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メニュー028 海鮮鍋②

 マスターが静かに告げた言葉は、フィリアの心を、ひどく揺さぶっていた。



 『少し旅に出ようと思うんだ』


 『この街を離れる事にしたんだ』



 鍋から立ちのぼる湯気が、二人の間をゆらゆらと漂っている。


 他の席では、笑い声が聞こえ、店員達が忙しそうに料理を運んでいる。


 そんな賑やかな店内とは対照的に、二人の座敷は、静寂に包まれている。


 「旅……ですか?」


 ようやくフィリアは、それだけを口にする。


 マスターは穏やかに頷く。


 「そうだよ」


 「どちらへ行かれるのですか?」


 「まだわからない」


 「決めていないのですか?」


 「まあ近場ではないかな」


 まるで、散歩に出掛けるような口調だった。


 マスターは、穏やかな表情で、海鮮鍋の出汁を一口飲む。


 フィリアは、胸の奥がざわつくのを感じていた。


 「急なお話ですね」


 「本当はね、もう少し早く旅に出るつもりだったんだよ」


 「そうだったのですか?」


 「でも先送りにしたんだ」


 「それはどうしてですか?」


 するとマスターは小さく笑った。


 「フィリアと出会ったからね」


 「私ですか?」


 「そうだよ」


 マスターは当たり前のように言った。


 「店を閉めて旅に出ようと思っていた時に、突然フィリアが現れた」


 「あの日……ですか?」


 フィリアが道に迷い、初めて店を訪れた日だ。


 「フィリアが初めて淹れてくれた『あのコーヒー』を飲んでね。『面白い子だな』と思ったんだ」


 「あの時の『不味いコーヒー』を飲んで……ですか?」


 「そうだよ。それに『店で働きたい』と言ってくれただろう?だから、もう少しだけ続けてみようと思ったんだよ」


 フィリアは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 自分が、この店に残る理由になっていたらしい。


 それは少しだけ嬉しかった。


 マスターは、続けて話を始める。


 「でも、もう大丈夫だね」


 「大丈夫?」


 「フィリアは、コーヒーを淹れられるようになった」


 フィリアは、思わず背筋を伸ばした。


 先日、ようやくお客様へコーヒーを出せるようになったばかりだ。


 まだ未熟だと思っている。


 「私が留守の間は、店を自由に使っていいからね」


 「え?」


 「安心して店を任せられるよ。私がいない間、喫茶異世界はフィリアの店だ」


 「む、無理です!」


 「大丈夫だよ」


 「大丈夫ではありません!」


 マスターは、穏やかな顔で笑っている。


 だが、フィリアは笑えなかった。


 薬学なら自信がある。


 ポーション作りにも自信がある。


 だが、喫茶店経営は別問題だ。


 不安しかない。


 そんなフィリアの様子を見て、マスターは優しく言った。


 「だったら旅に出るまでの間、いくつかメニューを教えよう」


 こうして翌日から、フィリアの料理の特訓が始まるのであった。


 まず教わったのは『ライ麦パン』だ。


 フィリアの1番の好物だからだ。


 ライ麦パンなしの生活は考えられない。


 粉の配合、発酵時間、生地をこねる力加減、パン作りは想像以上に奥が深かった。


 さらに同じ材料でも、その日の気温や湿度で仕上がりが変わってしまう。


 「パンは生き物と同じなんだよ」


 マスターはそう言った。


 次に教わったのは『コーンスープ』。


 丁寧に裏ごしを行い、ゆっくりと煮込んでいく。


 マスターが作るコーンスープは、いつもクリームのようになめらかだった。


 「飲み物と食べ物の中間みたいです」


 マスターは「いい表現だね」と笑っている。


 そして『シーザーサラダ』も教わった。


 『野菜を切るだけ』と思っていたが、全然違った。


 ドレッシング作りだけでも奥が深い。


 調味料の量、塩加減、混ぜる順番など、少し違うだけで味が変わってしまう。


 そして最後に教わったのが『ナポリタン』だ。


 喫茶異世界の人気メニュー。


 フィリアも毎朝食べている。


 だが、実際に作るとなると難しかった。


 火加減や炒める順番、ケチャップを入れるタイミング、マスターのナポリタンには、長年積み重ねた技術が詰まっていた。


 そしてフィリアが、マスターの隣で料理を教わっていると、マスターがポケットから頻繁に『銀色の道具』を取り出している事に気がついた。


 「それは何ですか?」


 「これかい?これは懐中時計だよ」


 それは、銀色の丸い時計だった。


 表面には細かな傷が刻まれている。


 何度も磨かれてきたのだろう。


 古びていても美しかった。


 パチンと蓋が開く。


 中には繊細な文字盤があり、秒針が静かに時を刻んでいる。


 「綺麗な時計ですね」


 「この店を始めた日に買ったんだ」


 「何年前ですか?」


 「37年前かな」


 フィリアは驚いた。


 自分が生まれるよりも、ずっと前から使われている時計。


 「コーヒーを淹れる時も、料理の時間を測る時も、ずっとこれを使ってきたんだ」


 マスターは、優しく時計を撫でた。


 まるで家族を見るような目だった。


 フィリアも自然と見入ってしまう。


 長い年月を共に歩んできた道具。


 そこには言葉に出来ない重みがあった。


 そして数日が経ち、閉店後の店内では、フィリアが椅子に座りながらため息を吐いていた。


 マスターは「どうしたんだい?」と、フィリアに尋ねた。


 「不安です」


 「何が?」


 「マスターから教わったメニューが、少なすぎます」


 フィリアが教わったメニューは、コーヒー、ライ麦パン、コーンスープ、シーザーサラダ、そしてナポリタン。


 それだけだった。


 「このメニューだけで、本当にやっていけるでしょうか?」


 帝国の大衆食堂でも、この倍以上のメニューがある。


 すると、マスターは笑いながら「これでいいんだよ」と答えた。


 「ですが……」


 「むしろ少ない方がいい」


 この時のフィリアは、マスターの意図が分からなかった。


 そしてマスターは、ゆっくりと厨房を見渡している。


 その目は少年のようだ。


 「新しいメニューを考えるのが、一番面白いんだ」


 マスターにとって料理は、ただの仕事ではない。


 人生そのものだ。


 だから37年間も続けられたのだろう。


 マスターの旅立ちの日は、目前まで迫っていた。




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