Episode.94 新たな疑念
天空神殿を離れたミリアたちは、星降りの丘を避けるようにして山の南側を下っていた。
行きに通った道とは違い、こちらは岩肌の露出した険しい山道が長く続いている。
足元には大小の石が転がり、一歩踏み外せば斜面を転げ落ちかねない場所も少なくない。
それでも、一行の足取りは驚くほど軽かった。
天空神殿を目指していた時とは、まるで別人のようだった。
最大の理由は、言うまでもない――エリクサー。
伝説にのみ語られてきた万能霊薬は、病を取り除くだけの薬ではなかった。
体内を巡る魔力そのものを澄ませ、肉体を本来あるべき状態へと整える。
長旅によって蓄積していた疲労や怪我でさえ嘘のように消え、四人の身体には力が満ち溢れていた。
それを最も分かりやすく証明していたのは――。
「おらァッ!」
ライガの拳が、魔物の腹部へ深々とめり込んだ。
巨体が大きく"くの字"に折れ曲がる。
次の瞬間には地面から両足が離れ、数メートル先まで吹き飛ばされて岩壁へ激突した。
砕けた岩片が周囲へ飛び散り、魔物はそのまま力なく崩れ落ちる。
戦いと呼ぶには、あまりにも一方的だった。
ライガは拳を開閉しながら、つまらなそうに倒れた魔物を見る。
「……手応えがねぇな」
「贅沢な悩みだな」
少し離れた岩に腰掛けていたゼインが、魔導銃をくるりと回して腰のホルスターへ収める。
彼の足元にも、額を正確に撃ち抜かれた魔物が三体転がっていた。
「俺も身体の調子がいいのは認めるが……ここまで変わるとは思わなかった。さすがは伝説の万能薬ってところか……」
そこでゼインはわずかに目を細める。
「だからって調子に乗るなよ、ライガ。身体が軽くなったことと、何をしても死ななくなったことは別だ」
「分かってるって」
ライガは肩を回しながら、いかにも物足りなさそうに山道の先を見る。
「ただよぉ……もうちょい張り合いのある奴が出てきてもいいだろ。せっかく絶好調だってのに、これじゃ身体が鈍っちまう」
「平和でいいじゃない」
ミリアが苦笑する。
「魔物が弱くて文句を言う人なんて、ライガくらいだよ」
「違ぇよ。弱いんじゃねぇ。俺が強くなりすぎたんだ」
「はいはい」
「なんだその反応は!」
そんな二人の少し後ろでは、リリシアが鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に歩いていた。
いや、歩いているというより、ほとんど跳ねている。
「すごいですぅ~! 身体がめちゃくちゃ軽いですぅ~!」
くるりと一回転して、両手を広げる。
「今ならなんでもできそうですぅ!」
「ちょっとリリシア、転ばないでよ?」
「大丈夫ですぅ!」
そう答えた直後に小石を踏み、危うく前のめりになりかける。
「ひゃっ!?」
「ほら」
ミリアが咄嗟に腕を掴んだ。
「えへへ……」
「もう……」
呆れながらも、ミリアの表情には笑みが浮かんでいた。
ほんの数日前まで、リリシアはまともに歩くことすら難しかった。
音が遠ざかり、味を失い、視界まで霞んでいった。
それでも怖くないふりをして、笑っていた。
その彼女が今、自分の隣で楽しそうに歩いている。
ただそれだけの光景が、どうしようもなく嬉しかった。
「リリシア」
「はいですぅ?」
「……元気になって、本当に良かった」
リリシアは一瞬きょとんとした。
やがて、その表情が柔らかな笑顔へ変わる。
「ミリアさん……」
それからライガとゼインにも顔を向け、ぺこりと頭を下げた。
「ライガさんも、ゼインさんも……いっぱい心配かけちゃって、ごめんなさいですぅ」
「今さら何言ってんだ」
ライガが笑う。
「そういうのは元気になったんなら、それで終わりだ」
「そうそう」
ゼインも肩を竦める。
「貸し一つってことで覚えといてくれりゃいい」
「ゼインさんは絶対あとで変なお願いしてきそうですぅ!」
「信用ないな、俺」
いつものやり取り。
いつもの声。
いつもの笑顔。
そのすべてが戻ってきた。
だからこそ――。
「……でも」
ミリアが足を緩めた。
三人が振り返る。
「一つだけ、ずっと気になってることがあるの」
先ほどまでの穏やかな表情から笑みが消える。
「リリシアは……どうして魔障病になったのかな」
「……あ?」
ライガの眉が寄った。
数秒考えた後、その意味に気付いたように表情を変える。
「そういや……俺も引っかかってたな」
リリシアの故郷は、ザンガによって滅ぼされた。
その際、彼女も瘴気に晒されている。
だから当初は、誰もがその時に感染したのだと思っていた。
しかし――。
「故郷が滅ぼされてから、もう二年くらい経ってるんだろ?」
「はいですぅ」
「だったら遅すぎねぇか? 発症するまでに二年だぞ」
「……うん」
ミリアも頷く。
「もちろん潜伏期間がものすごく長い可能性もある。でも……」
言葉を切る。
何かが噛み合わない。
目の前に散らばった小さな違和感が、まだ見えない一つの答えへ繋がろうとしている。
その横で。
ゼインは何も言わなかった。
黙ったまま歩いている。
普段なら何かしら軽口を挟む男が、珍しく口を閉ざしていた。
しかしリリシア本人は、そんな空気など気にした様子もない。
「もういいじゃないですかぁ~」
「よくねぇだろ」
「だって、わたし今すっごく元気ですぅ!」
そう言って両腕を上げる。
「ほら!」
「何が『ほら』だよ」
「元気の証明ですぅ!」
「雑すぎんだろ!」
ライガは呆れたように額を押さえた。
だが、その口元には小さな笑みがある。
ミリアもつられて笑いかけ――。
ふと、足を止めた。
「…………待って」
小さな声だった。
「ん?」
ライガが振り返る。
しかしミリアには聞こえていなかった。
一つの記憶が、突然頭の中で繋がったからだ。
(……母さん)
母――リナ。
彼女もまた、魔障病に侵されていた。
その事実は、これまで当たり前のものとして受け止めていた。
魔神ザンガがもたらす病。
だから、どこかで瘴気に触れたのだろう。
そう考えていた。
だが――。
(母さんは……いつザンガに遭遇したの?)
心臓が一度、大きく鳴った。
記憶を辿る。
母が暮らしていたレーヴァ村。
そして生活用品を買うために時折訪れていた街、アステル。
少なくともミリアが知る限り、それ以外の場所へ出向くことはほとんどなかった。
まして、ザンガに遭遇したという話など、一度も聞いたことがない。
(おかしい……)
背中に冷たいものが走る。
(じゃあ……母さんはどこで瘴気を吸ったの?)
偶然なのか。
自分が知らないところでザンガと遭遇していたのか。
それとも――。
(……違う)
考えたくない可能性が、胸の奥から浮かび上がってくる。
(そもそも、私たちは魔障病のことを何か勘違いしてるんじゃ……)
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
根拠だってない。
ただ――どうしようもなく嫌な予感だけがあった。
「……さん」
遠くで声がする。
「ミリアさん!」
「――っ!」
ミリアは我に返った。
目の前でリリシアが心配そうに覗き込んでいる。
「リリシア? どうしたの?」
「もう~! こっちの台詞ですよぉ。何回呼んでも反応しないから……」
リリシアは胸を撫で下ろす。
「ミリアさんまで魔障病になっちゃったのかと思いましたぁ~」
「……ふふっ」
ミリアは思わず笑ってしまった。
そして、心配そうに見上げるリリシアの頭へ手を置く。
「ありがとう。私は大丈夫」
「本当ですかぁ?」
「うん。ちょっと考え事をしてただけ」
柔らかな髪を撫でながら、もう一度笑う。
だが、胸の奥に生まれた違和感だけは消えてくれなかった。
(分からないことが多すぎる……。今考えても答えは出ないか)
ミリアは一度だけ深く息を吸った。
そして歩き出す。
今は王都へ戻る、それが先だ。
けれど――いつか必ず、この疑問の答えを確かめなければならない。
そんな予感だけが、胸の片隅に残り続けていた。




