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 人生の転機は、現在の段階で学ぶべきことを身につけたときや、自分がしてきたこどが完了したときに、そろそろ次に進む時期だと促すように訪れる。


 そういった内容が記された本を過去に読んだ記憶がある。


 前世で「ただ野垂れ死にしたくないからという理由で、やりたくもない仕事を嫌々ながらやって、心身ともに疲れ果てて、家に帰ってからは美味いとも思わない飯を食って寝るだけ、なんてのを年寄りになるまで続けたところで、いったい何の意味があるというのだ?」と、胸糞悪い思いを溜め込みながら、答えの見つからない自問を数え切れないほど繰り返していた頃の話だ。


 その書物によると、失業や離婚、病気や事故、出産や死別といった「一見するとあまり望ましくないように思える出来事」の形を取ることが多いらしい。


 確かに、あのとき起きたことにはこういう意味があったのか、と当時の記憶がほとんど消えかけた頃になってようやく気付いた、という経験ならば私にもある。


 もっとも、実際にそういう出来事の渦中にいるときは落ち着いてなどいられず、周囲の迷惑も考えずに「ちくしょう! どうして自分だけがこんな目に遭わなければいけないんだ!」と怒り狂って、派手に暴れ回ってしまうのだが。


 今回の件は、生きている間に幾度か訪れる「大いなる転機」の一つと呼んでも差し支えないだろう。


 これは感覚的なものなので、言葉で説明するのは難しい。


 何となくわかるのは、仮に駄々をこねる幼児の振りをしてサイディアル家からの誘いを拒んだとしても、おそらく強制されるような形で修道院を出て行かなければならなくなるだろう、ということだ。


 前世の専門書に載っていた用語で分類すると、これまで慣れ親しんでいた場所では手に入らない機会や経験を得るための「別離」に相当する。


 要するに、聖ルヴァレン修道院に居座っても、もうすぐ三歳になる私が新たに得られるものはないか、仮にあったとしてもごく僅かしかない、という状況になっていたわけだ。


 確かに、金の稼ぎ方についての知識を手に入れることも、多数の敵をまとめて始末する毒物の開発も、兎のぬいぐるみを贈ってもらった頃から行き詰まっていたのは自分でも認めざるを得ない。


 ここで暮らしている修道士は、根が善良なのはいいのだが、それゆえ「私にとって役に立つ知識」を習得する対象としてはあまり相応しくないのだ。


 かつて悪事に手を染めていたとか、金銭を騙し取って官憲に捕まった、といった過去を持つ連中は、前もって行われる人物照会で出入りを拒否されるらしい。


 いずれにしても、今の私には選択の余地はない。


 他人の手に生殺与奪を握られている状況なので、おとなしく成り行きに身を任せるしかないのだ。


 まあ、生家の者が何らかの形で干渉してくるだろうと予想はしていたので、思っていたよりも数年ほど早く舞い込んできた話ではあったが、特に驚きはしなかった。


 意外だったのは、ファラール王国の古都サラザードで豪商と呼ばれているサイディアル家の人間が、雇われ者の使用人と同じように扱われても不思議ではない私を身内として受け入れたことと、厳つい顔をした当主が自ら足を運んで引き取りに来たことだった。


 庶子といっても、どこの馬の骨かわからない幼児と呼ばれても文句を言えない立場なのだから、普通ならば考えられない待遇だ。


 もしかしたら、遺産や後継者を巡って何人も死者が出るような争いが起きているのではないかと警戒したが、現時点であれこれ思案しても妄想の域を出ない。


 他者の目には映ることのない「個別記録一覧」と「天賦の異能」を別にすれば、中身が擦れっ枯らしな四十路男というだけで、たまたま五歳の子供と同じくらいの体格に育ってしまった幼児にすぎないのだ。


 何かきっかけがあって、気に入られたのだろうか?


 血縁上の祖父母とは、ほんの少し言葉を交わしたことがあるだけなので、まったく身に覚えがなくて不思議でならないが。


 別れを惜しんで抱擁までしてくれた顔馴染みの連中とは反対に、私のほうは上っ面だけ取り繕った笑顔を振り撒いてやった。


「二年も過ごしたのだから、感慨深いものがあるのではないか」と訊かれたら、私は胸を張って「そんなものは皆無だ」と答えてやる。


 居心地は悪くなかったとはいえ、聖ルヴァレン修道院は一時的に身を置いているだけの仮の住処であって、いつか出て行くことはとっくの昔に決めていたからだ。


 ただ、催涙粉末を売り物にする前から行っていた毒物の研究と開発を、中途半端のまま終えなければならないのが心残りだった。


 乾燥させた薬草や毒草をすり潰して粉末にしたものを、小さな硝子瓶に入れて何種類か確保してあるが、効き目のありそうな組み合わせを試して試して実験をするには分量が足りないので、そのまま利用するしかなくなってしまった。


 それでも、三歳にもならない幼児に使わせるのは危険だという理由で取り上げられずに済んだのは、思わぬ幸運だった。


 修道院の管理者である初老の男アルヴェンが「すべてお前のものだから、気にしないで持っていけ」と言って、餞別の品と一緒に渡してくれたおかげだ。


 サイディアル家のゼクスとサナ──六十歳近い年齢とは思えないほど、若々しく活力に溢れている当主夫妻──にも確かめたところ、いつの間にか一人では持ち運べない量に膨れ上がっていたのだが、決して少なくない私物を持ち込んでも構わない、と認めてくれた。


 その中には、赤子の頃からなぜか私に懐いていた雑食兎も含まれていた。


 こちらの言葉をある程度は解している小動物に、念のため「お前も一緒に来るか?」と訊いたところ、不機嫌そうに鼻を鳴らして拗ねてしまった。


「ひどいわ! 置いていくつもりだったのね!」


 という膨れっ面をした子供のような感情が伝わってきた。


 私についてくるのは当たり前だと思っていたようだ。


 サイディアル家の当主夫妻も、飼い主にべったりな仔犬のように振る舞う雑食兎が気に入った様子だったので、何の問題もなく連れていくことができた。


 まあ、歓迎されるのは悪くないが、あからさまに贔屓されて特別扱いされるのは避けておきたいから、一応は血の繋がりがある相手ではあるが、きっちり線引きをしているとわかる他人行儀な態度は崩さないでおこう。


 向こうには、どこからともなく現れた庶子である私を疎ましいと感じている者も何人かいるだろうし、あからさまに嫌がらせをしてくる連中がいてもおかしくないからだ。


 衣服と食事が与えられる住み込みの職に就いたようなものだ、とでも考えておけばいいだろうか。


 それに、せっかくの機会だ。


 サイディアル家で世話になる間に、独力で生きていくために必要な知識、商売に関する実践と経験、自活するのに十分な額の金銭、そして多数の人間を一度にまとめて始末することができる暴力的手段の四つを、余すことなく手に入れてやろうじゃないか。


 こちらの中身は擦れっ枯らしな四十路男なのだから、今さら子供時代を送ってやるつもりは毛頭ない。


 あまりにも幼児らしくないので気味が悪いと敬遠されるかもしれないが、私にとっては周囲の反応など無価値に等しい。


 ほとんど胸糞悪い思い出しかない前世での経験から、生きている間に出会う人間で真に重要となるのは「だいたい百人の中で一人」しかいないからだ。


 言い換えれば、何らかの形で接触を持った者の「百人のうち九十九人は、一緒にいても時間と労力を無駄にするだけの、まったく取るに足らない相手」ということになる。


 聖ルヴァレン修道院の実質的な長でありながら、職務を任された管理者と自称している初老の男アルヴェンは、私が「普通に話をしても大丈夫かもしれないと思えた貴重な人間の一人」だった。


 だが、それ以外の者──赤子の頃から世話役として面倒を見てくれたシーナや、薬草や毒草について教えてくれた年配の修道女も含めて──は、あくまでも「食事と寝床と知識を得るために仕方なく媚びを売っていた連中」だったわけだ。


 傍目には親しく接しているように見えたとしても、こちらは誰に対しても警戒を緩めることなく、上っ面だけ取り繕った笑顔を振り撒いていたにすぎない。


 当然ながら、新たな保護者になった老夫婦、すなわち私の生殺与奪を握ることになった相手にも「媚びを売る振る舞い」をしている。


 今は、サイディアル家の馬車に乗せられて移動しているところだ。


 前世では見たことがない濃い青色の鬣をした二頭の馬に目を向けていた間に、いつしか当主の奥方である老婦人の膝の上に抱っこされてしまっていた。


 何となく嬉しそうに見えるのは、他の孫が大きくなって、あまり相手をしてもらえなくなったからだろうか。


「怖がらなくてもいいの。ちゃんと顔を見て話をするのは初めてだけど、私たちはあなたのお祖父さんとお祖母さんなのよ?」


 同じ女ならばこういう年の取り方に憧れるのではないかと思えるサナが、おっとりした口調で語りかけてきた。


 小さい子供を相手にするときの話し方なのだろう。


「無理を言うな。セイジにとっては、儂らは見ず知らずの他人も同然なのだ。家族として迎え入れる用意ができたから急いで会いに来た、と伝えたところで、この子にはまだ実感できんだろうしな」


 サイディアル家の当主であるゼクスは、いつも浮かべている厳つい表情を緩めて笑顔を作ったが、普通の幼児だったら泣き出してしまいそうな威圧感は隠せていなかった。


「あなたのおっしゃることはわかります。でも、私たちの前では、ずっと使用人みたいに畏まった態度でいるのですよ? 心苦しいわ」


「屋敷の者が引き取った孤児と同じように扱ってやればいい。今はちゃんとした奉公人になっておるが、最初の頃はひどく怯えていたではないか。覚えておらぬか?」


「忘れてなどいません。あの子が大人の殿方を怖がっているのは、昔と変わっていないのですから。だけど──」


 私にとっては無意味なお喋りでしかない会話が続いていた。


 まあ、サイディアル家の当主夫妻がろくでもない悪巧みでもしているのではないか、と思って、こちらも警戒心を丸出しにしていたのは確かだ。


 親しい間柄だったら嫌味に感じるくらい礼儀正しく振る舞って、用件を片づけるための言葉と最低限の質問しか口にしなかったから、緊張して口が利けなくなったのだろうと思い込んで、どうにかして気を紛らせようとしているのは理解できるが。


 外の景色に興味を引かれている風を装いながら、適当に返事をしたり相槌を打ったりしているうちに、真っ先に訊いておかなければならないことがあったのを思い出した。


 産みの親のことだ。


 私にとっては本当にどうでもいい事柄だったので、すっかり忘れていたのだ。


 単なる不慮の事故で亡くなったのであれば何の問題もないのだが、誰かの恨みを買って殺されたとしたら、無関係なはずの私にとばっちりが飛んでくることも考えられる。


 少なくとも、どんな死に方をしたかくらいは知っておく必要があった。


 そういうわけで、どうして迎えに来たのが祖父母だったのか、と尋ねてみた。


 サイディアル家の当主夫妻は揃って顔を曇らせたが、聖ルヴァレン修道院に預けられてから一度も会うことがなかった肉親を私が恋しがっている、と思ったようだ。


 こちらは「調子はどうだ?」と気軽に訊くような感覚で質問しただけなのだが。


「あやつは……お前の父親のセルディは亡くなったのだよ……去年の冬に、長らく患っていた病でな」


 急に老け込んだように肩を落としたゼクスが、辛そうな声で漏らした。


「セイジは覚えておらぬだろうが、あやつは小さい頃から心臓が弱くてな。儂らより早く逝ってしまうことは覚悟しておいてくれ、と馴染みの施療師には言われておったのだが……いや、お前に愚痴をこぼしても仕方がないな」


 確かに、私からは返す言葉はない。


 血縁上の父親といっても、聖ルヴァレン修道院に引き取られることが決まった二年前にほんの一瞬だけ顔を見たことがあるだけだ。


 冴えない面構えをした優男だった、ということ以外は覚えていない。


 サイディアル家の当主にとっては実の息子であるし、かなり深い思い入れがあるようだが、死産扱いされて霊安室に放り込まれた私の口からは「だからどうした」という感想しか出てこない。


 衣食住のすべてにおいて面倒を見てもらい、ある程度の年齢になるまでは多大な手間と労力をかけさせてしまった、という返すのがきわめて難しい借りがあるとはいえ、親兄弟など「血が繋がっているだけの他人」でしかないのだ。


「あやつは……セルディは、商会の後継ぎとしては出来が悪かった。儂がご先祖から譲り受けた財産を任せられるだけの才覚もなかった。だが、親の贔屓目を別にしても、苦しんでいる者を黙って見過ごすことができぬ優しい心根を持った息子であった」


 夫を励ますように、サナがゼクスの腕にそっと手を置いた。


「セイジが無事に生きていてくれたとわかるまでは、わが子を死なせてしまったと自分を責めていたわ。聖ルヴァレン修道院に預けられてからも、あなたのことをいつも気にかけていたのよ」


「うむ……本来ならば、お前の存在は身内の者にも隠し通すはずであった。だが、自分の代わりに引き取って育ててほしい、とあやつに頼まれたのだ。それが……セルディの遺言となった。儂としては、死んだ末息子の願いは是が非でも叶えてやりたかったが、そのまま聞き入れてやるのは難しかった。お前を儂らの孫と認めることで、商家の一員としては役に立たないセルディを疎んじておった者たちの間に、要らぬ争いを生んでしまうかもしれぬからだ。そやつらを説得するのが思ったよりも手こずったため、お前を迎えに来るのが遅くなってしまったのだ」


 ちゃんと話を聞いて理解している、と示すために頷いてやった。


 サイディアル家の事情については想像の範囲内で、驚くようなことはなかった。


「お前には、儂らの末息子が受け継ぐはずだった財産のうち、商会に関するものを除いた分を渡すことになった。もちろん、実際に手にするのは、セイジが十五歳になって、正式に成人を迎えてからの話だがな。サイディアル家の人間として公的に認めることだけは許さない、と言い張る連中に余計な手出しをさせぬために、こういう形に収めなければならなかったのだ。それでも、お前が一人で生きていくには十分な額の金銭にはなるだろう」


 私は顔を隠すように深く頭を下げて、ありがとうございますと礼を告げた。


 思わず「よっしゃあ!」と声に出して叫びそうになってしまったからだ。


 他の連中にとってどうなのかは知らないが、私に言わせれば「金で買えないのは元から決まっている寿命を伸ばすこと」だけだ。


 自分の健康も他人の愛情も、幸福感も信頼度も、ある程度の額と引き換えに手に入れることができる──というのが、前世から持ち続けている私の考えで、これは今後も変えるつもりはない。


 やりたくもない職に就いて嫌々ながら働かなくても、食うに困らない状態を維持できるならば、それはまさしく「自由を金で買えた」という素晴らしい立場を得たことになるのだ。


 血縁上の両親がいつ、どんな形で出会ったのか、どういう経緯で惹かれ合って結ばれたのか、といった過去の話には微塵も興味は湧かなかったが、婚姻外の私生児でしかないはずの自分が受け取れる財産を遺してくれたことに対しては、胸の内で深く感謝しておいた。


 今回の件は、純粋に幸運の産物だとわかっているからだ。


「あなたのお母さんのことも伝えておかないといけないわね。セイジは何か覚えているかしら?」


 続けてかけられた老婦人の言葉には、首を横に振った。


 聖ルヴァレン修道院に来たときに血縁上の父親と一緒にいた、という記憶だけが僅かにあったが、どんな面構えをしていたのかもわからない。


 私としては取るに足らない事柄で、本当にどうでもいいと感じているのだが、サナには気の毒そうな顔をされてしまった。


「あなたのお母さんはエヴィナという名前で、お父さんのセルディと同じように心優しい娘だったわ。末息子が亡くなってから少しして、急に倒れてしまったの。きっと心労が溜まっていたのね。私たちの前では気丈に振る舞っていたけれど、生家では冷遇されていたみたいだから」


「うむ。あやつらは駆け落ちしたような身であったからな」


 何やら表沙汰にできない事情でも抱えていたのだろうか?


 サナのほうを見て、話を続けるように促した。


「実を言うと、エヴィナの生まれたベルディオス家は、ずっと昔からサイディアル家とは商売敵なの。天地がひっくり返っても、息子や娘をやり取りすることだけは絶対にあり得ない、というくらい仲が悪くて。私が小さかった頃には、毎日どこかで血を見るような抗争をしていたのよ。本当に怖かったわ」


「先代の当主──儂の父がサイディアル家を継いでから、やっとベルディオス家の連中と話し合いをすることになってな。このままでは互いに損をするだけで、高みの見物をしている輩に利権を掠め取られてしまう、という結論に行き着いた。それで、腹の中で何を企んでいても構わんが、相手の商売の邪魔をするのはやめることになったわけだ。もっとも、胸糞悪くて唾を吐きかけてやりたいと感じておるのは、向こうも同じだがな」


「だから、エヴィナはずっと肩身の狭い思いをしていたの。生家からは、ベルディオスを名乗ることは二度と許さんと告げられて、サイディアル家の人間からは、こちらの内情を探る間者として送り込まれたのではないかと疑われて。私たちも陰ながら支えてあげてはいたけれど、あの娘が頼りにできたのはセルディだけだったの。末息子が亡くなって、どうにか保っていた心が折れてしまったのね。セイジが傍にいれば、少しは違っていたかもしれないけれど、母親としてわが子を抱くこともできなかったから……可哀想な娘だったわ」


 要するに、登場人物の悲恋を扱った小説で見かけるような事態が、現実に起きていたというわけか。


 私としては、生の声を聞いたこともない産みの親の話をされても、単に必要としていた知識を得られて役に立ったとしか感じないのだが。


 自分を産んでくれた両親の思い出話をされて、熱いものが込み上げてきたり、涙ぐんでしまったりするといった反応はないのか、と訊かれたら、きっぱり「そんなものはまったくない」と答えてやろう。


 ただ、一つだけ気になったところがあったので訊いてみた。


 死んだ母親の身内であるベルディオス家にとっては、私の存在はかなり目障りになるのではないだろうか?


「その歳で大人の事情まで理解できてしまうのね。でも、心配しなくても大丈夫よ」


「お前を気遣って言っておるのではない。この件については、向こうの連中とは話をつけているのだ。ベルディオス家のエヴィナは、どこの馬の骨ともわからぬ男の子供を身籠ったが、不幸なことに産褥熱で亡くなった、とな。孕んでおった赤子は死産だったことになっている。その旨を書類にして教会と市庁舎に届け出て、両家で控えを持っておるから、変な言いがかりをつけられる懸念もない。要するに、儂らにとっては末息子が遺した大事な孫だが、あやつらにとっては、お前は未だに『どこにでも一人や二人はいる、身元のわからぬ孤児』でしかないわけだ」


「私たちサイディアル家にとっても、ベルディオス家にとっても、期せずして両方の血を受け継いでしまったあなたの存在は、是が非でも隠し通さなければならなかったの。母親のエヴィナには汚名を着せてしまう形になって、本当に申し訳なくて顔向けできないわ。だけど、セイジの身柄を守るためにはこうするしかなかったのよ。私たちも乏しい知恵を振り絞って、あれこれ考えたけれど、他にいい方法が見つからなかったの。だから、安心して。あなたがベルディオス家の人間から面と向かって罵られたり、あからさまな嫌がらせをされたりすることはないわ」


「お前に手出しをする阿呆どもがいたとしても不思議ではないが、そやつらは儂らの顔に泥を塗って、公然と敵対したことになるのだ。なれば、相手が誰だろうと、残らず取っ捕まえて、二度と生きては出られん監獄に送り込んでやるわい」


「くぅ!」


 私を膝の上に抱えている老婦人の隣で丸くなっていた雑食兎が、垂れていた耳をぴんと立てて機嫌よさそうに鳴いた。


 こちらの味方をしてくれるという内容の言葉を聞いて、嬉しくなったようだ。


 おかげで、馬車の中に漂っていた重苦しい空気が僅かながら緩んだ。


 もっと突っ込んだ話を引き出すには絶好の機会だった。


 興味を引かれた風を装って、どんな家族構成なのか、伯父や伯母はどういう感じの人なのか、私と年が近い子供が何人いるのか、といったことを訊いていった。


 サイディアル家の内情が何となく掴めるところまで引き出すことができたのは、思わぬ収穫だった。


 どこかぎこちない感じがあった祖父母の態度も、多少は和らいだ気がした。


 無意識のうちに顔に出る表情や漂っている雰囲気から窺えた限りでは、ゼクスとサナの二人も、死産だと思われていた見ず知らずの赤子から急に正式な相続人に昇格した私の扱いについては、かなり頭を悩ませていたようだ。


「家族らしい」という形容詞がまったく当てはまらない場になったが、互いに「書類上の身内」として受け止めて、外面を取り繕うための馴れ合いはせず、商売について学ぶために滞在することになった遠縁の者のように扱う、といった対応の仕方で落ち着いた。


 血縁上の祖父母も、無理をして親しくする必要がないとわかって、少しは肩の力を抜くことができたのではないだろうか。


 それからサイディアル家に到着するまでの間は、無言が続いた。


 といっても、口を利くのも嫌だという類の沈黙ではない。


 六十歳近い高齢の身で、朝早くからずっと馬車に乗って移動していたせいか、私の目の前で当主夫妻は揃って眠ってしまったのだ。


 ずいぶん肝が据わっているな、と感心した。


 私がもうすぐ三歳になる幼児だからといって、面と向かって話をするのが初めてという相手に隙だらけの姿を晒すなんて真似は、とてもじゃないが自分には逆立ちしてもできない。


 おかげで、窓の外を眺めているのを邪魔されずに済んだわけだが。


 当然ながら、初めて見る景色に目を奪われていたのではない。


 聖ルヴァレン修道院の方角を確かめながら、わが身に危険が及んだ場合のことを考えて逃走経路を思い描いていたのだ。


「書類上だけの身内」という宙ぶらりんな状態なので、ありもしない罪を押しつけられて家から追い出されることを想定しておく必要があるからだ。


 また、修道院の敷地の外に出たのが赤子だった頃に拐われたときだけで、周辺の地理に疎かったので、今のうちに少しでも頭に入れておきたかった。


 どこか見知らぬ場所に置き去りにされたら、飲み水や食べ物を手に入れられずに野垂れ死にしてしまう、という恐怖感が常にあるのだ。


 地図と呼べるものを持っていないのが悔やまれる。 


 聖ルヴァレン修道院の図書室や、施設内にある印刷や製本をしている工房の中を隅から隅まで探してみたが、残念ながら一枚も見つけられなかった。


 もしかしたら軍事機密扱いで秘匿されているのだろうか?


 ざっと調べた限りでは、こちらの文化水準は、前世のものより二百年くらい遅れている程度ではないかと思うのだが。


 いずれにしても、知的好奇心を満たすのは後回しだ。


 道に迷ったときに目印にできそうな岩山や、中流域くらいに見える河川、一定の間隔で街道の両端に建てられている祠のような人工物を、素早く脳裏に刻み込んでいった。


 早朝のうちに出立したサイディアル家の馬車は、聖ルヴァレン修道院があるガーレンの森を抜けて、日没近い刻になって目的地である古都サラザードに着いた。






 


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