はい」
「この店を頼んだよ」
フィリアは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、丁寧に頭を下げる。
「お任せください。マスターが戻るまで、私が店を守ります」
「うん………………ありがとう」
マスターは、長い沈黙を挟み、笑顔でそう言った。
そして荷物を肩へ掛けると、ゆっくり扉へ向かう。
まるで、少し散歩へ出掛けるだけのような表情をしている。
カランと扉の鈴が鳴る。
マスターは振り返らない。
ただ、片手を軽く上げるだけだった。
フィリアは、その背中を見送った。
そして、マスターの背中に向かって、深々とお辞儀した。
「私を店に置いて下さり……コーヒーの淹れ方を教えて下さり……大事な店を託して下さり……ありがとうございました」
春を待つ冬空の下を歩くマスターの背中。
フィリアには、少しだけ小さく見えた。
やがて角を曲がり、その背中が見えなくなった。
それでもフィリアは、しばらくお辞儀をしたまま頭を上げなかった。
翌朝の日曜日。
フィリアは、昨夜なかなか寝付けなかった。
マスターがいない店は静か過ぎた。
まだ一日しか経っていないというのに、店内が不思議なほど広く感じる。
一階へ降りて顔を洗うフィリア。
そして朝食の準備をしようと思った、その時だった。
カランと扉の鈴が鳴った。
フィリアは首を傾げる。
今日は定休日だ。
「はい」と答えるフィリア。
一人の男性が立っていた。
彼は、黒いスーツを着ている。
40代後半くらいだろうか。
眼鏡を掛けた真面目そうな男性だった。
「フィリア様は、ご在宅しょうか」
「私ですが」
男性は丁寧に一礼した。
そして名刺を差し出す。
「私は、弁護士のサエキと申します」
『弁護士』
確か、こちらの世界で法律を扱う専門家だったはずだ。
フィリアは不思議に思った。
なぜ弁護士が訪ねて来たのだろう。
弁護士は静かに言った。
「私は、故・滝川 錬一様の代理人です」
【滝川 錬一】は、マスターの名前だ。
そして―――
故。
聞き慣れない単語だ。
言語理解能力が翻訳を始める。
故―――死亡した人物。
亡くなった者。
翻訳された瞬間、フィリアの思考が停止した。
「滝川錬一様は、昨晩、永眠されました」
フィリアは理解出来なかった。
受け入れられない。
昨日の朝まで―――
マスターは元気だった。
マスターは笑っていた。
マスターと話をした。
フィリアは、言葉を失っている。
弁護士は、静かに説明を続けた。
「滝川様は、不治の病を患っておられました」
フィリアの瞳が揺れる。
『不治の病』
治療出来ない病気。
薬師として重い言葉だ。
「毎朝、病院から店へ通われていたのです」
フィリアは「病院……」と、ようやく言葉を発する。
「はい。入院されていました」
フィリアは知らなかった。
何も知らされていなかった。
毎日顔を合わせていた。
毎日一緒に働いていた。
だが、気付かなかった。
弁護士は続ける。
「滝川様には、ご家族がいらっしゃいません」
フィリアは、静かに聞く事しか出来ない。
「滝川様は、天涯孤独だと、おっしゃっていました」
その言葉は、フィリアの胸に刺さった。
まるで、自分の事を言われているようだ。
故郷を失ったフィリア。
家族を失ったフィリア。
そして、マスターも同じだった。
何十年も。
ずっと孤独だった。
弁護士は、鞄に手を入れる。
「滝川様よりフィリア様へ、こちらをお預かりしております」
【店の権利書】
【一通の手紙】
【銀色の懐中時計】
フィリアの視線が、懐中時計に向けられた。
それは、マスターが37年間愛用している懐中時計だった。
『コーヒーを淹れる時も、料理の時間を測る時も、ずっとこれを使ってきたんだ』
マスターの言葉が蘇る。
細かな傷が無数に刻まれている。
長い年月の証だ。
フィリアは、震える手で懐中時計にそっと触れた。
懐中時計は、まだ温かい気がした。
気のせいだと分かっている。
それでも、そう感じた。
最後に弁護士は、深く頭を下げた。
「この度は、御愁傷様でございます」
そして静かに店を後にした。
カランと扉の鈴が鳴る。
再び静寂が戻った。
わずか10分間の出来事だった。
店内には、フィリア一人が残される。
静かな店内。
フィリアは何も考えられない。
いや。
考えたくなかった。
だが、薬師としての思考は止まらない。
自然と答えへ辿り着いてしまう。
聖魔法は、決して万能ではない。
そんな事は最初から知っている。
聖女がいても病人は消えない。
聖魔法にも限界がある。
聖女が一日に治療出来る人数には限りがある。
聖魔法で治せない病もある。
だから薬師が必要だ。
だから薬学の研究を続けてきた。
だからポーションを作り続けた。
病に苦しむ人を、少しでも減らしたいと思ってきた。
それなのに、
この世界へ来て、
新しい居場所を見つけて、
温かい人達に囲まれて、
食べて、笑って、働いて、
いつの間にか忘れてしまっていた。
人は死ぬ。
救えない命がある。
その当たり前の事実を。
フィリアは俯いた。
悔しかった。
情けなかった。
「………………薬師失格だ」
フィリアが、ようやく言葉を発した。
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