メニュー027 海鮮鍋①
ある日の閉店後、フィリアは驚いていた。
いつものように食器を片付けていると、マスターが珍しく声を掛けてきたからだ。
「フィリア、今夜は外で食事でもどうだい?」
フィリアは思わず手を止めた。
マスターと外食。
それは初めての事だった。
これまで一緒に食事をする事はあっても、それはいつも店内だった。
「よろしいのですか?」
「たまにはね」
マスターは穏やかに笑った。
フィリアも嬉しくなり、小さく頷いた。
「ぜひ行きたいです」
こうして二人は、夕暮れの新宿へと出掛ける事になった。
外へ出ると、街は相変わらず賑やかだった。
ネオンが灯り始め、人々が忙しそうに行き交っている。
飲食店からは美味しそうな香りが漂い、どこからか笑い声も聞こえてくる。
フィリアは歩きながら、ふと足を止めた。
目の前には、巨大な怪獣の頭が見える。
新宿を守護する神獣様だ。
フィリアの中では、そう認識されている存在だった。
フィリアは、両手を合わせて怪獣の頭へ祈りを捧げている。
「今日も街をお守り下さり、ありがとうございます」
深々と頭を下げるフィリア。
マスターは困惑していた。
「フィリア、何をしてるんだい?」
「お祈りをしています」
「え?ゴヂラに?」
「あの神獣様は、ゴヂラ様というのですね」
「ん?」
二人は、そんなやり取りを交わしつつ、新宿の繁華街を歩き続ける。
この辺りは、ネオンはまぶしく、人の数も特に多い。
フィリアは、周囲を見ながら不思議そうに首を傾げた。
「マスター、そういえば以前から気になっていた事があります」
「なんだい?」
「この街の『お祭り』は、いつ終わるのでしょうか?」
「お祭り?」
「はい。私の祖国の建国祭も、一週間ほどで終わります。ですが、この街のお祭りは、私が街に来て1ヶ月以上経ちますが終わる気配がありません」
マスターは、数秒固まった後、耐えきれずに吹き出した。
「ハハハッ!フィリア、違う違う。この街は、これが普通なんだよ」
「普通?」
「そう。これが、この街の日常だよ」
フィリアは絶句した。
これが日常。
つまり――
毎日が、お祭り!?
この街の住民は『一年中お祭りを開催している』という事か!?
いくらなんでも浮かれすぎではないか!?
なんという豊かな街なのだろう。
『異界の国はさすがだ』と、フィリアは静かに感動したのだった。
やがて二人は、目的の店に到着した。
古びた暖簾が掛かった【鍋料理専門店】だった。
引き戸を開けると、温かな熱気が全身を包み込む。
出汁の香り、魚介の香り、味噌の香り。
様々な香りが混ざり合っている。
「この店の鍋料理は、私の一番の好物なんだ」
マスターが笑顔でそう言った。
マスターの1番好きな料理。
フィリアは、とても興味があった。
二人は、座敷へ案内された。
しばらくして、鍋と大皿が運ばれてきた。
鍋からは、白い湯気が立ちのぼっている。
大皿には、多くの具材が丁寧に並べられている。
殻付きの牡蠣、大きな海老、白身魚、蟹の脚、しじみや蛤、さらに白菜や春菊、長ネギ、椎茸まで並んでいる。
まるで海と森を同時に集めたような光景だ。
フィリアは思わず息を呑んだ。
「これは凄いです」
「だろう?」
マスターが嬉しそうに笑いながら、具材を投入していく。
鍋の中では、出汁がブクブクと静かに踊っていた。
魚介から溢れ出した旨味が、黄金色のスープへ溶け込んでいる。
見ているだけでお腹が空いてくる。
「そろそろ食べ頃だな。さあフィリア、よそってあげよう」
マスターは、取り皿に魚介や野菜をよそい、フィリアに手渡した。
「ありがとうございます」
そしてフィリアは、まず『蟹』を口へ運んだ。
ふわりと柔らかな身が、一瞬でほぐれた。
濃厚な甘味と海の香りが、噛むたびに広がっていく。
「美味しいです」
フィリアは思わず声が漏れた。
続いて『海老』を食べる。
プリプリとした弾力が楽しい。
噛むたびに甘味が溢れ出し、出汁の風味と混ざり合う。
帝国でも海老は高級食材だった。
この世界の海老は、さらに美味しく感じた。
そして『牡蠣』。
一口食べた瞬間、まるで海そのものを凝縮したような濃厚な旨味が広がった。
クリーミーで柔らかく、舌の上でとろけていく。
「この牡蠣という食べ物は、反則です」
「だろう?」
マスターは笑った。
フィリアは、夢中になって食べ続けた。
魚介の旨味を吸った『白菜』。
出汁をたっぷり含んだ『椎茸』。
甘く柔らかな『長ネギ』。
どれも信じられないほど美味しい。
そして最後に残った出汁を飲む。
それは、ただのスープではなかった。
魚介の旨味が何層にも重なった芸術品だった。
身体の奥まで温まっていく。
幸せとは、こういう事を言うのだろう。
この幸せが、いつまでも続いて欲しい。
フィリアは、心の底からそう思った。
二人の間に穏やかな時間が流れていく。
その時だった。
マスターが静かに口を開いた。
「フィリア」
「はい」
「……少し旅に出ようと思うんだ」
フィリアは箸を止めた。
旅。
その言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
マスターは、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。
だが、その言葉は妙に重く感じられた。
「この街を……離れる事にしたんだ」
鍋の湯気が静かに揺れる。
賑やかな店内とは対照的に、フィリアの時間だけが止まったようだった。
フィリアは、ただマスターを見つめていた。
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