Episode.88 星降りの丘
日が落ちかけている星降りの街。
山々の向こうへ沈みかけた太陽が空を朱色に染め、青い屋根の家々を柔らかな光で照らしていた。
広場ではリッカが腕を組みながら空を見上げている。
その表情は先ほどまでの軽い調子とは違い、どこか真剣だった。
「急ごう」
珍しく落ち着いた声だった。
ミリアたちは振り返る。
「急ぐ?」
リッカは頷いた。
「星降りの丘は夜のうちしか進めないんだ」
「どういうことだ?」
ライガが眉をひそめる。
リッカは空を指差した。
「ぼくたちが頼るのは星だから」
その言葉に全員が納得する。
老人の話を思い出したのだ。
空の地図。
星々が示す道。
「夜明けになれば星が見えなくなる」
リッカは続けた。
「途中で朝になったら終了だよ」
「終了って……」
ゼインが苦笑する。
「迷子確定」
リッカはあっさり言った。
「下手したら遭難」
「笑い事じゃねぇな……」
ライガが頭を掻いた。
リッカは腰に手を当てる。
「だから急いで準備!日が沈む前に出発するよ!」
それから一行は慌ただしく準備を整えた。
食料と水、防寒具。
そして予備の松明。
確認を終えた頃には、空はすっかり群青色に染まっていた。
街の灯りがぽつぽつと輝き始める。
リッカは満足そうに頷いた。
「上出来だね!」
そして笑う。
「それじゃあ出発しようか!」
星降りの街を出る。
背後では天体観測の塔が静かに夜空を見上げていた。
しばらくの間は普通の山道だった。
ゼインが方位磁針を確認する。
「北は……こっちだな」
リッカも頷く。
「今はまだね……」
風が吹く。
冷たい山の空気が頬を撫でた。
遠くでは夜鳥の鳴き声が聞こえる。
しばらく歩いた時だった。
「きゃっ――」
小さな悲鳴が聞こえ、全員が振り返る。
リリシアが地面に倒れていた。
「リリシア!」
ミリアが駆け寄る。
膝を擦った程度らしい。
大きな怪我はない。
しかし、ミリアの胸に嫌な予感が走る。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫ですぅ〜」
リリシアは慌てて笑顔を作る。
だが、その笑顔はどこか無理をしていた。
「……見えてないの?」
静かな声だった。
リリシアの肩が小さく震える。
しばらく沈黙した後、観念したように俯いた。
「少しだけですぅ……」
震える声。
「ちょっとだけ……ぼやけて見えるだけですぅ……」
ミリアには嘘だと分かった。
きっと想像以上に進行している。
リリシアの世界は少しずつ色を失っている。
それでも、仲間を心配させたくなくて笑っている。
ミリアは胸が締め付けられた。
「私が背負う」
そう言ってしゃがみ込む。
しかし。
「待て」
ライガが止めた。
ミリアが振り返る。
ライガは呆れたようにため息を吐いた。
「お前が前に出なくてどうすんだ」
そして、ひょいっと。
リリシアを背負い上げる。
「きゃあっ!?」
リリシアが慌てる。
「ら、ライガさん!?」
「軽すぎんだよ」
ライガは鼻を鳴らした。
「もっと食え」
「失礼ですぅ〜!」
思わず抗議するリリシア。
そのやり取りにゼインが吹き出す。
ミリアも小さく笑った。
少しだけ、重苦しい空気が和らいだ。
さらに歩くとやがて、ゼインが方位磁針を見て眉をひそめた。
「……来たな」
全員が集まり方位磁針を確認すると、磁針が狂っていた。
北を指さずに、まるで酔っ払ったようにぐるぐると回り続けている。
「本当に狂ったな」
ライガが顔をしかめる。
普通なら恐怖を感じる場面だった。
しかし、リッカだけは違った。
むしろ目を輝かせている。
「ここからが本番だね!」
満面の笑みで完全に楽しんでいる。
「任せて!」
リッカは夜空を見上げ、歩き出す。
その足取りに迷いはない。
まるで見えない道が見えているかのようだった。
夜が更け、空には無数の星々。
ミリアは思わず立ち止まった。
「……すごい」
言葉を失う。
今まで見たどんな夜空よりも美しかった。
黒い天幕に宝石を散りばめたような景色。
数え切れない星々が瞬いている。
ライガも目を見開く。
「なんだこりゃ……」
ゼインですら見惚れていた。
「絶景だな」
リッカは少し誇らしげだった。
「でしょ?」
その時、リリシアが空を見上げていた。
その瞳に映る世界は、もうぼやけ始めている。
人の顔も、景色も、輪郭が曖昧になっていた。
けれど、なぜだろう。
星だけは見えた。
ぼやけた夜空の中、無数の光が輝いている。
まるで、空いっぱいに散りばめられたダイヤモンドのように。
美しかった。
息を呑むほど。
涙が溢れた。
「綺麗ですぅ……」
誰も何も言わない。
皆同じ空を見ていた。
「こんな綺麗な空……初めて見ましたぁ……」
涙が頬を伝う。
悲しい涙ではない。
感動だった。
失われていく世界の中で、まだこんなにも美しいものがある。
それが嬉しかった。
歩きながらリッカは星を指差す。
「あれが白狼座!」
北東の空。
三つの星が一直線に並んでいる。
「その反対が大狼座!」
さらに西の空を指す。
「小さい星の集まりが渡り鳥の羽!」
ミリアたちは感心しながら聞いていた。
まるで空の授業だ。
「あれはなんですぅ?」
リリシアが尋ねる。
リッカは笑った。
「あれは天剣座!」
巨大な剣のような星座だった。
夜空に突き立つ光の剣。
「そして――」
リッカはさらに上を指差した。
「七つの星を繋ぐと龍の双翼!」
星々が翼を広げた龍のように見える。
神話の一場面のように壮大だった。
道中では魔物も現れた。
だが問題にはならない。
闇の中から飛び出した魔狼を、ミリアの剣が一閃で切り伏せる。
別方向から迫る飛行魔物を、ゼインの魔導銃が正確に撃ち抜く。
リッカは感心したように口笛を吹いた。
「相変わらず赤髪のお兄さんの周りは化け物ばっかりだね」
「誰が化け物だ」
「全員」
即答だった。
ライガが顔をしかめる。
そのやり取りにリリシアが笑った。
やがて、長い夜が終わりを迎える。
東の空が少しずつ白み始めていた。
ライガが空を見る。
そして焦ったように言う。
「おい!そろそろ夜が明けるぞ!」
リッカは振り返った。
そして、ニヤリと笑う。
「大丈夫!」
前方を指差す。
「見て!」
全員が顔を上げる。
息を呑んだ。
そこには、星降りの丘の終着点。
険しい山道が終わり、その先に広大な雲海が広がっていた。
朝日が雲を黄金色に染めている。
幻想的な光景だった。
さらに、雲海の向こうには天空へ向かって伸びる巨大な山。
天空山の頂付近。
ほんの一瞬、白い神殿の影が見えた。
ミリアの瞳が揺れる。
「……あれが」
リッカが満面の笑みで両手を広げた。
「到着だよ!」
そして高らかに宣言する。
「星降りの丘、突破!」
歓声が上がった。
ライガが拳を握る。
ゼインが安堵の息を吐く。
リリシアも嬉しそうに笑う。
ミリアは遥か遠くの神殿を見つめた。
(ついにここまで来た……エリクサー完成まで、あと少し)
その希望を胸に抱きながら。
一行は朝日に照らされた天空山を見上げるのだった――。




