第二話 七月一日の待ち合わせ
七月一日の木曜日。夜八時。
駅前のロータリーにはまだ人が残っていた。
仕事帰りのサラリーマン、部活帰りの学生、コンビニの袋を提げた誰か。
俺はその中に紛れながら、待ち合わせ場所へ向かって歩いていた。
LINEには『四人で集まる』と書いてあった。
だから来た。
もしあれが「大川と二人で」だったら、俺は既読をつけてしまってもスルーして布団の中へ避難していたと思う。
ロータリーの端、待ち合わせ場所として定番の時計の下。恐らくあそこだろう。
そこにいたのは、大川一人だった。
他の二人、小田栄と弁天橋の姿はない。
「げっ……」
思わず声が漏れた。足が、自分の意思より先に止まっていた。
派手な私服に丁寧に巻かれた髪、きっちり整えられたネイルと、耳元で揺れるピアス。
野暮ったさは一切ない。
スマホをいじっているだけの姿ですら、妙に洗練されて見える。
対して俺は、深く考えずに選んだTシャツ一枚。
並べば一目瞭然だ。
片方は都会に生きるキラキラで、片方はそのへんの空き地に生えているぺんぺん草。
心臓が、ちょっとだけ変な動き方をした。運動したわけでもないのに、鼓動が一つ分、早く跳ねる。
今なら気づかれていない。
回れ右して帰るという選択肢が、頭の隅にちらついた。
しかしそれは無理な相談だった。
約束したのは俺自身だし、何より大川がもう顔を上げていた。
目が合う。
——あ。
反射的に目を逸らしかけた。
でも、逸らせなかった。
待ち合わせしているのに、ここで逸らす方がどうかしている。
頭の片隅でそう理解している自分と、身体が勝手に逃げようとする自分が、一瞬せめぎ合った。
大川が先に笑った。
「お、来た来た」
「……おう」
「ちゃんと来るんだ」
「誘ったのお前だろ」
「ああは言ったけど、ドタキャンされるかと思った」
「しねえよ」
悪くない滑り出しだったと思う。少しだけ笑えた。
だが、そこで会話は途切れた。
別に大川のことを嫌っているわけじゃない。
ただ続きの言葉が見つからない。
頭の中では何か言わなきゃと焦っているのに、口から出てくる候補がどれも的外れな気がして、結局何も言えなかった。
多分、話し方そのものを忘れているんだと思う。
一度乗れた自転車の乗り方は忘れないと言うけれど、あれは嘘だ。人との距離の詰め方は、ちゃんと忘れる。
「久しぶり」
大川がぽつりと言った。
「いや学校で毎日見てんだろ」
「それとこれとは別じゃん」
同じ学校で、毎日どこかですれ違っていた。
今日までまともに口をきいていなかったことが、その一言で妙に浮き彫りになった。
そしてまた会話が途切れる。
気まずさが分厚くなっていく。
俺は視線を泳がせた。大川の顔、スマホ、地面のタイル、また大川の顔。何か話さなければ、と思えば思うほど、何も思いつかなくなる。
いや、会話の初手に天気の話をする男。それはそれで終わっている気がする。コミュ障なのを白状するようなもんだろ。
それでも、このまま黙っているよりはましだと思い直した。俺は小さく息を吸って、口を開く。
「……あのさ」
「ん?」
大川がスマホから顔を上げる。
「いや、別に。小学校、取り壊されるって話、いつ聞いたんだ?」
我ながら、たいした話題じゃない。でも、黙っているよりはずっとましだった。
何か喋ろうとした自分に、少しだけ安堵する。
「結構前。親が町内会の回覧板で見たーって」
「へえ」
「なんか実感湧かなくない? 私たちの小学校だよ?」
「……まあ、言われてみれば」
会話が、細い糸みたいに繋がり始めた。切れそうで切れない。そのくらいの頼りない糸だった。それでも、さっきまでの沈黙よりはましだった。
◯
そのとき。
「おーい!」
遠くから聞き覚えのある、懐かしい声が飛んできた。
振り返ると、ジャージ姿の男が大股でこちらへ向かってくるのが見えた。
小田栄だ。
180センチを超える体格。日焼けした肌。走り方だけで「運動部です」と自己紹介しているようだった。
小田栄は俺を見つけるなり、昔から変わらない調子で笑った。
「……変わってねえな!」
「……お前がでかくなりすぎなんだよ」
「昔から伸びるって言われてたからな」
小田栄が自慢げに鼻を鳴らす。
「それは誰に?」
大川が口を挟む。
「そりゃ……親とか?」
「参考にならないやつ!」
三人で笑った。
さっきまで一人で必死に話題を探していたのが嘘みたいだった。
——俺が何とかしなくても、普通に戻るんじゃん。
そう思えたことに、少しほっとしている自分がいた。
「相変わらずだね。えーしょー」
大川が小田栄のことを昔のあだ名で呼ぶ。
えーしょー。
それに対して小田栄も間髪入れずに返す。
「かわわも変わってねえじゃん」
かわわ。
えーしょーとかわわ。
その呼び名を、俺はまだ覚えていたことに自分で驚いた。忘れたつもりだったのに、脳のどこかにしっかり保存されていたらしい。データの消去は、思っているより雑にしか行われないものだ。
小田栄は俺たちの気まずさに、気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか、普通に聞いてきた。
「で? 久しぶりの感動の再会はもう終わった?」
「まだ始まってすらないよ」
大川が答える。
「別に感動してねえ」
俺も付け加えた。
「そう言ってる奴が、実は一番感動してるやつなんだよ」
少しずつ、会話が流れ始めていた。
ただし、そのきっかけを作ったのは俺じゃない。小田栄だ。
◯
スマホを開いて時計を見る。ちょうど約束の時間の二十時だった。
「お待たせしました」
声のした方を見ると、黒髪ロングストレートの女子が立っていた。右耳だけ髪をかけている。制服姿。塾帰りらしい、きっちりとした佇まい。
弁天橋だ。
俺たちの中で唯一、制服でカッチリしたその姿は、逆に浮いて見えた。
「……え! 誰?」
大川が真顔で言った。
「……? 何ですか?」
「いや、敬語使うような仲だったっけ?」
小田栄も便乗する。
「久しぶりですから」
弁天橋の敬語を大川と小田栄が面白がっていじり始めた。俺もそれに乗った。
「別に先生じゃねえんだから」
弁天橋は少し困ったように、間を測りかねていたが、やがてぽろっとタメ口が出た。
「……そういうつもりではなかったんだけど」
「出た。それだよ」
大川が指差す。
「今の今の」
小田栄が食いつく。
「何がよ」
「昔の弁天橋だろ」
俺も乗っかる。
「だから何」
大川が調子に乗る。
「ふふ、相変わらずだね。ベッティ」
と呼んだ。
弁天橋は即座に返す。
「だからその呼び方は嫌い」
「昔からそう言ってたな」
小田栄が笑う。
「嫌いなのに定着してたよな」
俺も言う。
「あなたたちが勝手に使っていただけだから」
でも、その口調はどこか懐かしそうだった。
まだ完全に昔へ戻ったわけじゃない。
でも、呼吸のタイミングが、少しずつ合ってきている気がした。
◯
「それじゃあ、みんなが揃ったところで行きますか」
大川の音頭で四人並んで、小学校へ向かって歩き出す。
大川が無意識に俺を呼んだ。
「ねぇ、つるけん」
「その呼び方。『つるけん』久しぶりに聞いたな」
小田栄が笑う。
「つるけんってさ、なんか昔から面白そうなことあるとすぐ『行こうぜ』って言って突っ走ってたよね」
「しかも、その場の勢いでね。時には行き先さえ決まっていないこともあったし」
弁天橋が続ける。
「いや、決まってた時もあっただろ」
俺が反論する。
「ほとんど無かったわ」
「『とりあえずよく分からないけど行こうぜ』が一番多かったよ」
大川が畳みかける。
「便利な言葉だろ」
「つるけんに言われたら行くしかないもんな」
小田栄がしみじみと同意する。
小学校が近づくにつれ、話題は秘密基地のことに移った。
商店街を抜け、坂を三つ越えた住宅地。その片隅に、家と家の間の小さな斜面に挟まれるようにして、屋根の傾いた小屋が建っていた。
それでも当時の俺たちは、そこを本気で「誰にも知られていない基地」だと信じていた。
「あそこ、まだあるのかな」
大川が言う。
「あるだろ。誰も壊すほど興味ねえよ」
小田栄が答える。
「商店街を抜けて、坂を三つ。三つ目を下りきったところの、錆びたフェンスの切れ目」
弁天橋が前を向いたまま、淡々と言った。
「道順まで覚えてんのかよ」
「あなたたちが毎回『どっちだっけ』と聞いてくるから、覚えるしかなかったの」
「特にかわわがな」
小田栄が笑う。
「あー、言わないでー!」
大川が顔を覆った。
「私、毎回迷ってたよね。二つ目の坂で曲がっちゃって、全然違う家の庭に出たり」
「しかも毎回『こっちで合ってる!』って自信満々でな」
「合ってると思ったんだもん!」
「結局、いつも弁天橋が迎えに行ってたよな」
俺が言うと、弁天橋は小さく息を吐いた。
「基地の場所を知っている人間が迷子になる基地が、秘密基地として成立していたとは思えないわ」
「迷子になってたのは私だけだし!」
「そこ胸を張るところじゃないだろ」
小田栄と大川の軽口は、弁天橋の一言で一瞬だけ途切れた。けれど、すぐにまた笑い声が上がった。
「秘密基地なのに、毎回犬連れのおじさんに見つかってたしな」
「そうだったね。そして毎回『怪我しないようにな』って心配されてた!」
「もはや秘密基地として成立していなかったわ」
弁天橋が冷静に切り捨てる。
「子供の夢を壊すなよ」
俺は昔の自分達をかばった。
「もう子供じゃないじゃない」
その一言で、少しだけ空気が変わった。
——もう子供じゃない。
分かってる。それでも、こうして夜の街を四人で歩いていることが、自分でも不思議だった。
大川が笑って言う。
「でも、今日だけちょっと戻ってみる?」
誰も反対しなかった。
◯
小学校に着いた。
閉じられた校門。使われなくなった建物特有の、音のない静けさ。たった数ヶ月前まで子供の声で溢れていたはずの場所が、今はただ黙っている。
俺は校門を見て、大川に聞いた。
「……よくこんな時間に許可取れたな」
「え、許可なんてないよ」
「は?」
「だから、ないって」
「じゃあ何でここまで来たんだよ」
「タイムカプセル掘り出すため」
「入れねえだろ」
「入ればいいじゃん」
「いくらなんでも無計画すぎるわ」
「『とりあえず行こうぜ』というつるけんスタイルを踏襲してみました。てへ」
大川がわざとらしく笑う。
「……俺のせいにするなよ」
「まぁまぁ折角みんな集まってここまで来たんじゃん! ちょっとくらい忍び込んでも大丈夫でしょ」
大川が繰り返す。
「嫌なんだけど」
弁天橋が即答する。
小田栄は校門を見上げながら、乗り気な様子で言った。
「これくらいの門なら普通に入れそうだけどな。多分、行ける」
「いやいやよくねえだろ」
俺は止める。
「えー」
「別に荒らすわけじゃねえし、大丈夫だろ」
大川と小田栄が不満気に口を尖らせた。
「……不法侵入」
弁天橋がジトっとした目で追求する。
「いやいや言い方が怖いよ」
大川が肩をすくめる。
「事実」
大川がこちらを見た。
「で、つるけんは?」
なんで俺に判断を求めるんだ? 答えは決まっている。
「このまま無断で入ったら不法侵入。さすがにそれはダメだろ」
俺はそう答えた。答えたはずだった。
だけど、校門の向こうを見上げている大川と小田栄の背中を見ていたら、ふと昔の記憶が蘇ってきた。
昔の俺ならこの状況でなんと言う?
小学生の頃、何か面白そうなものを見つけると、真っ先に「行こうぜ」と言っていたのは俺だった。
小田栄が最初に食いつき、大川が面白がって、弁天橋が呆れながらもついてくる。それがいつものパターンだった。
今は完全に逆になっている。俺が止める側に回っている。
気づいたら、口が動いていた。
「……やっぱり行こうぜ」
三人が同時にこちらを見た。
「俺たちならいける」
一瞬の静寂のあと、大川と小田栄が笑い出した。
「そうでなくっちゃ」
「それでこそ、つるけんだろ」
「何が『俺たちならいける』なの」
弁天橋が半眼になる。
「まぁ大丈夫だって、タイムカプセルを回収するくらいなら」
「何一つ根拠がないのだけれど」
でも、俺はもう止まらなかった。
誰かに誘われるのをただ待っていたはずの自分が、今は自分から動こうとしている。この感覚を、俺はしばらく忘れていた気がした。
小田栄が校門を見上げる。
「さてと。どうやって入るかだが、普通に校門の上を乗り越えればいいんじゃね?」
「私、制服だからスカートなんだけれども」
一瞬の沈黙。
「……あ」
小田栄が固まる。
「えーしょー、今さら気づいたの?」
大川が笑う。
「そうか、スカートだと乗り越えられないよな。なら俺のジャージ貸そうか?」
「ジャージだからといって乗り越えません」
弁天橋がきっぱり断言した。
「じゃあどうする? つるけん」
大川が俺を見る。
俺は校門、フェンス、校舎の周りをぐるりと見渡した。頭の奥で、埃をかぶった記憶がゆっくりと動き出す。
「……そういえば」
三人が俺を見る。
「抜け穴があったはず」
「抜け穴?」
小田栄が首を傾げる。
「学校の裏の方にさ。校門を通らずに学校に入れる抜け穴があったんだよ」
「まさか、フェンスが壊れているとか?」
弁天橋が眉をひそめる。
「まぁそんな感じ」
「それを『抜け穴』と呼んでいたの?」
「子供だったからな」
大川が目を輝かせる。
「つるけん、案内できる?」
「おう、任せろ」
「出た」
小田栄がにやける。
「何が出たの」
弁天橋が聞く。
「昔のつるけん」
「うるせえ」
俺は恥ずかしくなって小田栄を軽く小突いた。
◯
俺が先頭に立って歩き出した。
大川は「探検みたい」と楽しそうに言い、小田栄も「こういうのが一番テンション上がるな」と乗ってくる。弁天橋だけが冷静に言う。
「私は今が一番テンションが下がってるわ」
「じゃあ帰る?」
「……今さら一人で帰る方が嫌」
俺はそれ以上、帰るかどうかを聞かなかった。
学校の外周沿いの道路を歩き、脇にある茂みを抜ける。そして見つけた。
「あった」
子供の頃、俺たちだけが知っていたフェンスの隙間。時間が経って多少歪んではいたが、まだそこにあった。
俺が先に入る。続いて小田栄、大川、最後に弁天橋。
「本当に、私たちは何をやっているのかしら」
弁天橋がぼやく。
「タイムカプセル探しだろ」
俺が答える。
「青春のやり直し?」
大川が笑う。
「冒険」
小田栄が胸を張る。
弁天橋は少し考えてから、ぽつりと言った。
「……揃いも揃ってみんな子供」
そう言って、最後に敷地内へ足を踏み入れた。
目の前には、夜の小学校。
昼間には絶対に見ることのできない、誰もいない校庭。
俺は校舎を見上げた。
懐かしいはずなのに、漆黒に染まった姿が少しだけ怖い。それなのに、少しだけ楽しい。
そんな矛盾した感情を抱えたまま、ふと気づく。
あの日、毎朝当たり前のように通っていた場所へ、俺たちは誰にも見つからないように帰ってきた。




