メニュー025 焼き鳥①
月曜日の朝、喫茶異世界の店内では、ただならぬ緊張感が漂っていた。
理由は明らかだった。
本日は、フィリアが『初めて、お客様にコーヒーを淹れる日』だからだ。
店内には、見覚えのある顔が集まっていた。
銭湯の常連達だ。
彼らは、誰一人雑談をしていない。
全員の視線が、カウンターに置かれたサイフォンへ集中していた。
まるで、帝国の『勇者召喚の儀式』でも見守るかのような空気だ。
フィリアは困惑していた。
コーヒーを淹れるだけなのに、なぜ皆そんな顔をしているのだろう。
すると、カウンター席から声が飛んだ。
「落ち着けよ、フィリアちゃん」
別の席からも続く。
「焦らなくていいからな」
「頑張れ」
「無理すんなよ」
「失敗しても飲むから安心しろ」
「むしろ失敗したやつも飲んでみたい」
最後の一言に周囲から笑いが起こった。
「ありがとうございます」
フィリアは、そう言って頭を下げると、再びサイフォンへ向き直る。
マスターから何度も教わった手順を思い出す。
お湯の温度、粉の量、蒸らす時間……。
全て完璧に頭に入っている。
そしてフィリアは、慎重に作業を進めていった。
ガラス器具の中で湯が上がり、コーヒーの粉と混ざり合う。
黒く艶のある液体が、ゆっくりと踊るように揺れている。
銭湯の常連達は、緊張して見守るあまり、息をする事を忘れる者さえいた。
「おい、息しろ」
誰かが、そう言った。
すると数人が、慌てて呼吸を再開する。
やがて抽出が終わり、芳醇な香りが店内へ広がった。
それだけで常連達の表情がほころぶ。
フィリアは、丁寧にカップへ注いでいく。
そして緊張しながら最初の一杯を運んだ。
「どうぞ」
受け取った常連の男は、恐る恐る口をつけた。
数秒後、男の表情がパッと明るくなる。
「うまい!」
周囲の常連達も次々と飲み始める。
「おお、本当に美味い!」
「ちゃんと店の味だ!」
「香りがいいな!」
「初めてとは思えねぇ!」
フィリアは、思わず胸を撫で下ろした。
どうやら成功したらしい。
するとカウンターの奥から、マスターが微笑みかける。
「合格だね」
その言葉に、緊張していたフィリアの表情が、少しだけ柔らかくなった。
帝国最高峰の薬師試験に合格した時よりも、嬉しい気がした。
その時、カランと鈴が鳴り、店の扉が開いた。
入ってきたのは見覚えのない男性だった。
歳は、40代後半くらいだろうか。
背筋が伸びており、服装も整っている。
無駄のない顔立ちで、どこか渋みのある雰囲気を纏っていた。
いわゆる『スマートなおじさま』だ。
フィリアは、すぐに接客モードへ切り替わる。
「いらっしゃいませ。当店は、初めてのご来店ですか?」
『スマートなおじさま』は、キョトンとした。
そして次の瞬間、大笑いした。
「いやいや、俺だよ!」
フィリアは首を傾げた。
「どちら様でしょうか?」
店内が静まり返る。
『スマートなおじさま』は、さらに笑いながら言った。
「権蔵だよ!」
その瞬間―――。
「エエエエエエエッッッ!!!?」
店内に悲鳴が響いた。
「マジかよ!?」
「誰だお前!?」
「若返ってるじゃねぇか!?」
銭湯の常連達が、総立ちになった。
フィリアも目を丸くする。
確かに声は、権蔵だった。
だが、見た目が違い過ぎる。
何より―――。
トレードマークの『無精髭』が消えていた。
あの権蔵の代名詞とも言える無精髭が、跡形もなく消えているのだ。
フィリアは呆然とした。
「本当に権蔵さんですか?」
「本当に権蔵だ」
「誰ですか?」
「だから権蔵だって!」
「権蔵さんは髭があります」
「剃ったんだよ!」
店内は爆笑に包まれた。
権蔵は、苦笑しながら顎を指差した。
「実はな、この髭は【傷】を隠すためだったんだ」
フィリアは「傷?」と聞き返す。
「ああ、若い頃に大怪我をしてな」
そう言って顎を見せる。
確かに薄く跡は残っていた。
しかし、言われなければ分からない程度だ。
「ところが最近な。この店に通い始めてから、傷が薄くなってきたんだ。だから思い切って剃ってみた」
権蔵は、そう言って不思議そうに顎を撫でている。
すると、近くの席から別の常連が言った。
「そういや俺も腰が楽になったな。階段を上るのが苦じゃなくなった」
さらに別の常連も手を挙げる。
「俺なんか喘息が治ったぞ。最近まったく発作が出ねぇ」
「そういや俺も肩こりが減ったな」
「俺もだ」
「俺も最近調子いいぞ」
次々と声が上がる。
常連達は、思わず顔を見合わせた。
偶然だろうか。
いや、偶然にしては数が多すぎる。
気付けば店内は、健康相談会のようになっていた。
フィリアは、もちろん心当たりがあった。
きっとコーヒーを飲んでいるからだろう。
フィリアは、マスターが帰宅した後、毎晩こっそりコーヒー豆に『聖魔法』を付与している。
その豆で淹れたコーヒーを飲んだ事で、体調が良くなったのだろう。
マスターが苦笑する。
「最近、新規のお客さんが増えているのも、その噂が原因かもしれないね」
フィリアが「噂?」と聞き返す。
すると常連の一人が答えた。
「この店に来ると『元気になる』って噂だよ」
「ネットでも、この店が『隠れスポット』として話題になってる」
「俺の会社でも噂になってる」
「俺の娘が通う高校でも、噂になってるみたいだぞ」
フィリアは驚いた。
そういえば『最近お客が増えたな』とは思っていた。
だが、そんな事になっていたとは知らなかった。
権蔵は、コーヒーを一口飲む。
そして満足そうに頷いた。
「うまいな」
「ありがとうございます」
「マスターの味だ」
その言葉にフィリアは少し照れた。
まだ教わる事は多いが、確実に前進している。
そんな実感があった。
窓の外では、今日も街が賑わっている。
店内でも穏やかな笑い声が響いている。
薬師フィリア・アンダルシアの力は、この街…いや、この国へ波紋のように広がり始めていた。
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