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生後百日足らずの赤子である私が誘拐に遭ったのは、結局のところ「自分とはまったく関係のないことが原因で運悪くとばっちりを食らっただけ」と判明した。
修道院を管轄するシリオン教団で司祭長という地位に就いていた強欲な老人が、内部の事情を探らせるために、病弱の母親を抱えて金銭的に困窮していたミレアを間者として送り込んだのだが、私について「他の施設では考えられない厚待遇を受けている嬰児がいる」と伝えられて、初老の男アルヴェンに隠し子がいて密かに育てているに違いない、と受け取ったのが、今回の悪事を企むきっかけになったらしい。
組織の幹部が構成する審問会にかけて、僧侶にあるまじき行為だと弾劾して初老の男を追放し、多額の金を自由に扱える地位を手に入れて、権力を笠に着て好みの修道女を何人も情婦にしてやろう、と目論んでいたそうだ。
実に馬鹿げた話だった。
ミレアが私の世話役に命じられたのは、ただ単純に「新たに入ってきた修道女に重要な職務を任せるのは無理だから、ここの暮らしに慣れるまでは、本人の負担にならないと思われる仕事に就かせることになった」という理由にすぎない。
厚待遇というのは「一人部屋を与えられていること」を意味していたようだが、ここに預けられている赤子が今のところ私しかいないから当然の話だし、そもそも寝床として与えられたのは物置代わりに使われていた空き部屋なのだ。
修道院の管理者が自ら足を運んで会いに来るのも、ファラール王国内でも名の知られた商人であるサイディアル家との繋がりを外部の人間──詳しく言えば、初老の男アルヴェンとその姪であるシーナ以外のすべての者──に悟られぬようにするためだし、私の存在をできるだけ秘匿しようとした結果として、傍目には大事にされていると映っただけだ。
というわけで、下心丸出しで不愉快きわまりない助平爺ことナルメーニ司祭長の葬儀も終わり、誘拐の件は闇に葬られて、いつもの日常に戻った。
懸念していたことも、深刻な厄介事にならずに済んだ。
誘拐犯の一味がろくでもない連中だったとはいえ、私が人間を殺したことは紛れもない事実だった。
もちろん、こちらに手を出した時点で、相応の報復、すなわち死刑をくれてやることは決めていた。
容赦するつもりはなかったし、後悔など微塵もしていない。
私にとっては、他人の命を奪うよりも、何もしないで自分を見殺しにするほうがよほど始末が悪い。
それでも、今でも血と屍肉の臭いが鮮やかに蘇ってくる生々しい記憶や、多少なりとも抱いている罪の意識によって、悪夢や幻覚に苛まれて心を病んでしまうのではないかと恐れていたのだ。
私の不安とは裏腹に、そういった症状はまったく現れなかった。
あの日からずっと、どす黒い澱のようなものが胸の奥に居座ってはいるが。
前世の私だったら、あれこれ思い悩んだ末に塞ぎ込んだり、自棄になって馬鹿な真似をしたりしたかもしれない。
だが、この赤子の身体に宿ったおかげなのか、否定的な考えを引きずることなく現在に至っている。
以前と変わったのは、シリオン教団とその組織に関わっている権力者連中について調べ始めたことと、図書室から借りてくる書物に宗教の歴史や国内の政情を解説しているものが増えたこと、そして幼児と呼んでも差し支えないくらい身体が大きくなって、動き回れる範囲が修道院の敷地内全体まで広がったことだろうか。
気がつけば、誘拐された日から──こちらの暦についてまだ知らないので、前世の数え方で言えば──何箇月か過ぎていた。
一度に大勢の敵を怯ませる武器として利用できそうな薬草を探して、研究を続けている毎日だ。
専門的な知識などまったく持ち合わせていないし、誰からも教わることができなかった調合の仕方も手探りで進めなければならず、かなり難航して多くの材料を無駄にしてしまったが、偶然に助けられて、求めていたものを得ることができた。
害虫除けの野草と腹下し用の毒草をある特定の割合で混ぜ合わせると、催涙弾のような効果を発揮することがわかったのだ。
だが、使い勝手のよさそうな乾燥粉末が開発できた直後に、予期していなかった事態に遭って、やむなく研究を中断せざるを得なくなった。
熱を出して寝込んだのだ。
初老の男アルヴェンの秘書官のような職務に就いたシーナと、相変わらず私の世話役を担っているミレアに教えてもらって、この症状が健全な乳幼児にとっては避けることが難しい「二十日熱」と呼ばれる病だと知った。
そう言えば、前世でも三歳くらいの年齢で麻疹や水疱瘡といったものにかかったな、と思い出した。
子供を持つ親にとっては、この「二十日熱」は敬遠されるというよりはむしろ喜ばれるもので、下手に何事もなく育ってしまうと、必要な免疫を持てなかったせいか大人になってから病弱になることが多いそうだ。
「くぅん」
三日前に寝込んでからどういうわけか私から離れようとしなくなった雑食兎が、お気に入りのガプの実──葡萄と林檎をかけ合わせたような味がする果物──を一つ枕元に置いて、心配するような声で鳴いた。
下衆な好色爺がいなくなって心配事から解放されたミレアは、本来の性格を取り戻して溌剌な面を見せることが多くなったが、このときは「私なんて近くに寄っただけで引っ掻かれそうになったのに、なんでこんなに懐いているの」と悔しがっていた。
残念ながら、こいつの振る舞いは感心するような代物ではない。
熱のせいで身体がだるくて頭が痛いとはいえ、起き上がって歩き回る程度ならば無理をしなくてもできるから、細々とした世話をしてもらう必要はない。
雑食兎は私がどういう状態なのかわかっていて、朝から晩までつきまとって「過保護なお姉さん」になりきっているのだ。
鬱陶しいと感じながらも追い払うことができず、きっと背伸びしたい年頃なのだろうと諦めて、仕方なく放置している。
間近で生態を観察していても、何とも掴みどころがなくてよくわからない動物だとしか言えない。
直に餌をくれてやったことなど一度もないのに、修道院の者からはすっかり飼い主だと見なされてしまっているが、この雑食兎が人間並みの高い知性を持っているのか、ただ寝るのが好きなだけの食いしん坊なのか、未だに判断がついていない。
「くぅ!」
不機嫌そうな鳴き声が耳元に響いた。
たまに、私が胸の内で思っていることを読み取っているかのように、こういった反応を見せて周囲の者を驚かせることがあるが、飼い慣らされた犬と同じように、身近な人間から漏れ出る感情を捉えることができるのだろうか?
もっとも、こいつの言いたいことが何となく伝わってくる、というのは、相変わらずの謎ではあるが。
頭がうまく働かないせいか、どうでもいいことばかり浮かんできてしまう。
熱が下がるまで好きなように動けないのは確実だから、久しぶりに「個別記録一覧」を見るとしようか。
生命力:15
精神力:60
総合判断力:65
知識習得力:50
経験応用力:70
実践行動力:50
肉体耐久力:10
精神耐久力:55
感情制御力:30
幸福度:20
急に身体が大きくなったせいか、全体的に数値が上昇している。
私の目には「幸福度」の伸びが際立っているように見えるが、これについては主観的な部分が影響しているのではないかと考えている。
死産と思われて、息を吹き返した直後に生きたまま墓の下に埋められてしまうか、森の中に放り出されて野垂れ死にする、という状態が最底辺だったとすれば、この修道院で育てられることになって衣食住を確保できた結果、数値がその日のうちに二倍に跳ね上がった。
下心丸出しの助平爺とその手下の連中を「異能:念動力」を使って始末し、他の人間の力を借りずに窮地を脱することができた、と安堵していたら、再び「幸福度」がぐんと伸びたのだ。
何よりも大きく変わったのは、他ならぬ私自身が「個別記録一覧」の存在をごく当たり前だと感じるようになったことだ。
知らぬうちに洗脳されていたのかと危惧したが、異分子である私の魂がこちらの世界に馴染んできた証で、特に不都合がなければ問題はないだろう、と考えるようにした。
ただ一つだけ気になったのは、数多の分野に及ぶ書物を何百冊と所蔵している修道院の図書室にも、この「個別記録一覧」について触れているものがまったく見当たらなかったことだった。
「異能:念動力」についても同様だった。
若者向けの小説にありがちな「転生者特典」か、と一瞬だけ思ってしまったが、自分に都合のいい世の中なんて代物は現実にはあり得ない。
私が過去に例のない存在である、とは考えにくいから、ごく稀にしか起こらない偶然の結果として、本来ならば死んでいたはずの赤子の身体に「個別記録一覧」や「異能:念動力」が宿ってしまった、という風に受け取っておくのが無難だろう。
他の者に知られたら、世界を脅かす異分子として問答無用で処刑や捕縛の対象になってしまう、といった状況も想定しておく必要があるから、二つとも秘匿しておかなければならない。
幸運にも、胸糞悪い好色爺とその一味の始末については、初老の男アルヴェンは教団の暗部が動いたと信じて疑わない様子だった。
世話役のミレアのほうも、私が「異能:念動力」で四人の男の頭を吹っ飛ばした場面を目の前で見せてしまったが、凄惨な光景にかなり衝撃を受けていて、あのときの出来事はほとんど覚えていないらしい。
赤子である私の仕業だったと気付かれていたら、恨みを持っているわけでもない相手を殺さなければならなかったので、後味の悪い思いをせずに済んだな、と安堵の息をついた。
「くぅん」
甘えるような鳴き声とともに、服の袖口を軽く引っ張られた。
「二十日熱」のせいで寝込んでいる時間が長いのだが、だからといって、ずっと小部屋に閉じ籠もっているのも気が滅入ってしまうので、一日に一度は修道院の敷地内を散策するようにしているのだ。
どういうわけか、我が物顔で「過保護なお姉さん」をしている雑食兎は「私のお目つけ役」と見なされていて、微笑ましい姿だと周囲の者からは好評らしい。
こいつの目的が、可愛がってくれる修道女からもらえる好物のナーシュの実──前世の梨に似た果物──であると知っているのは、どうやら私だけのようだ。
「くぅ!」
「女の子に向かって失礼だわ!」といった感じでわめいたが、食い意地が張っているのを今頃になって取り繕っても無駄だ、と声には出さずに言い捨てた。
仮に雑食兎が人間の姿をしていても、女の魅力を感じることはないだろう。
「くぅ……」
雌としての誇りが傷つけられた、と悔しがっているような表情を浮かべたが、傍目には滑稽にしか見えないぞ、と伝えてやると、ぴんと立てていた耳を垂れて俯いてしまった。
私が何も言っていないのに勝手についてくる雑食兎を放っておいて、鉛を詰めたように重く感じる身体を引きずりながら、今日は絶対に見に行くと決めていた場所に向かった。
足を運んだのは墓地だ。
近隣の集落に住んでいた五十歳くらいの女が、十日ほど前に茸や山菜を採りに出かけて行方知れずになり、私が誘拐されたときに連れて行かれた丸木小屋の近くで死体となって発見されたそうだ。
誰かが亡くなったという程度ならば珍しくもないし、いつもだったら気を留めることもなかったのだが、修道院に運ばれてきたときには野犬の群に屍肉を貪られて白骨化していた、という話を聞いて、これは自分の目で確かめておかなければならないと思ったのだ。
こちらの人間の死体を手に入れて解剖するのは、日常の暮らしを続けている限りはまず無理だと思っているから、相手が老齢に差しかかっているとはいえ、本物の骨格を間近で観察できる貴重な機会を逃すわけにはいかなかった。
ただ、修道院の者から「人間の亡骸に興味を持った異常な幼児」と気味悪がられるのは避けておきたい。
「普段は見かけない連中が集まる葬儀の場が物珍しくて、何事かと思って覗きに来た」と受け取られるように、無邪気そうに振る舞う必要がある。
死者が出たときにどんな弔い方をするのか、という部分も気になっていたから、いつも通りにしていても警戒されることはないだろうが、私がサイディアル家の庶子であると感づいている者がいるかもしれないし、周囲の顔色を窺うのは忘れないようにしよう。
「あら、セイジじゃない。もう外に出ても大丈夫なの? あまり無理したら駄目よ。何かあったら、一緒にいる『お姉さん』に言いなさいね?」
「くぅ!」
久しぶりに会ったシーナが笑いながら私の頭を撫でて、葬儀の用意をしている黒灰色の僧衣姿の男の元に向かった。
雑食兎は上機嫌そうに返事をしたが、実際にはナーシュの実をお裾分けしてもらうのが目当てだったようだ。
甘い匂いのする果物を夢中で頬張っている食いしん坊は相手にせず、麻布を被せられた白骨死体にこっそり近づいた。
故人の顔馴染みと思われる者の前で覆いを剥がすわけにはいかなかったので、布越しに観察する羽目になったが、求めていた知識は得ることができた。
骨格の形そのものは、前世の人間のものとほとんど変わらなかった。
特に目立った違いは、肋骨の数が二本多くて十四本あることと、肩甲骨が縦長の楕円に近い形状をしていることだろうか。
何よりも私の気を引いたのは、骨盤の中央にある空洞──胎児が通り抜ける産道──の大きさだった。
ざっと見ただけだが、今の私が頭を突っ込んでもぎりぎり引っかからない寸法だ。
こちらの世界の女の妊娠期間がどれくらいかなのかわかっていないが、私の魂が宿った赤子は、前世の成長度で言えば、母親の胎内から出てきた時点で一歳の乳児と同じくらいまで育っていた、と考えていいだろう。
修道院の図書室に所蔵されていた書物を手当たり次第漁った結果、一応とはいえ言語の読み書きができるようになったのは、周囲の人間の反応を見た限りでは明らかに異常な事態だったらしいが、生後三十日足らずで立って歩けるようになったのは、大騒ぎするほどの出来事ではなかったとわかった。
あれこれ考察をしながら、何食わぬ顔で葬儀の場に居座って、元の面影が読み取れない遺体を収めた棺──宗教的な理由があるのか、伐採したばかりで樹皮を剥いでいない丸木が使われていた──が墓穴に埋められるまで見物した。
死者の冥福を祈るという慣習は、異世界でも似たようなものだった。
こういう方面には元から関心がなかったせいもあって、驚くべき発見はなかった。
ひとまず用件は済んだと小部屋に引き返して、扉を開けて中に入った瞬間、両手を腰に当てて待ち構えていたミレアに捕まった。
誰にも告げずに一人で勝手に外に出たのを軽く叱られたが、墓地で行われていた葬儀を見ていた、と身振り混じりで説明して難を逃れた。
いつものように、世話役の女の前では無垢な幼児を装って、寂しそうな表情を浮かべて抱きついてやったら、あっさり機嫌が直った。
実に面倒臭いのだが、身近に接している相手──病弱な母親を抱えていたために教団の司祭長だった老人に脅されていたとはいえ、私に敵対した者の側についたことがある警戒すべき人間──に疑念を持たれることは避けたいので、すでに言葉を流暢に話せることは気付かれないように注意しながら、できるだけ愛想を振り撒いている。
他者の心の機微など心底どうでもいいと思っている私でさえ「扱いやすい女」と感じるくらいで、見方を変えれば「何か弱みを握れば簡単に言いなりにできる女」ということになるから、いつ使い捨ての駒として利用されても不思議はない、という意味で、決して隙を見せられない厄介な相手なのだ。
他人の悪意に対しては完全に鈍いと評しても差し支えないミレアが、私の秘密を話せと迫られたときに、たとえ拷問されても教えてやるものかと頑なに抗う姿は、いくら頭を振り絞っても想像することができない。
「くぅん」
いい気になって「過保護なお姉さん」をしていた雑食兎は、シーナから好みの果物をもらってその場で平らげてから、あっさり私のことを忘れて、満足そうな顔で小部屋に戻ったらしい。
いずれにしても、人間の白骨死体と葬儀の場面を自分の目で確かめることができたのだから、ちょっとした散策の結果としては十分な収穫だったと言えるだろう。
「二十日熱」のほうも、身体の具合が悪くなってから十日くらい経った頃には、すっかり治っていた。
同じ病にかかった他の子供に比べて、かなり回復が早いと驚かれた。
体調が元に戻ってからも、今までやっていたことを変わらず続けていた。
害虫除けの野草と腹下し用の毒草を混ぜ合わせた催涙粉末を大量に作って、どんな使い方をするのが最も効果的なのか探っている。
袋状のものに詰めて投げつける、という用法になると思うが、相手に当たったと同時に破裂する材料がまだ見つかっていないので、鞣した皮の切れ端や拭き掃除にも使えない古びた布地を加工して試行錯誤しているところだ。
多数の敵をまとめて片づける武器の開発が煮詰まってしまって、気晴らしを兼ねて金の稼ぎ方についても調べている。
転生先となったファラール王国という場所で、どれくらい貨幣経済が発達しているのか掴めてはいないが、修道院への寄進を受けたり日用品を購入したりする際には金貨や銀貨が使われている、というのは知っていた。
催涙粉末が完成して実験を始めた頃に、初老の男アルヴェンに呼び出されて、人払いを済ませた執務室でいったい何事かと詰問され、自分の身を守るために必要だから作ったと説明してやったことがあった。
そのときに、赤褐色の皮表紙で綴じられた帳簿──格好つけた飾り文字で「出納帳」と書かれていた──を少しだけ覗き見できたのだ。
「金の稼ぎ方を学びたいから、何年か前のもので構わないので、売買を扱った書類を読ませてほしい」と頼んでみたら、あっさり認めてもらえた。
「やはりサイディアル家の血筋だな。赤子にしてはあまりにも異常だったが、親に倣って根っからの商人ということか」
向こうは一人で勝手に納得していたが、私にとって都合のいい勘違いをしてくれた形になったので、礼だけ告げて執務室を出た。
実のところ、自由に生きられるだけの額の金は必要としているが、儲けるための商売に興味を持ったことはない。
個人で稼ぐ手段を他に知らないから仕方なく覚える、といった程度の動機だ。
この点は、飢えと寒さに苦しめられた末に野垂れ死にするのは避けたい、と嫌々ながら雇われ仕事をしていた前世と変わりはないが。
修道院という堅苦しい場所柄、商売とは縁がないのではないかと思っていたが、予想は大きく外れた。
こっそり渡された二年前の出納帳を開いて、真っ先に捉えたのは「販売物」と記された項目だった。
歩いて回ると二日かかるくらいの広さがある敷地には、果樹園と薬草園だけでなく麦や芋を栽培している農園もあって、近隣の集落に住んでいる者を何十人も雇って収穫の手伝いをさせているから、余剰分を乾燥させて保存食にしたり、蜂蜜を入れて煮詰めたものを瓶詰めの商品にしたりしてしている、という話は聞いていたが、意外な品物が目に入ってきた。
修道院の建物内で造られている硝子の容器や、鞣した皮で綴じられた書物──銅版画を作成するのと同じような方法を用いて、ここにある工房で製造している大麻紙に印刷されたもの──まで載っていたのだ。
どうやら、強欲な助平爺に目をつけられても不思議ではないくらい、結構な額の儲けが出ているらしい。
ちなみにファラール王国内で流通しているのは金貨と銀貨と銅貨の三種類で、特に呼び名はなかった。
他国のものと区別する必要があるときだけ「ファーレン金貨」とか「ラザード銀貨」といった言い方をしているそうだ。
ざっと目を通した程度だが、異世界は考えていたよりも豊かで、貨幣経済も発達しているとわかった。
前世ほど大きな規模ではないが、国家が運営する公共事業──主要な街道を整備したり河川に架ける橋梁を建設したりする一方で、飢饉や渇水に備えるために穀物庫や貯水池を各地に造っているらしい──も行われており、そのような高額の費用を捻出するための金融業も存在している。
おそらく、近代的と呼んでも差し支えない水準にあるのではないだろうか。
貸してもらった出納帳の隣に、図書室で見つけた富豪の一族の伝記や、どういうわけか所蔵されていた名も知れぬ行商人の日誌を並べて読み進めるうちに、うんざりしてきて深い溜め息が漏れた。
事業を興すこと自体は、当人の身分によって必要とされる条件が若干変わるが、年齢や性別に関係なく誰でも可能であるとわかった。
市庁舎に行って、自分の名前と取り扱う品物を所定の書類──読み書きと算術ができて売買の資格があるという証明になるそうだ──に記入して提出するだけで、登録した場所で決められた額の税を納めなければならないという制約は受けるが、私のような幼児でも商いを始められるのだ。
言い換えれば、ひと儲けしようと考える者が数え切れないほどいるということだ。
その中には、他人の足を引っ張るしか能がない下衆な輩が混じっているだろうし、私と同じようなことを企んでいる人間が少なからずいるのは間違いない。
自由を賄える額の金を稼ぐのは、思っていたよりも難航するかもしれない、と行商人の日誌の冒頭部分を眺めながら胸の内で呟いた。
この修道院の建物から西欧の中世都市ような雰囲気が感じられるとはいえ、若者向けの物語に出てくる主人公になったつもりで、ちゃんとした下調べもしないで屋台や露店を始めたら、誰からも見向きもされず、売り物にならない屑を山ほど抱えて破産する羽目になるだろう。
雇われ仕事のような商売の一部を請け負う作業と違って、何もかも自分でやらなければならないのだから、計画を立てて十分な準備をするだけでも年単位の時間がかかる、と覚悟しておく必要がある。
焦ったところで物事がうまく運ぶわけではないし、短気な私の好みではないが、ここは長い目で考えるしかあるまい。
手始めに、この修道院で働いている連中が何を欲しがっているか探って、金離れのいい顧客になってくれるかどうか試してみよう。
私にとって最初の商品になりそうなものは、少し前に完成させた催涙粉末だ。
薬草園を担当している連中は、根が善良なせいか、野草と毒草を使って調合するという発想には至らなかったらしい。
医療の役に立つことに関しては他の追随を許さないほど優秀なのだが、まったく違った使い途があるとは考えたこともなかった、と年配の修道女から聞かされた。
まあ、私にしても、大人数の敵をまとめて撃退するための武器になるかもしれない、と閃いたのは偶然だったのだが。
農園の管理をしている剃髪した修道士の話によると、作物を食い荒らしてしまう害獣を追い払うの道具として、人間に対して劇的な効果があるとわかった催涙粉末を何度か試してみたい、とのことだ。
お礼に何でも欲しいものをやるぞ、と言われて、思わず「金貨と銀貨」と口に出しそうになったが、ちゃんとした見返り分を取れる商品かどうかわからない代物の実地試験にすぎない段階なのだ、と自分に言い聞かせた。
私が求めたのは、雑食兎の好物であるナーシュの実を二個入れられるくらいの色褪せた皮袋を三枚と、長さの異なる丈夫な麻の紐を五本だった。
何を勘違いしたのか、年配の修道女がやたら感心していたが、果物を持ち歩きたいわけではない。
皮袋の中身は、粒の細かい砂と拳大の石だ。
実に長い道のりだったが、今の体格でも扱うことができて、普段から身に着けていても疑われることのない武器が手に入ったのだ。




