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赤子の学習能力は大人と比べて何倍も優れている、という話は聞いていたが、これほど凄まじいものだったとは思っていなかった。
まあ、前世では産まれたばかりの頃の記憶はないから、体験したことなどあるはずがないのだが。
昔の常識が必ずしも当てはまるわけではない、というのは頭ではわかっていても、僅か生後三十日でこちらの人間の言葉がほぼ理解できてしまったことには、正直なところ困惑を隠せない。
まあ、もっともらしい仮説はすでに立てている。
前世では、母親の骨盤を通り抜けられる大きさという制限があるため、赤子は未熟児の状態で産まれてくることを余儀なくされるが、こちらでは、胎内から出てきた時点で一歳の幼児くらいに脳が成長しているのではないか、というものだ。
そういう風に考えれば、わが身に起きていることもある程度は説明がつくし、そもそも自分を納得させるために思いついたものだから、事実からかけ離れた妄想だとしても問題はない。
都合のいいことに、どんな変化があったのかについては、頭の中で「個別記録一覧」を思い浮かべるだけで詳しく知ることができるからだ。
生命力:7
精神力:60
総合判断力:50
知識習得力:40
経験応用力:70
実践行動力:40
肉体耐久力:5
精神耐久力:50
感情制御力:20
幸福度:10
実感はないのだが、この三十日で少しばかり身体が成長したのだろうか?
最初に見たときよりも「生命力」と「肉体耐久力」の数値が僅かに上がっていた。
筋金入りの擦れっ枯らしを自認しているくせに「幸福度」が伸びているのは、おそらく当面の衣食住を確保できたおかげで、野外に放り出されて野垂れ死にする心配がなくなったからだろう。
今では「異能:念動力」にもすっかり慣れて、意識の焦点を合わせてから三秒くらいで常温の水を熱湯に変えることができるようになった。
もっとも、現時点では「害意ある人間を殺すための武器」として不十分なので、鍛練は毎日欠かさずに続けているし、意思を向けてから「一秒以内に対象の脳漿を沸騰させて頭を吹っ飛ばす」という水準に達するまでは、まだまだ長くかかるだろう。
ただ、この「遊戯的設定」めいた代物に抱いていた違和感が少し薄れて、あって当たり前のものと受け止めていることに対しては、異世界に私を送り込んだ者の手によって思考を弄られているのではないか、という疑念が今でも消えない。
気になって仕方がないのだが、だからといって何か変えられるわけではない、と自分に言い聞かせて、ひとまず頭の片隅に置いておくだけにした。
話し言葉を聞き取れるようになったことに加えて、もう一つ大きな収穫があった。
自分の足で立って歩けるようになったのだ。
まったく予想していなかったせいもあって、嬉しい誤算だった。
「異世界で生きていくために必要な知識」を手に入れることは、私にとって他の何よりも優先すべき事柄なのだが、この目的を果たすためには、自分の意思で好きなように動き回れることが絶対に欠かせないからだ。
これはさすがに早すぎるのではないか、と警戒したが、周囲の者は驚きもせず、要らぬ関心を集めることもなかった。
どうにか階段の昇り降りを苦労しながらできるようになった程度なので、この修道院の敷地から出ることはまだ許されていないが、石造りの建物の内部は──入ってもいいと言われた場所については──すでに調べてあるし、中庭から回廊を挟んだ向かいにある果樹園と、私の寝床として与えられた小部屋からすぐに行ける薬草園は、散歩のついでに毎日訪れている。
特筆すべきは、正式な管理者だとわかった初老の男の執務室の隣に、多岐にわたる本を所蔵している図書室があったことだ。
予期せぬ幸運はさらに続いた。
私の世話役を買って出たシーナ──初老の男の姪で、疫病で親を亡くして修道院に引き取られた見習いであると判明した──に連れられて、書物が数多く並んでいる部屋を案内してもらい、赤褐色の皮で綴じられた植物図鑑と動物図鑑を借りることができたのだ。
若者向けの小説では、主人公が魔法に関する書物を見つけて夢中になる、という内容が定番のようになっているが、前世ではいい年した大人だった者が嬉々としてそういった類のものに真っ先に手を伸ばす、というのは、私に言わせればまずあり得ない選択だ。
この時点で「こいつはどうしようもない馬鹿じゃねえのか」とか「転生してから中身が餓鬼になったのか」と呆れて、読むのをやめてしまう者も少なくないだろう。
生き抜くためにどんな知識が必要になるのかわかっていない状態だったら、自分の命に関わる事柄──飲み食いするもの、動物や植物の生態系、地理や気候、衣服や家屋を製造する技術、法や身分制度、金銭や商売など──を扱った書物を、何よりも先に探そうとするのではないか?
もちろん、魔法が「害意ある人間を殺すための武器」として不可欠で、習得する手間と労力に対する見返りが期待した以上である、というのであれば、筋金入りの擦れっ枯らしを自認する私も喜んで飛びつくかもしれないが。
少なくとも、生後三十日でしかない今の時点では、すぐに役に立つかどうか見当がつかない代物など、よほど暇になったときに試しに手をつけてみればいい、という程度のものにすぎない。
得体の知れない──というより、存在するかどうかもわからない──魔法のことは脇に置いて、目を向けるべきは図鑑だ。
おかげで、果樹園や薬草園で見かけた植物や、どういうわけか私に懐いている薄緑色の謎兎について知ることができた。
皮製の哺乳瓶で飲ませてもらっている果汁は、ガプという名前で、見た目も味も林檎と葡萄を混ぜ合わせたようなもの──この修道院がある地方では、小作農くらいの貧しい家でも当たり前のように栽培されていて、赤紫色の実は乾燥させたり煮詰めたりした保存食としても使われており、庶民にとっては馴染みのある果物──だった。
まだ口にしたことはないが、蜜柑のような橙色の実はラジェという呼び名で、梨っぽい姿形をしたのはナーシュという名前だった。
前世の果物と響きや綴りが似ているのが単なる偶然なのか、あるいは何かしら繋がりがあるのか、という疑問が湧いたが、今は気にしないでおこう。
また、何食わぬ顔で私の枕元に居座っている生き物は、図鑑によると「雑食兎」という種で、きわめて警戒心が強くて人間に懐くことはなく、怪我したところを保護された場合を除いては愛玩動物として飼われることもない、と記されていた。
野草や果物を好むが、飢餓に瀕したときは肉でも魚でも食べるらしい。
単独で好き勝手に暮らす性分で、繁殖期でも群を作ることはなく、鳴き声が可愛らしく仔犬そっくりで、餌をやると飼い猫のように顔を擦りつけてくることがある、といった生態まで書かれていた。
図鑑に関しては、動物でも植物でも説明の仕方が統一されていたおかげで、修道女姿の娘シーナに何度も音読してもらった結果、どうにか文章を読めるようになった。
言語の構造や文法の仕組みを把握するのに時間と労力がかかったが、何となく法則性が掴めてから、一気に習得速度が高まったのだ。
前世の言葉で思考していながら、こちらの単語や文章の意味がすんなり脳に流れ込んでくる、という奇妙な感覚だったが、図鑑を読み続けているうちに、当たり前のものとして受け止めるようになっていた。
特に興味深かったのは、書物に使われている紙の原料だった。
前世での大麻に相当する植物で作られているらしい。
どうやら、私が思っているよりも異世界の文明は進んでいるようだ。
産業用の大麻を加工して煉瓦のような建材にしたり、和紙と同じように何百年経っても使える紙にしたりできる、という話は何かの記事で読んだ記憶があったが、前世で実用化には至らなかった技術がすでに広く出回っている、とは想像もしていなかった。
無意識のうちに、若者向けの小説の舞台として設定されているような西欧の中世時代の水準だ、と勝手に思い込んでいたのだろうか。
前世の記憶のせいで知らないうちに抱いていまう偏見には、きちんと気を配っておかなければならない、と自分を戒めた。
初対面の人物に対する社交辞令のつもりでやったことが、激しく相手を侮辱してしまう行為だったら、場合によっては官憲に捕まって処刑台送りにされるかもしれないのだ。
「くぅん」
これまで謎兎と呼んでいた雑食兎が可愛らしい鳴き声を上げて、私のほうを上目遣いで見つめていた。
衣食住の面で厄介になっている修道院では、不本意ながらこいつの飼い主として正式に認められてしまっている。
実質的にはシーナが私のついでに世話をしているのだが、腹が空いたときに好物であるガプの実をねだる場合を除いて、他の人間に懐いたことは一度もないらしく、特に構っているわけではないのにどうして私の傍から離れようとしないのか、今でもよくわかっていない。
ただ、最近になって、雑食兎が何を言いたいのか何となく伝わっている気がする。
「くぅ?」
珍しい反応だった。
ほとんど「お腹空いた」で、たまに「シーナが来た」になるのだが、今回は「知らない人間がこっちを見ている。誰?」だった。
どういうことだ?
この修道院に拾われてから私が会ったのは、施設の管理者である初老の男と、その姪で少しばかり過保護な面のある世話役のシーナだけだ。
他に考えられるとすれば──産みの親であるサイディアル家の人間だろうか?
私のほうは連中の顔などすっかり忘れてしまっているが、向こうはしっかり覚えているのかもしれない。
記憶違いでなければ、前に来たときから三十日ほど経っているから、寄進という名目で養育費を渡すために足を運んだのだろう。
生家の名を知ったときからずっと、何となく厄介事に巻き込まれそうな予感が拭えないのだが、さすがに赤子の身ではどうすることもできないので、当面のところは気付かれないように警戒しながら様子を見るしかない。
念のため、この機会に産みの親がどんな顔をしているのか確かめて、覚えておくことにしよう──と思ったのだが、私に与えられた小部屋の外から覗いていたのは、初めて目にする人物だった。
「くぅん?」
雑食兎が不思議そうな表情で首を傾げたが、何がどうなっているのか私にもわからなかった。
「こちらにおられましたか、ゼクス殿」
修道院の管理者──なのだが、修道院長という肩書きではないらしい──である初老の男の声がした。
「ふん。出来の悪い末息子が素性もわからぬ女を孕ませたのは気に食わんが、一応は血の繋がった孫になるからな。どんな面をしておるのか見ておきたかっただけだ」
偏屈爺という呼び名が相応しい白髪頭の老人が吐き捨てるように言った。
「サイディアル家の事情までは存じませんが、赤子には罪はありませぬぞ」
「わざわざ言われんでもわかっておる。所詮は馬鹿息子がどこぞの女に産ませた庶子にすぎん。執着などしておらんよ」
「まあ、すでに死産だったと手続きを済ませてありますからな。正式には、修道院の者に拾われた孤児の一人です」
ゼクスと呼ばれた白髪頭の老人は不快そうに鼻を鳴らした。
「ふん。善意で預かってやるから、ここの連中が腹一杯食えるくらいの金額を寄越せ、と抜かしたのはどこの誰だ?」
「そのような言い方をした覚えはありませんが、宮廷の官吏にくれてやった賄賂の数々に比べたら、見ず知らずの赤子を養う分など些細なものでしょう?」
「まともな商人なら、どんな種類であれ、銅貨一枚でも出すのを嫌がるものだ。わしとて例外ではない」
白髪頭の老人は苛立たしく嘆息して、鈍器として使えそうな木の杖を突きながら足早に去っていった。
「本当は子供好きなのに、相変わらずなお人だ」
初老の男は苦笑しながら呟いて、目が合った私に向かって小さく手を振った。
「くぅん?」
雑食兎が垂れた耳をぱたぱた揺らして、押し黙ったままの私の代わりに頼りない返事をしたが、初老の男は気付いた様子もなく白髪頭の老人を追っていった。
どうやら懸念していた厄介事ではなかったらしい。
警戒して身構えていたのだが、サイディアル家の当主である祖父が、寄進という名目の養育費を渡すついでに、表沙汰にはできないが一応は孫であることに変わりはない私の顔をこっそり見に来た、といったところだろう。
もっとも、身内だからといって、人間的に信用できるかどうかは別の話だが。
実際にその通りなのかもしれないが、血縁上の父親のことを「出来の悪い馬鹿息子」と他人の目の前で声高に吐き捨てているのだ。
あれほど性格に難があるならば、不要な揉め事を起こすことも多いだろうし、何人もの敵に恨まれていても不思議はない。
修道院の管理者である初老の男が告げた話が事実だとすれば、ここに預けられた直後に死産した赤子として書類上の処理は済んでいるはずだが、すでに終わったことだと決め込むわけにはいかなくなった。
偽造や捏造などいくらでもできてしまう代物なのだ。
いつの間にかサイディアル家の後継者にされて遺産相続に巻き込まれていた、といった事態になってもおかしくはない。
とはいえ、赤子の身でできることはごく限られている。
周囲の者に愛想を振り撒くことを除いては目立たないように過ごして、望んでもいないとばっちりが来ないことを祈るとしよう。
何よりも、他の人間が持っているかどうかわからない「個別記録一覧」と、あまりにも簡単に使えるようになってしまった「異能:念動力」の二つについては、誰にも存在を知られないように秘匿しなければならない。
これらの特殊能力を有しているのが私だけだとしたら、かなりの高確率でろくでもない連中に命を狙われる、と考えられるからだ。
たとえ殺されずに済んだとしても、身柄を拘束されて監獄のような場所に放り込まれた末に、頭の狂った輩に死ぬまで実験台にされる、という希望のかけらもない未来が目に見えている。
そんなのは真っ平だ。
前世では、貧しかったことに加えて無知だったせいで、金銭のために他人の都合に振り回される日々を余儀なくされていたのだ。
望んでもいない転生ではあるが、少なくとも自分の好きなように──他の人間が邪魔をするならば徹底的に排除して──生きてやる、という思いだけは、赤子の身体に宿ったときから心の中に抱いていた。
この目的を果たすために必要とされるのが、知識と金と暴力なのだ。
だから、傲慢だと叩かれようが、人でなしだと罵られようが、新たに与えられた人生の指針は決めてある。
《自分の命は神よりも尊く、他人の命は蛆虫よりも卑しい》
我ながら、心の底まで腐った下衆野郎のような台詞だと思うが、大して意思が強くない人間であるという自覚があるから、これくらい派手な言葉を使わないと、肝心なときに挫けてしまう恐れがあるのだ。
そもそも、実際に私が手を下すのは、敵対した相手にやり返すときだけだ。
誰かの死体が目の前に転がっていても何も感じない、という筋金入りの擦れっ枯らしな私でも、まともな連中と同じくらいの自制心は持ち合わせている。
よほどの出来事でなければ興味も湧かないし感動もしない、というだけで、暴力沙汰を何度も繰り返すような無法者とは違うのだ。
まあ、利害関係のない他人にどう思われるかなど知ったことではないが。
いずれにしても、目を向けるべきは今後のことだ。
サイディアル家という裕福な商人の一族の私生児として生まれ変わったのは、衣食住に関する諸々の問題がなくなった代わりに、血縁者や金銭面にまつわる厄介事が多く舞い込んでくるから、自分に与えられた「個別記録一覧」と「異能:念動力」を用いて困難を乗り越えてみろ、という意味があるのかもしれない。
物語に出てくるような「神の試練」の類だとしたら、うざったい限りだが。
それでも、文明とは無縁な未開の地で、飢えを凌ぐために狩猟や採集に明け暮れるのに比べたら、前世よりも不便な生活を余儀なくされるとしても、紆余曲折を経て現在の境遇に落ち着いたのは紛れもなく幸運だった、と考えておかなければならない。
どこかの都市の貧民街で産まれた赤子だったら、とっくの昔に野良犬の餌にでもなっていただろう。
仮に食い殺されずに済んだとしても、希望のかけらも感じられない状況の中で、どんな手段を使ってでも生き抜いてやるという気力を持ち続けることができただろうか?
私の性格ならば、長く苦しむくらいならさっさと終わらせてしまおう、とその場で死を選んだに違いない。
まあ、暇潰しにしかならない思案を巡らすのはこれくらいにして、だ。
最終的な目的地と呼ぶべきものはすでに胸の内にあるが、今のところは、誰にも頼らず独力で生きていけるようになる、というのを目指すとしよう。
できれば、五歳か六歳になる頃には、この修道院から出て行くことができる状態にしておきたい。
どうせ、一年もしないうちに「異様な赤子だ」と疎まれたり気味悪がられたりするのは間違いないのだから。
いつだったか、あの修道女見習いの娘が興奮して「セイジは天才だわ!」と叔父である初老の男に向かって叫んで、こっぴどく叱られていたのを見たのだが、決定的だったのはそのときに聞こえてきた台詞だった。
「そんなことは一目見ればわかる。ただでさえ、野良の雑食兎がどういうわけか飼い犬のように懐いていたり、余所の子よりも早く立って歩けるようになったりしたせいで、要らぬ関心を集めてしまっているのだ。適当な理由をでっちあげれば多少はごまかせるが、あの歳で話し言葉を理解できて、おまけに大人にとっても難解な文章まで読めるというのは、およそ我々の常識では考えられない事態だ。実の親でさえ、何かの霊に取り憑かれていると信じて寄りつかないくらいだからな。お前が騒ぎたくなる気持ちはわかるが、面倒事に巻き込まれたくなければ、口を慎んでおけ」
驚きはなかった。
むしろ「やはり気付かれていたか」という感想だった。
サイディアル家の私生児である、というおおっぴらにできない事情を別にしても、私が普通の赤子とは違っていることが広く知られてしまうのは、もはや時間の問題でしかないようだ。
私自身、隠し通すことができるとは思っていなかったし、保護者になってくれた初老の男に異常だと感づかれてしまったならば、これからは──警戒されないように自重はするが──無理をして幼児の振りをする必要はない、というわけだ。
早速だが、シーナに頼んで、今日のうちに他の書物を何冊か借りてもらおう。
すでに何度も読み返している植物図鑑と動物図鑑の内容は、ほとんど暗記してしまっているのだ。
所蔵されているかどうかわからないが、この国の地理や歴史、あるいは商人や外交官の旅行記といったものに目を通したい。
それが無理ならば、書かれている内容の半分程度は嘘っぱちだと思うが、偉人や聖人の伝記でもいい。
転生した世界で生き抜くために必要となる知識を手に入れるためにも、今は書物の選り好みなどしてはいられない。
正直なところ、この赤子の身体に宿ってから三十日くらいしか経っていないが、何かに急き立てられているような焦りを感じている。
あと五年もしないうちに、この修道院から追いやられる気がするのだ。
寄進という名目で支払われた養育費と引き換えに、身の回りの世話をしてもらっている穀潰しの居候でしかない──それが現在の私に関する紛れもない事実だ。
他人に尻を叩かれるにせよ、自分のほうが我慢ならなくなるにせよ、遅かれ早かれ出て行くことになるのは間違いないが、たとえ愛着など微塵もない借り家であっても、長く暮らしていた住処を失うというのは本能的な恐怖を感じてしまう。
まったく、あんな胸糞悪い記憶など跡形もなく消えてくれればよかったのに。
前世で否応なく味わう羽目になった感情が湧き上がってきて、誰かが耳を立てていたら思わず眉を顰めてしまうような悪態を吐き散らした。
「くぅん?」
雑食兎が飼い猫のように顔を擦りつけてきたのを感じて、我に返った。
図体は私よりも大きいくせに、どういうわけか甘えたがりなのだ。
「くぅ!」
「わたしのほうがお姉ちゃんなの!」と言いたそうな鳴き声を上げたが、こいつも人間の年齢で喩えればまだ二歳くらいだったな、と思い出した。
「ほら、散歩の時間よ」といった感じで鼻の先で頭を突かれて、午後の日課となっている果樹園巡りに向かった。
最近は、自分の小部屋から近いところにある薬草園のほうが主目的になっている。
この修道院で育てている果樹は一通り味見をしているし、植物図鑑に載っていた内容も暗記済みで、年に何度も実が成って食用に適していること別にすれば、目立った特徴や心に留めておくべき注意点もないので、身近にあるのが当たり前という感覚になってしまった。
逆に、薬草園に生えている植物は、種類が多すぎて全部は把握できていないというのもあるが、調合の仕方まで身に着けないと役に立たないので、見た目と名前を覚えたら終わりというわけにはいかないのだ。
さすがに、何をどのように混ぜ合わせればどんな薬ができるか、といった技術は教えてもらえないだろうし、特に期待もしていないが、少なくとも「乾燥させてから粉末にして服用すれば、こういう症状に対して効能が出る」くらいの知識は習得しておきたい。
また、薬草と呼ばれていても、日々の生活では、生肉の臭みを取ったり芳香をつけたりする調味料として使われるほうが多いから、自分で食事を用意するときにも役に立つ。
植物図鑑に書かれていた内容を思い出しながら、鬱蒼と生い茂っている薬草を一つ一つ観察していくうちに、探していたものを見つけた。
「くぅ!」
手を伸ばして触ろうとしたが、慌てたような鳴き声を上げた雑食兎に遮られた。
思わず笑みが漏れた。
さすがは野生の動物だ。
傍目には赤みがかった色の葉を持つ野草にしか見えないのだが、こいつに毒があるのは本能的に感じ取っているようだ。
茎に生えている細かい棘に触れると、人間の場合だと肌に火傷したような発疹ができるらしい。
それだけならば大したことはないが、この野草の本領は搾り汁にある。
刃物や鏃などに塗って傷を負わせると、どういう仕組みなのかわからないが、出血した箇所から組織が腐敗していき、何もせずに放っておくと、三日も経たないうちに身体の奥にある主要な臓器まで壊死してしまう、という致死性の毒に早変わりするのだ。
もっとも、実際にはそんなに都合のいい話ではない。
この野草の搾り汁を使って誰かを殺そうと思ったら、何十本分もかき集めなければならないからだ。
残念ながら、修道院の薬草園では害虫避けになる野草という扱いでしかなく、毒として利用できるほど栽培されてはいない。
そもそも、本当に危険な代物だったら、よちよち歩きの赤子の立ち入りなど認められるはずがないのだ。
私自身、このジューラという名の野草がすぐに「人間を始末するための武器」になると期待していたわけではない。
「一度に多数の敵を相手にした場合に、どういった手段を取るのが有効だろうか」と頭を捻っているうちに、やはり毒物が最も簡単だろうと思いついただけだ。
だが、ここは予想もしていなかった可能性を秘めていた。
植物図鑑に載っていた記述を思い出しながら、何種類かの薬草を詳しく観察していった結果、私の琴線に触れるものが見つかったのだ。
一撃で敵を仕留める威力はないが、不意を突いて食らわすことができれば、相手の心を砕くくらいの効果は得られるはずだ。




