御影綾乃
「……お前、何をした」
冷たい王狼の瞳が、わたくしを射抜いた。
「え……」
理解できない。
そんな目で見ないで。
そんな声で話さないで。
だって。
ちゃんと反応していた。
わたくしの匂いに。
わたくしを見ていた。
本能は確かにわたくしを番だと認識したはずなのに。
どうして。
どうしてあの女を抱きしめているの?
どうしてそんなにも苦しそうなの?
違う。
こんなはずじゃなかった。
わたくしはただ
レオ様と結ばれたかっただけなのに。
その後のことは、よく覚えていない。
警備員に腕を掴まれた。
何かを叫ばれた気もする。
気付けば別室へ連れて行かれていた。
扉が閉まる音。
そして
「綾乃!」
お父様の声。
聞いたこともないほど厳しい声だった。
「お前は何をした!」
わたくしはゆっくり顔を上げる。
お父様は激しく取り乱していた。
「答えろ!」
「お前、あれをどうやって手に入れた!」
「禁薬だぞ!」
机を叩く音が響く。
「お前一人で入手できる代物ではない!」
「誰だ!」
「誰に渡された!」
お父様は何かを言っている。
怒っているのだろう。
けれど
その言葉は不思議なくらい頭に入ってこなかった。
だって
わたくしの旦那様を決めたのは、
お父様だったではありませんか。
幼い頃からそう教えられてきた。
真壁家へ尽くすこと。
宗家を支えること。
礼儀作法。
教養。
立場。
責任。
それが御影家に生まれた者の務めだと。
そして
その先にはいつもレオ様がいた。
幼い日の憧れ。
いつか隣へ立つはずだった人。
わたくしは、その未来を信じていた。
信じていたのに。
脳裏に浮かぶのは
あの人の腕の中にいた白石唯衣の姿。
そして
わたくしへ向けられた、あの冷たい金色の瞳だった。
雨が降り始めた。
まるで、わたくしの心みたいだった。
窓を叩く雨粒を、自分の部屋から
ぼんやりと見つめる。
携帯は取り上げられ、
外部との連絡も許されない。
実質的な軟禁。
けれど
不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
どうせ
どこへ行っても
あの時のレオ様の瞳が追いかけてくる。
窓際のお気に入りの椅子へ身を沈める。
脳裏に浮かぶのは、あの金色の瞳だった。
冷たく。
静かで。
そして
ひどく遠かった。
「……お前、何をした」
あの声が離れない。
わたくしは目を閉じる。
どうして
どうしてそんな顔をされたの?
本能は確かに反応していた。
わたくしを見ていた。
わたくしの匂いを追っていた。
なのに。
どうして。
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
その時
「お嬢様」
控えめなノックが響く。
「お茶をお持ちしました」
専属メイドの美月が部屋へ入ってきた。
湯気の立つティーカップをテーブルへ置き、
優しく微笑む。
狐族の耳が小さく揺れた。
「温まりますよ」
「ありがとう」
カップへ手を伸ばす。
けれど
少しも温かくならなかった。
美月は何も言わない。
ただ
いつもより少しだけ近くに立っていた。
まるで
わたくしが壊れないように見守るみたいに。
雨はまだ降り続いている。
「お父様とお母様は?」
美月は一瞬だけ視線を伏せた。
「旦那様と奥様は、真壁家へ向かわれました」
「そう……」
静かに呟く。
真壁家。
その言葉だけで胸が痛んだ。
幼い頃から何度も聞いてきた名前。
いつか嫁ぐはずだった家。
いつか隣へ立つはずだった人。
そう信じて疑わなかった未来。
けれど今は
もう二度と手の届かない場所のように思えた。
わたくしはカップを見つめる。
琥珀色の液体が小さく揺れていた。
「お嬢様」
美月がそっと呼ぶ。
「……なに?」
「少しだけで構いません」
「お茶、飲んでください」
わたくしは思わず小さく笑った。
「美月らしいわね」
「何も召し上がっておりませんから」
少し困ったような顔。
怒っているわけでもない。
責めているわけでもない。
ただ心配している。
それが分かるから。
胸が少し痛かった。
「美月」
「はい」
「わたくしは……」
言葉が続かない。
何を聞きたいのかも分からない。
何を言えばいいのかも分からない。
美月は急かさなかった。
ただ静かに待ってくれる。
昔からそうだった。
転んだ時も。
叱られた時も。
泣いた時も。
いつだって隣にいてくれた。
だから
わたくしはようやく小さく呟く。
「何を間違えたのかしら」
雨音が静かに響く。
美月はしばらく何も言わなかった。
そして
とても優しい声で答えた。
「……分かりません」
その言葉に、わたくしは目を見開く。
慰めではなかった。
綺麗事でもなかった。
だからこそ
胸に真っ直ぐ届いた。
「でも」
美月は続ける。
「お嬢様が苦しんでいることだけは分かります」
狐の耳が少し伏せられる。
「だから今は
無理に答えを探さなくてもよろしいのではありませんか」
その声は少しだけ震えていた。
気付けば
美月の目も赤くなっている。
まるで
わたくしの代わりに泣いているみたいだった。
胸の奥が熱くなる。
それでも
涙はまだ出なかった。
泣いてしまえば楽になるのかもしれない。
けれど
何を失ったのかさえ、
まだ上手く理解できていなかった。
ただ
冷え切っていた指先だけが
少しだけ温かくなった気がした。
本編の裏側や、レオと唯衣の甘い日常をXで更新中です。
小説の合間の息抜きにどうぞ。
X「真壁レオは今日も重い」
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