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Episode.89 天空神殿

夜明けの光が、ゆっくりと世界を染め上げていく。

東の空から顔を出した太陽が、雲海を黄金色に照らし始めると、白くたなびく雲はまるで果てしない海のように輝き始めた。

ミリアは思わず足を止める。

眼前に広がる光景は、これまで旅してきたどの景色とも違っていた。


「……綺麗」


思わず零れたその一言に、隣のゼインも静かに頷く。


「これほどの景色は見たことがねぇな」


ライガも背中にリリシアを乗せたまま、目を細めていた。


「へっ……悪くねぇ」


その声には、珍しく素直な感動が混じっている。

リリシアはライガの背中から顔を上げ、雲海の向こうを見つめた。

視界は以前よりもぼやけている。

木々の輪郭も、人の表情も、少しずつ霞んで見える。

それでも――。

朝日に照らされて金色に輝く雲だけは、不思議なほど美しく映っていた。


「……本当に、綺麗ですぅ」


その小さな呟きに、ミリアは優しく微笑む。


「うん……。きっと、この旅で一番の景色だね」


その時だった。

先頭を歩いていたリッカが大きく手を振る。


「みんなー!見えてきたよ!」


全員が顔を上げた。

雲海の彼方。

巨大な山の頂に、それは静かに佇んでいた。

純白の神殿。

空へ向かって何本もの巨大な柱が伸び、その屋根は朝日に照らされ神々しい光を放っている。

神殿を囲むように幾筋もの滝が流れ落ち、その水は途中で霧となり、雲の中へ溶けていく。

まるで天上の世界だった。

誰も言葉を発することができない。

ただ、その壮大な景色に見惚れていた。

リッカだけが満足そうに笑う。


「どう?すごいでしょ?何回来ても飽きないんだ」


ミリアは静かに頷く。


「……ここが……、天空神殿……」


胸の鼓動が自然と速くなる。

ここには、リリシアを救う希望がある。

その想いだけを胸に、一行は歩き始めた。


神殿へ続く一本道。

雲海の上に架けられた巨大な石橋だった。

橋幅は馬車が三台並んでも余るほど広く、その両側には純白の石像が等間隔に並んでいる。

剣を掲げる騎士。

祈りを捧げる巫女。

翼を広げた竜。

そのどれもが精巧で、何百年という歳月を経てもなお風化していなかった。

橋を歩くたび、足音だけが静かに響く。


「誰も……いませんねぇ」


リリシアが小さく呟く。

確かにそうだった。

鳥の鳴き声もない。

風の音だけが、神殿の柱を優しく撫でていく。


「まるで時間が止まってるみたいだな」


ゼインの言葉に、ミリアも同じことを感じていた。

神殿全体を包む静寂。

それは不気味ではなく、どこか神聖で、人を自然と静かな気持ちにさせる空気だった。

やがて巨大な門が見えてくる。

高さは二十メートルはあるだろうか。

純白の扉には、光を掲げる勇者と仲間たちの姿が彫り込まれていた。

ミリアはその彫刻を見上げる。


「……」


不思議だった。

どこか懐かしい、そんな感覚を覚える。

その時だった。

重厚な音を立てて、巨大な扉がゆっくりと開いていく。

誰も触れていない。

それなのに、まるで彼女たちを迎え入れるように。


「え……?」


ライガが目を丸くする。

リッカも驚いていた。


「ぼく、何度か来たことあるけど……こんなの初めてだよ」


ゆっくりと開いた扉の奥から、一人の女性が姿を現した。

白い修道服。

肩ほどまでの淡い金色の髪。

透き通るような青い瞳。

二十代ほどに見えるその女性は、どこか人間離れした穏やかな雰囲気を纏っていた。

彼女は静かに微笑む。


「ようこそ」


その声は鈴の音のように澄んでいた。


「光を宿す少女」


その視線が真っ直ぐミリアへ向けられる。


「あなたが来る日を、この神殿は待ち続けていました」


ミリアの胸が小さく高鳴る。

なぜ、自分を。

なぜ、この神殿が。

数え切れない疑問が頭を巡る。

だが、その答えを尋ねようとした瞬間だった。


「……ぁ」


小さな声が聞こえた。

振り返るとリリシアの体がふらりと揺れる。


「リリシア!」


ミリアが駆け寄る。

しかし間に合わない。

力なく崩れ落ちた身体を、ライガが咄嗟に抱き留めた。


「おい!」


リリシアの呼吸は荒く、額には脂汗が浮かんでいる。


「リリシア!」


ミリアが手を握る。

冷たく、指先が震えている。

リリシアは必死に笑おうとする。


「だ……大丈夫ですぅ……」


その笑顔はあまりにも弱々しかった。

女性はその様子を見ると、表情を引き締める。


「すぐに中へ」


穏やかだった声が、初めて切迫したものへ変わる。


「急いでください」


「この症状は――魔障病のようですね」


静かに告げた。

ミリアはリリシアの手を強く握る。

絶対に助けるという決意だけが、胸の中で静かに燃え続けていた。

神殿の奥へと運ばれていくリリシアを見つめながら、ミリアは拳を固く握り締める。

――ここまで来た。

もう、誰も失わない。

その強い願いを胸に抱きながら、一行は天空神殿の中へと足を踏み入れるのだった。


神殿の中は、外から見上げた壮麗さとはまた違う、静謐な空気に満ちていた。

磨き上げられた白い大理石の床は朝日を受けて淡く輝き、左右に立ち並ぶ巨大な円柱は、天井へと溶け込むほど高く伸びている。

壁には色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれ、その一枚一枚には、この世界の神話や勇者たちの歴史が描かれていた。

しかし、ミリアの心にその美しい景色を眺める余裕はない。


「リリシア……」


ライガに抱えられたリリシアはぐったりと目を閉じている。

呼吸はしている。

だが、その呼吸は浅く、苦しそうだった。


「こちらです」


シスター・ミドナは迷いなく神殿の奥へと歩き出す。

一行はその後を追い、幾つもの回廊を抜けていく。

やがて辿り着いたのは、小さな診療室だった。

木の香りが漂う温かな部屋。

窓辺には色とりどりの薬草が並び、棚には古びた医学書がぎっしりと収められている。

ミドナは静かにベッドを指差した。


「こちらへ寝かせてください」


ライガは慎重にリリシアを横たえる。

額に張り付いた黒髪をミリアが優しく払うと、リリシアは薄く目を開けた。


「……ごめんなさいですぅ」


無理に笑おうとするその姿が痛々しい。


「謝らなくていい」


ミリアはそっと手を握る。


「私たちは仲間でしょ。だから、一人で抱え込まないで」


リリシアは少しだけ目を潤ませ、小さく頷いた。


「……はいですぅ」


ミドナは二人の様子を見届けると、静かにリリシアの診察を始めた。

瞳に小さな光を当てる。

脈を測る。

耳元で小さく指を鳴らす。

診察を終えたミドナは静かに立ち上がった。

その表情から笑みは消えている。


「やはり……間違いありませんね」


部屋に緊張が走る。


「魔障病を患った者は五感を奪われ、最後には――」


一拍置き、静かに告げる。


「死に至ります」


ミリアはリリシアの手を強く握った。


「大丈夫」


「絶対に助ける。そのためにここまで来たんだから」


リリシアの瞳に涙が滲む。


「ミリアさん……」


しかし、ミドナは静かに続けた。


「ですが……」


その一言で空気が張り詰める。


「神水は、誰でも持ち出せるものではありません」


ミリアたちは息を呑んだ。


「どういうこと?」


ミドナは窓の向こうに見える神殿の最奥を見つめる。


「神水は、この神殿の最も神聖な場所に湧く泉です」


「初代勇者が最後に祈りを捧げた聖域」


「そこへ辿り着くには、神殿に認められなければなりません」


「認められる……?」


ライガが眉をひそめる。

ミドナは静かに頷いた。


「はい」


「神殿には、初代勇者が遺した試練があります。その試練を乗り越えた者だけが、神水を授かる資格を得るのです」


部屋は再び静まり返る。

エリクサーは目前にある。

だが、その希望へ手を伸ばすには、まだ越えなければならない壁があった。

ミリアはゆっくりと立ち上がる。

その瞳には迷いはない。


「試練があるなら、受けます」


「どんな試練でも」


「私は……仲間を救うためなら、何度でも立ち上がります」


その真っ直ぐな決意に、ミドナは静かに微笑んだ。

その笑みには、どこか懐かしいものを見るような優しさが宿っていた。


「……やはり」


「あなたは、あの方によく似ています」


ミリアは首を傾げる。


「あの方……?」


ミドナは答えず、ゆっくりと診療室の扉へ向かう。


「少し、お見せしたいものがあります。神殿の歴史を……そして――初代勇者が遺した想いを」


静かな足音が、神殿の長い回廊へと響いていった。

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