メニュー016 不味いコーヒー②
フィリアは、喫茶店のカウンターに立ち、目の前に置かれた『サイフォン』を見つめている。
そして、さっそく問題に直面していた。
サイフォンの構造は、理解出来た。
だが問題は、そこではなかった。
もっと根本的な問題があった。
「火は……どうやって起こすのでしょう?」
フィリアは、そもそも火を起こした経験がなかった。
薬師ギルドでは、火魔法を使える薬師が何人もいた。
フィリアは、火魔法が使えないため、火が必要な時は、いつも仲間の薬師を頼っていた。
帝国では、火魔法以外でも、鉱石を擦りあわせて火を起こす方法がある。
だがフィリアは、一度も自分で火を起こした事がなかったのだ。
この国に来てから気付いた事だが、自分は案外、誰かに支えられて生きてきたらしい。
フィリアが、そんな事を考えていると、老紳士がこちらへ歩いてきた。
痛みが和らいだようで、先程より表情は穏やかだが、それでも歩く度に足を引きずっている。
「お嬢さん。コーヒーを淹れてみたいのかい?」
「はい。でも火の起こし方が、わからなくて……」
フィリアが正直に答えると、老紳士は楽しそうに笑った。
「なるほど。それなら、まずは火より先に教える事があるね」
「火より先にですか?」
「そう。コーヒーは、豆を粉にする所から始まるんだよ」
薬と同じだ。
薬草も、乾燥させて、砕いて、状態を整えてから抽出を行う。
素材の準備こそが重要なのだ。
老紳士は、木製の器具を取り出した。
「これは『ミル』という道具だよ」
「みる?」
「豆を挽くための道具だよ」
そして老紳士は、実演を始めた。
ミルにコーヒー豆を入れて、ゆっくりと取っ手を回す。
ゴリゴリと心地良い音が耳に響く。
フィリアは、幼い頃の記憶を思い出していた。
初めて薬草をすり潰した日の事を……。
『よいかフィリア。薬師の仕事は、薬草を粉にする所から始まる』
ガイアスの声が蘇る。
フィリアは、母を亡くしたばかりの頃、毎日、涙が枯れるまで泣き続けた。
そんな自分を拾ってくれたのが、ガイアスだった。
薬師ギルドは、家だった。
仲間の薬師達は、家族だった。
そしてガイアスは、祖父のような存在だった。
老紳士の声が、フィリアを現実へ引き戻した。
「やってごらん」
「はい」
フィリアは、ゴリゴリとミルを回した。
心地良い音と共に、香ばしい香りが広がる。
コーヒーは、薬と似ている。
フィリアは、懐かしい気持ちになった。
その後も、老紳士の指導は続いた。
アルコールランプに火を灯す方法。
サイフォンの組み立て方。
お湯の量、粉の量。
混ぜ方や抽出の時間。
一つ一つ丁寧に教えてくれる。
まるで、ガイアスのようだ。
フィリアは、少女時代を思い出し、自然と笑顔になっていた。
フィリアと老紳士は、気付けば二人で並んで作業をしている。
この世界で、自分は一人だと思っていた。
だが違った。
世界が変わっても、人との繋がりは生まれる。
そして老紳士が「完成だよ」と頷く。
フィリアは、初めて淹れたコーヒーを前に、緊張している。
「さっそく飲んでみようか」
老紳士は、カップを2つ並べて、フィリアが淹れたコーヒーを注いでゆく。
立ちのぼるコーヒーの香り。
一見成功しているように見える。
効能に関しては、自信がある。
だが、問題は味だ。
フィリアと老紳士は、テーブルに向かい合って座った。
そして、互いにカップを持ち、同時に口へ運ぶ。
ひと口。
そして沈黙。
数秒後―――。
二人は、顔を見合わせた。
そして吹き出した。
「フフッ」
「ハハハッ」
笑いが止まらない。
驚くほど不味い。
不味すぎる。
苦味が強過ぎて、雑味を感じる。
香りも変だ。
先程、老紳士が淹れたコーヒーとは、似ても似つかない。
フィリアは、正直に言った。
「美味しくないですね」
「初めてにしては、まずまずだよ」
「本当ですか?」
「あぁ、なかなかの味だよ」
その時だった。
老紳士が、ふと立ち上がる。
一歩……二歩……。
そして、不思議そうに自分の膝を触る。
老紳士は、目を見開いていた。
「膝が……痛くない」
その言葉に、フィリアは安堵した。
コーヒー豆へ付与した【聖魔法】が効いたようだ。
こちらの世界でも、【聖魔法】が使える。
一方、老紳士は、膝を確認するように、何度も屈伸を繰り返している。
「奇跡だ。全く痛くない。こんな感覚、何十年振りだろう」
老紳士の、その笑顔を見た瞬間、フィリアは思い出した。
自分は、この【笑顔】が見たくて、薬師を続けてきたのだ。
感謝されたい訳でもない。
褒められたい訳でもない。
ただ、人々が笑顔になる瞬間が好きだった。
だから薬師になった。
だから【ポーション】を作り続けた。
全ては、この笑顔のために。
そしてフィリアは、「お願いがあります」と、深く頭を下げた。
老紳士が「お嬢さん?」と驚いている。
フィリアは、頭を下げたまま言った。
「私を、この店で働かせて下さい」
「え?」
フィリアは続けた。
「私は、人を笑顔にする事が好きなんです」
そしてフィリアは、顔を上げた。
フィリアの真っ直ぐな瞳が、老紳士に向けられた。
「このお店で、人々を笑顔にしたいんです」
老紳士は、しばらく黙っていた。
そして、ふっと微笑んだ。
その笑みが、ガイアスの笑顔と重なった。
老紳士は、穏やかな声で言った。
「私は、喫茶店の【マスター】と呼ばれている。だから、そう呼ぶといいよ」
「はい……マスター」
そしてこの世界に、フィリアの【小さな居場所】が出来たのだった。
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