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 富裕な商人の一族であるサイディアル家の庶子として生を受けたが、死産だと思われて霊安室送りにされ、最近になって聖ルヴァレン修道院という名であると判明した宗教施設に預けられた──と、文章にしてみると劇的な始まり方をしたように思えるが、実のところは、何の役にも立たない穀潰しの厄介者ゆえに、いつ切り捨てられるかわからない状況で冷や汗ものだった、という世知辛い転生を果たしてから、およそ二年が過ぎた。


 シリオン教団で司祭長という地位に就いていた強欲な助平爺のせいで起きた、勘違いも甚だしいとしか言い様のない誘拐事件を除いては、命の危険に晒されるような厄介事に巻き込まれることもなく、寄進の名目で支払われている養育費のおかげで、平穏な毎日を送っている。


 生家の財力を借りたとはいえ、最低限の衣食住を確保することができたのは、産まれて間もない赤子の身としては幸運以外の何物でもなかった。


 自分の才能や努力によって生き抜いてきたわけではないのだ、と改めて頭に叩き込んでおこう。


 異世界の暦については、この間に調べておいた。


 一年が四百日で、十箇月に分けて日を数えている。


 夜中に寝床を抜け出して遊び回るような機会がなかったせいで気付かなかったが、金と銀の二つの月がおよそ二五日周期で交互に夜空を巡っていて、引力や重力の働き方が違うのか衛星としての動き方が異なるのかわからないが、いつ眺めても丸い姿で満ちたり欠けたりしない、ということもわかった。


 前世では、時間を計るときは十二進法が用いられていたのに対して、こちらでは一日を二十の区分に切って、真夜中から真昼までを「昇の刻」と、残りの部分を「降の刻」と呼んでいる。


 暦の月や時刻が「零」を使った数字で表記されていることから、天文学と数学に関する知識が──少なくとも、支配者階級に属する連中や学者の間では──浸透している、と考えていいだろう。


 また、ファラール王国の気候には、春夏秋冬に相当する四季があった。


 銀河系と同じような構成の惑星だとしたら、太陽を中心とした公転とある程度の地軸の傾きが存在していることになる。


 加えて、地理や歴史に関する知識も、僅かながら仕入れることができた。


 聖ルヴァレン修道院があるのはファラールの南方地域で、およそ六百年前までこの地を支配していたルビオン王国の時代には、百万人を超える人口と市街全域に広がる上下水道を擁する首都であったサラザード──現在では古都と称されている──から少し離れたところにある、ガーレンの森の中だった。


 年間を通じて寒暖の差が少ない、西岸海洋性の特徴がある温帯で、前世の故郷に劣らぬ降雨量があるのだが、どういうわけか不快に感じるほど湿度が高くならない。


 大陸と海の配置が地球とは違っていて、何らかの形で影響しているのだろうか。


 夏場であっても、陽の当たらない場所にいれば汗をかくこともなく快適に過ごせるのは驚きだった。


 蒸し暑いのが大の苦手な私としては、実にありがたい話だ。


 読書や執筆といった知的な活動は「精神の食事」なので、直に言葉を交わす人間よりも重要で、生きていく上で絶対に欠かせないものだ──個人的には、食うために働いて、くたくたに疲れて寝るだけというのは、野生の動物よりも劣っているのではないかと思う──が、高温多湿は他の何よりも始末の悪い天敵だからだ。


 ただ、気になっていることが一つある。


 私の育ち具合は異常と言ってもよく、まだ二歳だというのに、すでに五歳の子供と同じくらい成長を遂げていたのだ。


 悪目立ちしたくはないが、前世でもこういう事例は稀にあったし、自分の力でどうにかできるものではないので、周囲の関心を集めてしまうのは仕方がないと諦めている。


「だって、セイジは普通じゃないから」


 この一言で、聖ルヴァレン修道院の誰もがすんなり納得してしまうのだが、私としては複雑な気分だ。


 純真無垢な子供とはかけ離れた存在である、というのは自分でも認めているが。


 いずれにしても、体格が大きくなったのは悪いことではない。


 愛用と言ってもいいくらい手に馴染んだ武器──色褪せてはいるが丈夫な造りの皮袋に細かい砂を詰めた鈍器──は、当初は辛うじて護身用に使える程度の代物でしかなかったが、転んだり躓いたりせずに果樹園の中を走り回れる筋力がついた今では、相手が大人の男でもきちんと殴り殺すことができる立派な道具となっている。


 他にも、周囲の者には雑食兎と遊んでやるために作ったと思わせているものを懐に隠し持っている。


 こちらは、皮袋に拳大の石を何個か入れて、口を縛った麻紐にもう一本別の紐を結んで長く伸ばした、ちょっとした飛び道具代わりだ。


 槍を突き出したくらいの距離までしか届かないので使い勝手はよくないが、時間を稼ぐ必要が生じたときに敵を牽制したり、背後から忍び寄って不意討ちをしたりするのには向いているのではないだろうか。


 といっても、腕前は大して上達していない。


 幼児を相手に真剣に訓練してくれる者などいないので、雑食兎が好物であるナーシュの実を平らげて眠たそうにしているところを狙って、麻紐の端を持って思い切り投げつける、というのを毎日やっているのだが、さすがに野生の動物だけあって、振りかぶる動作をした瞬間に気付かれて逃げられてしまうのだ。


 直に小石を当てるよりは幾分かはましだろう、と自分に言い聞かせて続けている。


 私の枕元を塒にしている食いしん坊の居候は、単純に構ってもらっていると感じているらしく、調べものや散策をしているときに催促してくるくらいなので、周囲の目をごまかすのには困らないが。


 そういう意味では、雑食兎の存在は実にありがたいのだが、下手に褒めて調子に乗ると癪に障る行動が増えてしまうため、普段通りに接している。


 問題は──やはり「自由を賄える額の金を得る手段」だった。


 生き抜くために絶対に欠かせない三つの要素、すなわち「知識と金と暴力」については今も習得を続けてはいるが、自分のものだと言える金銭がまったくない状態なのだ。


「お前はまだ小さいのだから、要らぬ心配をするな」


 身元保証人にもなってくれた保護者に相談したところ、返ってきたのは苦笑の混じった小言だった。


 前世でもそうだったが、こちらが子供だからといって、何の説明もなく「大丈夫だから心配するな」と言われて、すんなり納得すると思っているのだろうか?


 さすがに腹が立ったので、その場しのぎのごまかしはやめてくれと食い下がった。


「まったく、子供らしくないな。だが、私の話がちんぷんかんぷんだったとしても文句は抜かすなよ?」


 聖ルヴァレン修道院の管理者である初老の男アルヴェンによると、サイディアル家から定期的に支払われている養育費は、すべて使い切らずに幾分か余らせていて、私がここから巣立つときに支度金として渡してくれるらしい。


「まだ捨てられるかもしれないと思っているのか? 私たち修道院の者にとって、お前は大切な家族なのだ。ここには、子供を望めないせいで、追放の身も同然で送られてきた者も何人かいる。だが、お前のおかげで親になれたと喜んでいる。私もその一人だ」


 普段見せている厳しい表情が緩んで、孫が可愛くて仕方がない好好爺のような顔つきになっていた。


 面倒事を引き受けてくれただけでなく、数年先のことを見越した準備までしてもらっていることについては、本当に感謝の念しかない。


 それでも「今すぐ使える金銭が手元にない」という事実は変わっていない。


 結局のところ、商売を始めるにしても、賭場に出向いて運試しするにしても、元となる種銭すら持っていないから、何らかの形で雇われ仕事して働くか、それに類する真似をして稼がなければならないわけだ。


 生まれ変わってからも、前世で嫌と言うほど味わった胸糞悪い思いをしなければならないのか、と考えると、心の底からうんざりする。


 現時点でできるのは、十日に一度の割合で修道院に出入りしている行商人から、売買に関する事柄や普段の暮らしぶり、何年くらい下積み生活をする必要があるのか、どれほど儲けが出て手元にはいくら残るのか、といった話を詳しく教えてもらうことだけだ。


 絶望的なまでに知識と経験が足りていないし、サイディアル家から食うに困らない額の財産を譲り受けることができなければ、自分だけの力でやっていくのは想像以上に難しいだろう。


 だが、最も厄介なのは、どういっだ分野の事業で身を立てるのか決めることだ。


「自分の道を選ぶ」という言い方をすれば格好はいいが、私にとっては働くことは自分の寿命を縮める労苦でしかなく、金銭と引き換えに身体を売らざるを得ない娼婦と同じで、仕事に対して感じるのは屈辱と怒りと憎しみだけだからだ。


 さらに、目的は「自由を賄える額の金を手に入れること」なので、特にやりたいことがあるわけではない。


 元より答えがないまま、稼ぐために何かしなければならない状況なのだ。


「くぅん?」


 不穏な感情が伝わったのか、枕元で丸くなっていた雑食兎が心配そうな様子でこちらを窺ってきた。


 まだ二歳なのだから焦らなくても大丈夫ではないか、と自分に言い聞かせても、気分は落ち着かない。


 私のものである人生なのに何一つ思い通りにならず、どこの誰とも知れない者に運命を握られているように感じられて、行き場のない怒りが込み上げてくるのだ。


 おそらく、懸命に切り詰めても数日分の収入額くらいしか残らない金のためにあくせく働くだけで、生きている実感もなく、身も心も疲れ果てて、やりたいこともできずに健康を害して死んでしまった、という前世の影響もあるのだろう。


「くぅん」


 相変わらず腹の底で燻っている悪感情がどうにか鎮まったとき、雑食兎が甘えるような鳴き声を上げて、私の腰のあたりに頭を擦りつけてきた。


 仔犬みたいに昼夜を問わずまとわりついているくせに、懐き方が飼い猫そっくりで梨に似た果物が大好き、という薄緑色の毛皮の謎めいた生き物は、いつの間にか私の孤独を癒してくれる貴重な存在になっていた。


「くぅ!」


 ちょっと褒めただけで調子に乗って、勢いよく抱きついてくるのがうざったいが。


 まあ、溜め込んでいた鬱憤が多少は晴れたので、今は叱らないでおこう。


 腹を立てて周囲に八つ当たりしたところで、自分が使える金が手元に転がり込んでくるわけではないのだから。


 気分転換を兼ねて、他の事柄に目を向けることにした──瞬間、息を飲んだ。


 そのうち聖ルヴァレン修道院を出て一人で生きていく、と決めていながら、当座の金を稼ぐ手段のことばかり考えていたせいで、それ以前に衣食住を自分で確保しなければならない、というのをすっかり忘れてしまっていたのだ。


 迂闊だった。


 極端な話だが、金銭的な収入がまったくなくても、雨風と寒暑を凌げる寝床と、飢えと渇きを心配せずに済む量の飲料水と食糧、首から下を覆い隠すことができて身体の動きを妨げない衣服があれば、少なくとも野垂れ死にだけは避けられるのだ。


 もっとも、とても人間的な生活と呼べる代物ではないだろうが。


 いずれにしても、金儲けについて頭を振り絞っても、結局のところ何も思い浮かばずに行き詰まってしまうだけだから、初心に帰って、文字通り生き抜くために必要となる部分をどうにかする、という方向で検討するとしよう。


 元が面倒臭がりで、自分がやりたくないことは、金を払って代わりに行ってくれる者を雇えばいい、と思っていたせいで、自給自足しなければならないという事態は完全に意識から抜け落ちてしまっていた。


 前世では手作りなどしたことがなく、衣食住に関する必需品はすべて「どこかの誰かが造ってくれたものを買う」ことで得ていたからだろう。


 ひとまず、どういったものが欠かせないのか、思いつく限り紙に書き出してみた。


 脳裏に浮かんだものを手当たり次第に記していったのだが、想像していたよりも何倍も多くて、自給自足するのはこんなにも面倒だったのか、と頭を抱えたくなった。


 考えが甘かったと認めざるを得ない。


「食」の分野だけで、一枚目の大麻紙が隙間なく埋まってしまった。


 十分な広さがある平坦な土地、暴風雨に耐えられるくらい頑丈な造りの家屋、農作物の栽培に適した土壌、穀物や野菜の種や果樹の苗、畑を耕したり実ったものを収穫したりするのに使う諸々の道具類、運搬用の荷車や背負うための帯がついた籠、冬を越せる分を貯蔵しておける食糧庫、干したり煮詰めたりした保存食を入れておく大小の硝子瓶、飲料水を賄うための上水道と農作物用の水路、塩や醤油といった各種調味料、肉や魚の臭みを取り除く香辛料、火を通したり湯を沸かしたりするのに必要となる竈、調理用の鍋や食事を盛りつける皿などの容器。


 米や麦のような、口にできる状態まで加工するのにやたらと手間と労力がかかるものは作らない、という想定で書き綴った結果がこれだ。


 おまけに、空腹を満たす最低限のものだけでは足りているとは言えない。


 多少なりとも人間的な生活をしようと望むのであれば、甘味のある菓子や珈琲のような嗜好品を何種類も──贅沢をしたいと思わず、質素な暮らしをしようと心がけても──揃えなければならないのだ。


 まともに数えるのが馬鹿らしくなって途中でやめてしまった。


 自給自足を目指すべき地点として掲げるのは、私のような生来の面倒臭がりにとっては明らかに間違いだとわかった。


 溜め息をついて、大麻紙と筆記具──今では害獣対策として広く使われるようになった催涙粉末の作り方を売って、銀貨の代わりにもらったもの──を持ち運びができる小物入れにしまい込んだ。


 食うためにくたくたになるまで働いて、余った時間は寝るだけ、という野生動物よりも劣った生き方など、二度と繰り返してなるものか。


 やりたくないことや自分がやらなくても構わないことは、自動で片づけてくれる機械や金を払えば請け負ってくれる他の人間に丸投げして、私にとって本当に重要な事柄に集中できるように手を打たなければならない。


 面倒事は機械にやらせるという言葉で、新たに「個別記録一覧」に出現した異能が頭に浮かんだ。






 生命力:30


 精神力:60


 総合判断力:70


 知識習得力:60


 経験応用力:70


 実践行動力:50


 肉体耐久力:20


 精神耐久力:60


 感情制御力:30


 幸福度:20




 天賦の異能:念動力

       傀儡作成






 数値の変化は、身体が大きくなったことに合わせて上昇した結果にすぎない、と考えて無視する。


 目を向けるべきは「天賦の異能:傀儡作成」の箇所だ。


 何日か前に発生したのだが、手をつけずに放置していた。


 身の危険があるとは思わなかったが、最初に「異能:念動力」に気付いたときと同じで説明がなく、どういう内容のものなのか想像がつかなかったので、警戒していたのだ。


 だが、試しに使うのは今がちょうどいいかもしれない。


「異能:傀儡作成」という名前だから、自分の身代わりとなる人形、あるいは決められた動作を行う機械を操ることができるようになのだろうか。


 幸運にも、最初の世話役だったシーナが誕生日──聖ルヴァレン修道院の死体安置所で私の魂が赤子の身体に宿った日──に贈ってくれたぬいぐるみが手元にある。


 どういうわけか、雑食兎にそっくりな見た目をしているが。


「くぅん?」


 狭くなったので、私の寝床の枕元から大きな手編みの籠に引っ越ししたが、相変わらず仔犬のようにまとわりついて離れようとしない。


 いい加減に慣れてしまったせいか、鬱陶しいとは感じなくなったが。


 さて、早速だが試してみるとしよう。


 大きく息を吐いて、念のために皮袋に砂を詰めた鈍器を手に持ったまま、雑食兎と同じように間の抜けた感じの面で耳が垂れた白灰色のぬいぐるみを取り上げて、脳裏に「異能:傀儡作成」を思い浮かべた。


 その瞬間、果樹園で見かける木の実を嵌め込んで作った目が、内側から明かりが灯ったような光を帯びた。


 なるほど、これが「傀儡」か。


 私の眉間から兎のぬいぐるみに向けて不可視の糸が伸びていき、感覚を共有したような繋がりが生まれた。


 こちらが動かそうと心の中で念じただけで、四本の脚を持ち上げたり振り回したりすることができた。


「く、くぅん!」


 雑食兎が急に動き出したぬいぐるみを怖がって泣きついてきたが、こいつを構っている余裕はない。


 使い慣れていないせいか、少しでも集中を欠くと私の「傀儡」となったぬいぐるみとの繋がりが途絶えてしまう、とわかったからだ。


 何となく扱い方が掴めてきたかと感じられた頃に、頭蓋骨を締めつけられるような鈍い痛みに襲われたので、すかさず「異能:傀儡作成」を打ち切った。


 極細の糸を指先に結んで操り人形を動かすのと同じ感覚だった、ということがわかった程度だったが、現時点では十分な成果だった。


 習熟度が上がれば、前もって仕込んだ動作を無人で行える機械──畑の畝に沿って穴を掘ったり農作物を刈り取ったりするような、図体の大きい工作用のものまで──を従わせることができる、という直感が得られたからだ。


 この感覚は「異能:念動力」を鍛えていたときにもあったもので、いずれこういう使い方を覚えられる、という声が脳裏に伝わってくるのだ。


「個別記録一覧」にしても、いつの間にか出現していた「天賦の異能」にしても、可能な範囲で調べ回っても私の他には前例らしきものが何一つ見つからず、得体の知れない代物で気味が悪いのだが、独力で弄ったり改良したりできるわけではないので、自分にとって役に立ってくれるならば訳がわからなくても構わない、と割り切って利用している。


 ひとまず、ぬいぐるみが簡単な踊りを披露できるくらいになるまで訓練を続けることにしよう。


「異能:傀儡」を使いこなして、一度に何体も操れるようになれば、私にとって無意味で不愉快きわまりない「付加価値が零」の作業──食うために嫌々ながらする仕事や、毎日しなければならない細々とした家事──をすべて、人形や機械にやらせることができるのだ。


 やりがいなど微塵もない面倒臭いだけの雑事から解放されて、ようやく人間的な生活と呼べる暮らしを始められるのだから。


 検証が済んだので、日課である散策を兼ねて薬草園に行くとしよう。


「多数の敵を一度にまとめて殺傷できる毒物」は、これだと思える配合が見つからなくて今も開発中だ。


 害虫除けの野草と腹下し用の毒草を混ぜて作った催涙粉末は、畑を荒らす動物相手には劇的な効果を発揮して、聖ルヴァレン修道院が買い手になってくれて予期せぬ収入源になったが、残念ながら人間に対しては軽い嫌がらせにしかならなかった。


 面と向かって私を穀潰し呼ばわりして拳骨を食らわそうとした年配の修道士と、泣いて騒ぐしか能がない赤子など今すぐ追い出してしまえとわめいていた施療院の長の二人を、仕返しのついでに何度か実験台にしてやったのだが、激しく咳き込ませたりくしゃみをさせたりする程度だったのだ。


 そういうわけで、皮袋に砂を詰めた鈍器の相手になってもらった。


 片方は顎と頬の骨を砕いてやり、もう一人のほうは両膝の皿を叩き割ってやった。


 当然ながら、向こうが先に仕掛けてきたと証言できる目撃者がいる前でだ。


 こちらの法制度──最後まで読み通すのにかなり苦労した『ファラール王国法大全』に載っていた──を調べたとき、犯罪の種別と諸々の刑罰を定めた「治安法」の中に、前世での正当防衛と似た条項があるのを見つけていたのだ。


 修道院の図書室なので、判例集のようなものは置いてなかったから、裁判沙汰になった場合にどんな結果になるか予想がつかず、少しばかり痛い目に遭わせるだけで命までは奪わなかった。


 また、今では呼吸するのと同じように自然に扱える「異能:念動力」を使わずに、私に敵対した人間に躊躇なく暴力を振るえるかどうか確かめる、という別の目的もあった。


 殺すことに対する罪悪感や嫌悪感については、生後百日で誘拐されたときに折り合いをつけていたが、今回のように直に手を下した場合にどうなるのか──例えば、肝心なところで身体が硬直して動けなくなってしまう、とか、正常な判断ができないくらい興奮して自分の心を制御できなくなってしまう、など──確認ができていなかったからだ。


 視野に入ってくるだけで胸糞悪くなる下衆な輩が、呻き声を上げて悶えている姿を見て抱いたのは、胸がすっきりしたという爽快感と、ちゃんと自分の身を守ることができたという安堵感だった。


 忘れた頃にやって来るのではないかと恐れていた精神的な変調もなかった。


「異能:念動力」で助平爺の司祭長を始末したときと同じで、自身に悪影響は出なかったとわかった。


 あとは場数を踏んで荒事に慣れればきちんと暴力を使いこなせるようになる、と目処がついたのは、大きな収穫だった。


 思案に耽っているうちに、野外を出歩くのが好きな雑食兎を連れて、すっかり「毎度お馴染みの場所」になった薬草園に着いた。


 ここの管理人である年配の修道女に挨拶をして、何種類か栽培するようになった毒草を摘んでいく許可を得てから、花の芳香とは違った独特の匂いが漂っている畑に足を踏み入れた。


 フェベルという名の、唐辛子のような刺激臭がする毒草の葉と若い芽をむしって、腰に吊り下げた麻袋に詰めていたとき、まったく覚えのない女の声に呼びかけられて背後を振り返った。


「あなたがセイジね?」


 会ったことがないのに私の顔と名前を知っている、ということは、サイディアル家の関係者だろうか?


 一応は血が繋がっているとはいえ、こちらは厄介者扱いの庶子にすぎないので、迂闊に返答するのは命取りになりかねない。


「驚いたわ、本当に雑食兎が懐いているのね。あら、ごめんなさい。私はサナ、あなたのおばあさんよ」


 赤子の頃に一度だけ会った、見るからに偏屈そうな感じの老人の妻らしいが、額面通り受け止めることはせず、身構えた態勢は崩さなかった。


 サイディアル家について周囲の者に訊いても、古都サラザードでは名の知られた富裕な商人で、貴族に任じられても不思議はないほど儲けている、といった程度のことしかわからなかったからだ。


「ゼクスが、あなたをとても頭がいい赤子だと褒めていたわ。人見知りもしないし、腹が据わっていて将来が楽しみだ、って感心していたのよ」


 今の当主と思われる偏屈爺の名を出されたが、こちらが面識がある人物と親しいと思わせておいて、警戒が緩んだ隙につけ込んで何か仕掛けてくる、というのは、平気な顔で他者を食いものにする連中の常套手段だ。


 この人当たりのよさそうな老婦人が、にこやかな笑みの下でろくでもないことを企んでいたとしても不思議はない。


「客人とはいえ、案内の者を連れずに歩き回られるのは感心しませんな、サナ殿」


 聖ルヴァレン修道院の管理者である初老の男アルヴェンが、苦々しい顔を隠そうともせずに声をかけた。


 私の祖母だというのは間違いないらしいが、同時に我が強くて扱いにくい人間でもあるようだ。


 誰が相手であっても、名の知られた商人の妻が簡単に手玉に取れる女だと思われるわけにはいかない、といった事情があるかもしれないが。


「必要な手続きは済ませましたよ? それに、こちらが頼んでも会わせてもらえなかった孫の顔をやっと見られたのです。はしゃいでしまったことは目を瞑ってもらえないかしら?」


「その子は前に拐われたことがある身なのです。サナ殿とて警戒されていますよ?」


 初老の男アルヴェンは私に向き直った。


「聞いていた通りだ、セイジ。急な話ですまないが、明日の朝、お前はサイディアル家に引き取られることになった」






 


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