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「異能:念動力」には物理的法則による限界がある、という事実に気付いたのは、意識を向けただけで盥に汲んだ水を沸騰させることができるようになった頃だった。


 目に見えない分子を振動させること自体は難しくなかったのだが、熱湯に変えるまでの時間を一秒以内に短縮するのは、何度やっても無理だったのだ。


 木の盥くらいの量を沸かして破裂させるまで、どうしても十秒はかかってしまう。


 それでも、人間の頭蓋骨に収まる程度の水を処理するだけだったら、三秒くらいで済ませられるが。


 理想には届かなかったとはいえ、初めて手にした対人用の武器──というよりは相手の意表を突いて仕留める暗器──としては、ひとまず合格と言ってもいいだろう。


 あとは、生身の人間を相手に試して、使い勝手や威力の面でどんな粗があるのか探して改善を重ねていく、という地味な作業をこなすだけだ。


 まあ、あれこれ検証するのは、好きなように外を出歩ける身になってからの話だ──と気長に考えていたのだが、私が想定していたよりも数年早く、この「異能:念動力」を使う羽目になってしまった。


 誘拐されたのだ。


「秘密裏に修道院に預けられたサイディアル家の庶子」という表沙汰にできない立場からすると、いつかこういう目に遭うかもしれないと覚悟はしていたし、秘密裏にかつ後腐れなく始末をつけるのは難しそうだな、という程度にしか感じなかった。


 それでも、生後百日足らずで厄介事に見舞われるとは想像もしなかった。


 偏屈爺と呼ぶのが相応しい血縁上の祖父が商売敵から恨みを買ったか、あるいは身内の誰かが私の存在を邪魔だと感じて消そうと企んだのだろうか?


 可能性としては低そうだ。


 図書室に置いてあった分厚い皮表紙の法典──大人でも両手で抱えないと持ち運ぶのに苦労する本で、その名も『ファラール王国法大全』という大層なものだった──を拾い読みした限りでは、前もって作成してあった遺書に個別に記されている場合を除けば、私のような庶子には相続権は与えられていないのだから。


 もっとも、前世でもそうだったように、やたら格式ばった文章で意味が掴みにくかったので、どこかで勘違いをしているかもしれないが。


 いずれにしても、現在の私の身分は「死産だと思われていたが実は生きていた赤子」にすぎないのだが、何らかの利用価値があると考えた者がサイディアル家の周囲にいる、ということか?


 いや、それもないだろう。


 大人が常に面倒を見なければならない役立たずの幼児など、人身売買を生業にしている連中でさえ、よほど特殊な場合を別にすれば、わざわざ手間と労力をかける気にもならないはずだ。


 私に手出しをしたところで何の得にもならないのは、誰の目にも明らかだ──と思っていたのだが、どうやら他の人間にとっては違っていたようだ。


 誘拐されたのは、日課となっている薬草園と果樹園の散策から帰ってきて、寝床として使っている小部屋で一人で眠っていたときだった。


 私らしからぬ失態だ。


 だが、少なからず油断していたことは認めなければならない。


 自身に向けられた害意を感じたことがなかったのと、図書室にあった書物を相手にして小部屋から出ないことが多かったせいもあって、修道院で暮らしている人間に対して警戒が緩んでしまったのだ。


 深く反省すべきだ。


 修道院に拾われてからずっと衣食住の面倒を見てくれた亜麻色の髪の娘シーナが、別の職務を与えられて顔を合わせる機会が半減し、代わりに二十代後半ぐらいの修道女が世話役に就いた──私のことを複雑な事情を抱えているせいで親元から引き離された可哀想な赤子だ、と信じて疑わなかったようだ──のだが、あまり私に構おうとせずに放っておく性格だったので、こいつが外部から送り込まれた敵側の者だったと気付かなかったのだ。


 幸運にも、私が直接の標的ではなかったせいで命を狙われずに済んだが、下手をすれば殺されていたかもしれないと強く自分を戒めた。


「ごめんなさい……あなたには何の罪もないのに……怖い思いをさせちゃうけど、少しの間だけ我慢してね」


 修道院を囲んでいる森の中にある丸木小屋に駆け込んだ女は、腕に抱えた私に向かって申し訳なさそうに呟いた。


 自分から荒事に手を染めたのではなく、上役の者に命じられたことを仕方なく実行しただけのようだ。


 私のことを避けるほどではないが、基本的にはほったらかしであまり相手をしなかったのは、懐かれて情が移るのを恐れたからかもしれない。


 親兄弟や子供を人質に取られたか、もしくは返済できない額の借金を負わされたのかはわからないが、何者かに個人的な弱みを握られて脅されたのだろう。


 私としても、辛そうな顔をしている目の前の女に恨みは抱いていないし、厄介事を引き起こした張本人であっても、黙って与えられた役割を果たすしかない下っ端の人間には用はないから、こちらの言いなりになるように然るべき処置をする必要はあるが、せいぜい罪の意識に苦しめばいい、という程度の感想しかない。


 命の危険に晒されている状況の中で落ち着いていられたのは、私の誘拐を企てた連中の目的が、修道院の管理者である初老の男を追い出すことだった、というのが早い段階で知れたからだ。


 今回の件を企てた連中は、一歳にもならない赤子が話し言葉を理解しているとは考えておらず、おおっぴらにはできない事情を私の目の前で洗いざらい暴露してくれたのだ。


 いずれにしても、保護者となってくれた人物については疑問に感じていた。


 誰がどう見ても組織の長として職務を果たしているのに、どうして初老の男は修道院の管理者だと言い張るのか?


 蓋を開けてみれば、実に単純きわまりないことだった。


 何年か前に教団組織内で派閥争いがあって、前の修道院長だった人物が、ありもしない罪を着せられて職を追われたせいで、あの初老の男が暫定的に地位を引き継いだそうだ。


 ところが、実務的な面で期待されていたよりも有能で、周囲からの評判もよくて人望もあったため、そのまま新たに修道院長に据えてしまおうという動きが出てきて、利権に目が眩んだ俗物どもの妬みを買ってしまったらしい。


 そのとばっちりを受けた結果、私が誘拐されたのだ。


 おまけに、誘拐犯の一味は、私のことを初老の男の隠し子だと思い込んでいる、という間抜けっぷりだ。


 あまりにも馬鹿らしくて、開いた口が塞がらなかった。


 次いで、腹が立って胸糞悪い気分になった。


 視野の端では、高位の僧侶とわかる格好をした白髪頭の老人が、汚れ仕事を請け負う荒くれ者といった感じの中年男が二人のほうを向いて、修道院から私を連れ出した女は贔屓にしている娼館に売り飛ばすつもりだ、と嗄れた声で笑いながら話しているのを捉えていた。


 こいつらには相応の報復をくれてやる、と心に決めた。


 悪事に手を染める他に選択の余地がなかった、という事情を抱えていたならば、少しは手加減をしてやる気にもなるが、人の迷惑を考える脳も持たない輩には容赦などいらない。


「異能:念動力」の存在が他者に知られてしまう、という懸念は頭から追い払った。


 この場で世話役の女を始末するつもりはないが、何らかの弱みを握られて脅されている相手ならば、今の私が赤子の姿をしていても、暴力を使って黙らせるのは難しくないはずだ。


 だが、聖職者のくせに下心を隠そうともしない助平爺と、反吐が出そうな安酒の臭いを撒き散らしている髭面の男どもは、今にも炸裂しそうな感情の捌け口になってもらう。


 この世の最期に、私の報復を存分に味わうがいい。






《自分の命は神よりも尊く、他人の命は蛆虫よりも卑しい》






 早速だが、少し前に決めた人生の指針を実践することになった。


 この身体が前世のものと異なるせいか、自分の手を血に染めようというのに、忌避感や罪悪感はまったくなかった。


 おそらく「異能:念動力」で一瞬で仕留められるからだろう。


 刃物を手に持って、直に切っ先を突き刺して肉を切り裂く羽目になるとしたら、少しは躊躇したかもしれないが。


 それでも、私に対して害意を向けた「危険な人間」はすべて「安全な死体」にする、と腹を括った。


 標的は、見ているだけで不愉快に感じてしまう白髪頭の僧侶だ。


 力ずくで全員をねじ伏せられるならば、酒臭い好色爺の頭を吹っ飛ばすのは最後に回すのだが、主犯格と思われる下衆野郎は真っ先に片づけることにした。


 殺意を込めて「異能:念動力」を向けようとしたとき、丸木小屋の扉が開いて見知らぬ人間が駆け込んできた。


 危ないところだった。


 胸糞悪い気分が我慢ならなくなったせいか、敵の頭数を正確に把握しておくのを忘れてしまっていた。


 怒りに駆られたときに感情を抑えるのは元から苦手だったのだが、前世の性格は生まれ変わった今でも変わらないようだ。


 顔を上げると、いかにも使い走りといった感のある痩せこけた男が、息を切らしながら白髪頭の老人に耳打ちをしていた。


「あやつめ、儂のことなど眼中にないと言いおるか!」


 痰の絡んだ罵声が飛んだ。


 何があったのか、およそのところは想像がついた。


 細身の男が交渉役として修道院に向かったが、書類の上は死産だったことになっている赤子の身など与り知らぬ、と突っぱねたのだろう。


 組織を束ねる者の立場で考えれば、私のことを切り捨てるのは当然の判断だ。


 一応は血の繋がりがあるサイディアル家にしても、醜聞にはならなくても表沙汰にしたくない私の存在を目障りだと感じているはずだから、この場で殺されるほうが厄介払いができてすっきりする、と考えてもまったく不思議はないし、死体になって帰ってきたとしたら、諸手を挙げて喜んで酒盛りをするかもしれない。


 ただ、私にとっては嬉しくない状況になった。


 人質として利用価値がなければ、泣きわめくしか能がない赤子など何の役にも立たない邪魔者でしかないからだ。


 私があいつらの立場ならば、わざわざ連れて行くことはせず、とっとと始末するほうを選ぶだろう。


 手間をかけるまでもない。


 せいぜい樵か狩人くらいしか立ち入らない森の中に置き去りにするだけで、すぐに腹を空かせた野犬の餌にできるのだから。


 さて、どうしようか。


 一人を始末するのに三秒ほどかかるとすれば、私を腕に抱いている女を除いた男どもを全員片づけるには、少なくとも十二秒は必要になる。


 あの連中が隙を見せてくれる、などと甘い期待をするわけにはいかない。


 つまり、私の仕業だと気付かれたら、最初に不意討ちで助平爺の頭を吹っ飛ばしてから次の獲物に「異能:念動力」を向けるまでに、ほぼ間違いなく殺されてしまうわけだ。


 だからといって、ここで様子見を決め込むのも、何も考えずに突撃するのと同じくらい危険な選択だ。


 修道院の管理者である初老の男に対して脅迫が失敗した腹いせに、拷問めいた仕打ちを受けたり刃物で滅多刺しにされたりするかもしれない。


 仕掛ける機会は今しかないのだ。


 やむを得ない、胸糞悪い連中を血祭りにする順番を変えることで対処しよう。


 殺傷能力が高そうな思われる酒臭い髭面の男どもを先に片づけて、荒事に慣れていない感のある残り二人を始末するのだ。


 ほとんど賭けに近いが、生後百日足らずの赤子が「異能:念動力」という得体の知れぬ武器を使って、誘拐犯を皆殺しにするつもりである、とは微塵も考えていないことを願うしかない。


 皮膚の弛んだ顔を真っ赤にして悪態を吐き散らしている好色爺を見ながら、三人の男は何やら小声で話し合っていた。


 狙ったのは、こちらに背中を向けた瞬間だった。






 ぱあああん!






 密閉した容器に入れた水が一瞬で沸騰して噴き上がったような音が炸裂した。


 ほとんど同時に、地面に落とした陶器が割れたような響きが続いた。


 見るからに高価そうな僧衣を着た好色爺も、痩せこけた使い走りの男も、髭面の仲間の頭蓋骨がいきなり吹っ飛んで、細切れになった脳の組織や血と混ざり合った体液を浴びせられて言葉を失った。


 荒事に慣れていない感のある二人が見せた隙は、絶対に逃してはならない機会だ。


 私を腕に抱いている女が引きつった悲鳴を上げるよりも先に、惚けたように口を開けて固まっている赤ら顔の中年男──酒臭い息を吐いている無精髭の荒くれ者──に狙いを定めた。






 ぱあああん!






「異能:念動力」によって瞬時に沸騰させられた脳漿が急膨張して、空気を詰めた皮袋が破裂したような音とともに、中年男の顔の上半分を吹き飛ばした。


「ひいいいっ!」


「な、何事だ!」


 恐怖に駆られた女の掠れた悲鳴と、慌てて周囲を見回した白髪頭の助平爺の嗄れた叫び声が漏れたときには、痩せこけた使い走りの頭蓋骨が熟れすぎた果実のように勢いよく弾けて、血と体液に濡れた破片を撒き散らしていた。


 特殊な仕込みをした弩弓で射抜かれたと思ったのか、派手な色合いの僧衣を着た老人は灌木の陰に身を隠そうとして駆け出した。


 悪足掻きしても無駄だ。


 私の目で捉えられる範囲内ならば、正面から顔が見えていなくても「異能:念動力」が発動するのは、どんな使い方ができるのか調べていたときに確認している。


 性根の腐った好色爺は気が狂いそうになるまで痛めつけてから始末したかったが、今は息の根を止めることを優先しなければならない。






 弾けろ。






 念じた直後に、こちらに背を向けた老人の頭がくぐもった音とともに破裂して、濁った眼球が降り積もった落葉の上に転がり落ちた。


 これで誘拐犯は全員死んだ──と思って安心するのはまだ早い。


 異世界の人間の構造は前世で見知ったものと同じである、という仮定の元に連中の頭を破壊したが、自分の手で死体を解剖したことはないので、こいつらが本当に息絶えているのか確かめる必要がある。


 かつての哺乳類や類人猿という枠の中だったら、間違いなく屍肉になっていると考えていいのだが、今の時点ではそう言い切ることができない。


 他ならぬ私自身が、昔の記憶にある「人間」とは明らかに違った生き物に変わっているのだ。


 こいつらにも同じことが当てはまっても不思議はない。


 脳を潰されても死ぬことはなく、私の目を欺くために動けなくなった振りをしているかもしれないし、あるいは物語で見られるような亡者と化して、人間を襲って生き血を貪るかもしれない。


 反撃する余裕を与えてしまうという意味では、このまま何もせずに放置するのは危険な行為なのだが、転生した世界について十分な知識もなく、ろくに検証もできていない状態では、迂闊に手出しするのは命取りになりかねないのだ。


 幸運にも、息をするのも忘れた様子で凍りついている女が、私を腕に抱いたまま、気を失って崩れ落ちそうになるのを耐えながら辛うじて立っている状態だったので、頭の上部が消えてなくなった誘拐犯の一味に不用意に近づかずに済んだ。


 いつでも「異能:念動力」を発動できるように、血みどろになってより胸糞悪くなった連中に視線を向けたまま、じっと動かずに警戒を続けた。


 激しく打っていた胸の鼓動が落ち着いた頃になって、地面に倒れた誘拐犯が間違いなく死んでいると確認できて、緊張していた身体の力を抜いた。






 よかった、うまく行ってくれた。






 心の奥から湧いてきたのは、どうにか死なずに済んだという安堵感だった。


 生身の人間を相手にしたときに自分が期待した通りの結果が出てくれるのか、前もって検証する機会もなく、ぶっつけ本番で「異能:念動力」を使わなければならなくなったが、胸糞悪い連中をちゃんと始末できたのだ。


 良心の呵責に苛まれて苦しむ羽目になるだろうか、という懸念があったが、自分の手で人間を殺したことに対する罪の意識は微塵も感じなかった。


 脳の箍が外れたような興奮も、官憲に追われる身になって他の連中から迫害を受けるかもしれないという恐怖も、理性が麻痺して訳がわからなくなるような混乱もなかった。


 人としておかしいのではないかと思われるかもしれないが、私は「敵対した者を生かしておいたら、いつやり返されるかわからず、怖くて夜も眠れなくなってしまう」と考えるくらい臆病者なので、きちんと仕留めて死体に変えなければ安心できないのだ。


 だが、すべて終わったわけではない。


 残るは、世話役になった女の口封じだ。


 都合のいいことに、教団で高位の僧侶だった好色爺と手下の者を殺したのが赤子である私の仕業だった、とは想像もしていない様子だ。


 おそらく、誘拐犯の一味を待ち伏せしていた者が、爆薬のようなものを仕込んだ弓矢で頭を射抜いたと信じているのだろう。


 どういう風にこの状況を利用しようか、と考えていたとき、予期していなかった事態が起きた。


「その子を拐ったのはお前だったのか、ミレア」


 地面に降り積もった落葉を踏み砕く音とともに物陰から現れたのは、修道院の管理者と称している初老の男だった。


「アルヴェン様!」


 今まで知らなかったが、私の保護者はそういう名前だったのか、と思いながら、驚愕と恐怖をあらわにして凍りついた女を見上げた。


 黒灰色の僧衣を纏って、頭巾を下ろして顔を隠していたが、蜂蜜色の髪によく似合った白い肌と、心労のせいで少しやつれた感はあるが服の上からでも豊満とわかる身体つきは、下心を持った男が思わず舌なめずりするものだった。


「およその事情は掴んでいる。言いたくなければ黙っていて構わないが、奴に何か弱みを握られて脅されていたのか?」


 ミレアと呼ばれた女は青褪めた唇を噛み締めて、初老の男と目を合わせないように下を向いたまま小さく頷いた。


「お前がしたのは許されざる行為だ。この場を見過ごすことはできない。やむにやまれぬ事情があったことを考えても、また私の権限を使って特例という形を認めさせた上で始末をつけるとしても、何らかの罰が下されるだろう」


「はい……覚悟はしております……罪に問われるのを承知の上で、この子を連れ出したのですから」


「詳しい話は修道院に帰ってからするとしよう。野犬の群が血の臭いを嗅ぎつけてやって来るだろうからな。いずれにしても、今回の件は表沙汰にできないし、ナルメーニ司祭長と随行員は大型の獣に襲われて亡くなった、ということにする。赤子の誘拐などなかった。ここで起きたのは、森の奥では稀に見られる不幸な事故で、結果として尊い人命が失われた。そして、今まで通り、お前にはセイジの世話役を続けてもらう。よいな?」


 蜂蜜色の髪の女は黙ったまま深く頭を下げた。


「言うまでもないだろうが、他の者に口外することは禁ずる。何事もなかったかのように振る舞え」


 初老の男アルヴェンは地面に転がっている四つの死体をちらりと見てから、身を翻して足早に歩き出した。


 頭の上半分が吹っ飛んだ亡骸を持ち帰る素振りも見せず、好色爺が高位の僧侶であると知っていながら葬儀の話すらしなかった。


 この場に放置して、腹を空かせた獣に後始末をさせるつもりらしい。


 まあ、私にとってはどうでもいいことだが。


 一つだけ気になったのは、どうして修道院の管理者を自認する初老の男がこれほど早く現れたのかだ。


 同伴していた二人の護衛は、何かあったときにはいつでも駆けつけられるように灌木の陰に潜ませておいた、というのは少し経ってから気付いたが、交渉役だった使い走りの奴を尾行させていたのだろうか?


 私の疑問に応えるかのように、足元から慣れ親しんだ鳴き声がした。


「くぅん」


 どうやら「修道院に住み着いた珍しい愛玩動物」と認定された雑食兎が、拐われた私を追って丸木小屋までやって来て、初老の男に場所を教えたらしい。


 確かに、こいつの見た目ならば、凶悪な犯罪者にも警戒されないだろう。


 食い意地が張っているだけではなく、気を利かせることもできるようだ。


「くぅ!」


 褒めて褒めて、といった感じで背伸びしたので、雑食兎の頭を撫でてやった。


「くぅん」


 前世ならば「癒し系」と呼ばれる類の締まりのない顔がさらに緩んで、猫が喉を鳴らすときのような鳴き声が漏れた。


 私を腕に抱いているミレアは驚いた顔をしていた。


 ほとんど毎日のように好物の果実を与えて餌付けしているシーナも、懐かれたと思って触ろうとしたら危うく噛みつかれそうになったそうだ。


 とてもそんな風には見えない雑食兎のおかげもあって、私の誘拐は騒動になることなく片づいたし、実行犯である女の口封じについても、修道院の管理者であるアルヴェンが先に手を打って対処してくれた。


 厄介事はすべて解決した──と言いたいところだが、残念ながらそういうわけにはいかなかった。


「さて、セイジ」


 無事に修道院に帰り着いて、沸かした湯と石鹸を使って身綺麗にしたとき、初老の男が寝床として与えられた小部屋で待ち構えていた。


 世話役の女ミレアも追い払われて、この場には二人きりだった。


「お前には訊いておきたいことがある。今だけは、何もわからない赤子の振りをせずともよい。私の言葉はわかるのだろう?」


 適当にごまかそうとしても無駄だ、と告げられて、仕方なく頷いた。


 今さら取り繕うつもりもない。


 動物図鑑や植物図鑑を眺めているだけならば、ただ「色鮮やかな絵が好きになった」で済ませられるが、法律書や歴史書や偉人の伝記や旅行記を読み漁って、さらに薬草園に入り浸って毒物として使えるものがあるかどうか調べ回っていたのだから、変な目で見られたり、赤子にしては異常だと思われたりするのは、ごく当然の反応だろう。


 そもそも、独力で衣食住を確保できていない状況なのに、保護者になってくれた相手を敵に回すことなどあり得ない。


 腹の中で何を考えているのかわからない人物がどういう難題をふっかけてくるのか、と警戒していた私に向けられたのは、謝罪の言葉だった。


「先に言っておかなければならないな。私のせいで、無関係だったお前を危険な目に遭わせてしまった。すまない」


 誘拐犯の一味が、私のことを初老の男アルヴェンの隠し子だと信じて疑わなかったのを思い出した。


 ちゃんと喋ることはできるのだが、相手と真剣に向き合う気にはならないので、言葉を聞き取れるが口がうまく動かなくて話をするのは無理だ、という印象を持たせるために黙ったまま頷いた。


「一歳にもならない赤子に向かって言う台詞ではないが、お前ならば理解できると思って伝えておこう。とばっちりを食らわせてしまった詫びと考えてくれて構わない」


 初老の男は苦々しい表情を浮かべた。


 聞かされたのは、誘拐犯の一味が私の前でおおっぴらに暴露していた話だった。


 要するに、信仰と献身を掲げている宗教組織──シリオン教団という名前であることが判明した──でも例外ではなく、権力と地位を得るために目障りな者を蹴落とす争いは常について回る、という私にとってはどうでもいい内容だ。


「まあ、お前が拐われた件はついでで、ここからが本題だが。私の勝手な想像だが、あの四人を殺した者を見ていたのではないか?」


 さすがに赤子の仕業かもしれないと疑うには至らなかったようだ。


 この程度であれば問題はない、と判断して首を縦に振った。


「そうか……教団の暗部がついに動いたのだな」


 溜め息混じりの声が呟いた。


「セイジ、とんだ目に遭って腹立たしく思っているだろうが、今日のことは絶対に誰にも喋るな。何か訊かれたら『怖くてずっと目を瞑っていた』とだけ答えなさい。いいな?」


 私にとって実に都合のいい解釈をしてくれたので、素直に頷いておくことにした。


 初老の男アルヴェンは肩の荷が降りたような笑みを浮かべて、私の頭を撫でて小部屋から出て行った。






 


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