メニュー015 珈琲①
薬師として生きてきたフィリアにとって、この状況は決して見過ごせるものではない。
「本当に大丈夫ですか?」
「いつものことなんです。若い頃に膝を痛めましてね。最近は特に悪くて」
老紳士は苦笑して、そう答えた。
フィリアは、膝へ視線を向ける。
かなり長く患っているように見える。
「治療は受けられたのですか?」
「ええ、一応は。もう歳ですからね」
老紳士は、どこか諦めたような口調で、そう答えた。
フィリアは「とにかく少し休みましょう」と声をかけた。
老紳士は、痛みをこらえながら「はい」と答えて、ゆっくり立ち上がろうとする。
だが、膝に力が入らないらしく、立ち上がる事が出来ない。
フィリアは「つかまって下さい」と肩を貸した。
老紳士は「ありがとうございます」と、フィリアの肩を借りて立ち上がり、奥の席へ移動した。
そして老紳士は、ようやく席に座り、安堵したように息を吐いた。
「申し訳ありません。お客様に、お気をつかわせてしまって」
「気にしないで下さい」
そして老紳士は「表の看板を『close』にしてきてもらえますでしょうか?」と頼んだ。
フィリアは、「わかりました」と答えると、入口に掛けられていた看板を『close』にした。
『close』とは、おそらく『営業終了』を意味する言葉なのだろう。
フィリアが店内に戻ると、老紳士は穏やかな表情で「ありがとうございます」とお礼を言った。
そしてフィリアは、店のカウンターへ視線を向けた。
そこには、どこか懐かしい器具が並んでいる。
透明なガラス容器。
上下に連結された構造。
炎で加熱するための装置。
帝国の『薬液抽出器』と驚くほど似ている。
フィリアは、考えていた。
この器具を使えば、薬を作る事が出来るかもしれない。
そしてフィリアは、いてもたってもいられず「あの……」と声をかけた。
「なんでしょう?」
「カウンターの器具を、少しお借りしたいのですが……」
老紳士は目を丸くした。
「サイフォンをですか?」
「さいふぉん?」
どうやら、あの器具の名前らしい。
フィリアは、『さいふぉん』という器具を、改めてじっくりと観察する。
下の容器で液体を加熱し、蒸気圧を利用して上の容器へ送り込み、その後に抽出を行う仕組みなのだろう。
やはり、薬師ギルドの『薬液抽出器』と、ほぼ同じ構造のようだ。
きっと扱えるはずだ。
そしてフィリアは、「『さいふぉん』に興味がありまして、少し使ってみたいのですが……」と言った。
老紳士は、「構いませんよ」と答えた。
「え?いいのですか?」
「はい。お客様には、ご迷惑をお掛け致しましたので」
フィリアは「ありがとうございます」と、お礼を言ってカウンターに立った。
そして、棚に置かれた『コーヒー豆』に注目した。
黒褐色の小さな粒から、独特の香りがする。
香りから察するに、おそらく先程飲んだ『コーヒー』という飲み物の『原料』だろう。
フィリアは、コーヒー豆を手に取った。
そして、フィリアの視線が『右手』に向けられる。
この右手が、人生を変えた。
この右手が、追放のきっかけとなった。
フィリアの脳裏に、帝国での嫌な記憶が蘇る。
何日も過ごした地下牢の冷たい石床。
皇帝と貴族に囲まれた裁判。
そして、聖女の声。
『あなたは勘違いしたのよ』
『薬師風情が聖女を超えようとした』
『平民風情が身の程をわきまえなかった』
『だからこうなったの』
あの恐怖は、今もはっきりと覚えている。
もし、この世界でも同じ事が起きたら。
もし、また誰かの恨みを買ってしまったら。
もし、また罪を着せられたら。
右手の指先が、小さく震えている。
使わなければ安全だ。
だが―――。
フィリアの視線は、奥の席へ向いた。
老紳士は、膝を押さえながら、苦しそうに休んでいる。
助けたいと思った。
この感情だけは、どの世界でも変わらない。
そしてフィリアは、小さく微笑んだ。
「私は……薬師だから」
それは、自分自身へ向けた言葉だった。
失ったものは多い。
だが、【薬師】である事は失っていない。
覚悟は決まった。
フィリアは、右手を、そっとコーヒー豆に近付けた。
次の瞬間―――。
淡い金色の光の粒子が指先から零れ落ちた。
コーヒー豆へ降り注ぐ光の粒子。
神秘的な淡い光が、コーヒー豆を優しく包み込む。
その光は、フィリアの心を映しているかのような優しい光だった。
光を浴びたコーヒー豆は、宝石のように輝いている。
やがて光は、ゆっくりと輝きを失っていった。
フィリアは、そっと右手を離した。
そこには、先程と何も変わらないコーヒー豆があった。
見た目は同じだが、フィリアは確信していた。
フィリアだけが分かる感覚。
素材へ【魔法】が宿った感覚。
フィリアは、「……よし」と呟いた。
この世界で、初めて【聖魔法】を使った瞬間だった。
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