メニュー017 ナポリタン
フィリアが喫茶異世界で働き始めてから、早いもので2週間が過ぎた。
人は、環境に慣れる生き物だという。
それは、異世界から来た人間であっても同じだった。
この2週間で、フィリアの生活は、大きく変わった。
まずフィリアは、この世界における【時間】の概念を覚えた。
帝国では、人々は空を見上げて日の位置を確認し、それを『時計代わり』にして暮らしていた。
朝なのか、昼なのか、夕方なのか。
その程度で十分だった。
だが、この世界は違う。
人々は、『腕時計』という『腕輪のような魔道具』を見ながら、正確な時間を把握している。
フィリアも、今ではすっかり『時計の針』を読めるまでになっていた。
【朝6時】
フィリアは、ゆっくりと目を覚ます。
そして、『畳に敷かれた布団』から起き上がる。
ここは、いつもの宿屋ではない。
喫茶異世界の2階にある【8畳の和室】だっ。
和室の小さな棚には『家宝の宝珠』が置かれている。
その宝珠は、母が残してくれた唯一の形見だ。
フィリアは、その宝珠に向かって「おはようママ」と声をかけた。
深い意味はない。
ただ、そうすると少しだけ安心するのだ。
そして、大きく伸びをするフィリア。
窓から差し込む朝日が、気持ち良い。
フィリアは、2週間前の事を思い出した。
フィリアが『私を、この店で働かせて下さい』と頭を下げた『あの日』。
~2週間前~
「でも本当にいいのかい。ウチみたいな小さな喫茶店で働くなんて。たいしたお金もあげられないし」
「構いません。美味しいコーヒーの淹れ方を覚えたいですし。それに、このお店で働きたいんです」
「コーヒーの淹れ方は、閉店後に一緒に練習しよう。それと、少ないお給金の代わりといったらなんだが、もしよかったら、ここの2階に住んでもらっても構わないよ。私は別の場所に住んでいて、2階は空き家なんだ」
「それは、助かります」
「決まりだね。あと毎朝、営業時間前に簡単な賄いも用意しようか」
こうして2週間が過ぎて、今に至る。
2階の『8畳の和室』は、『小さな棚』と『押し入れ』、そして『エアコン』があるだけの簡素な作りだが、トイレや水道は1階の店内設備を利用出来るので生活に不自由は感じない。
まさか、住む場所まで用意してもらえるとは思わなかった。
【朝6時30分】
フィリアは、和室の鏡の前に立ち『制服』へ着替える。
『黒のタキシード風ジャケット』と『黒のパンツ』、『黒の前掛け』、そして『黒の蝶ネクタイ』。
全身を『マットブラック』で統一したシックな装いの制服は、とても格好良かった。
制服に着替えたフィリアは、鏡を見ながら頷いた。
今日も頑張ろう。
【朝7時】
フィリアが1階へ降りると、店内では、香ばしい香りが漂っていた。
すでにマスターが、賄いの準備を進めている。
窓から差し込む朝日が、木製のテーブルを優しく照らしている。
ジャズが流れる店内は、朝から落ち着いた雰囲気に包まれていた。
『ホットコーヒー』と、マスター特製の『ナポリタン』がテーブルに並んだ。
毎朝、営業前に食べる賄いだ。
「おはようございます、マスター」
「おはよう、フィリア」
穏やかな挨拶を交わし席へ着く。
フィリアは、慣れた手つきで、卓上の砂糖とミルクをコーヒーに入れる。
やはり朝は、コーヒーに限る。
フィリアは、すっかり『コーヒー好き』になっていた。
コーヒーを、ひと口飲む。
香りが、鼻へ抜けていく。
程よい苦味と深いコク。
そこへ、砂糖とミルクが加わり、優しい味わいになっている。
身体の奥まで、温かさが染み渡る。
「やっぱりマスターが淹れるコーヒーは、最高ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいね」
次は、マスター特製の『ナポリタン』だ。
フィリアは、フォークを手に取った。
鮮やかな赤色の麺が、皿の上で輝いている。
湯気と共に漂う甘酸っぱい香りが、朝から食欲を刺激する。
フォークで麺を巻き取り、一口食べる。
その瞬間、フィリアの頬が緩んだ。
モチモチだ。
麺には独特の弾力があり、噛むたびに心地良い食感が広がる。
そこへ絡む甘酸っぱい赤いソース。
最初は、果物のような甘さを感じる。
そして後から酸味が追いかけてきて、味を引き締める。
さらにソーセージの旨味が、口の中でソースと混ざり合った。
玉ねぎの甘みも素晴らしい。
火が通ることで辛味が消え、優しい甘さだけが残っている。
ピーマンのほろ苦さも、良いアクセントだ。
個性豊かな具材達が、一つになっている。
見事な調和だった。
フィリアは、夢中になって食べ進める。
気付けばフォークが止まらなくなっていた。
「マスター特製のナポリタン、毎朝食べてるのに全然飽きないです」
「フィリアは、本当にナポリタンが好きだね。言ってくれれば、他の料理も作るんだけど」
「いえ、ナポリタンが良いです。特に、このモチモチした麺が最高です」
「ナポリタンの麺は、冷蔵庫で一晩寝かせているからね。その方が美味しくなるんだよ」
マスターは、楽しそうに、そう説明した。
「ごちそうさまでした」
「じゃあ、そろそろ開店の準備を始めようか」
「はいマスター」
【朝8時】
喫茶異世界の開店時間だ。
フィリアは、店の入り口へ向かった。
扉を開けると、『新宿ゴールデン街』特有の朝の空気が流れてくる。
看板を手に取り『open』にするフィリア。
こうして今日も、フィリアの新たな1日が始まるのであった。
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