Episode.85 少年の決意
風の丘に、穏やかな朝が訪れていた。
数日前まで激しい戦いが繰り広げられていたとは思えないほど、丘には静かな風が吹いている。
朝露を纏った草原が陽光に照らされ、遠くでは風車がゆっくりと回っていた。
だが、その穏やかな景色の中にも戦いの爪痕は残っている。
焼け焦げた大地と砕けた岩、爆炎で黒く変色した地面。
ミリアは丘の上に立ち、それらを静かに見つめていた。
頬を撫でる風が心地いい。
けれど、胸の奥にはまだ昨夜の熱が残っていた。
バランとの死闘。
そして、黒狼の牙頭領――ガルフ・ガルシア。
あの男が放っていた圧は、今思い返しても肌が粟立つほどだった。
「……まだ、遠い」
小さく呟く。
黒龍を倒した。
バランにも勝った。
それでもなお、ガルフを前にした瞬間、自分たちはまだ届いていないのだと理解してしまった。
ミリアは拳を握る。
その時だった。
「おーい!」
丘の下から元気な声が響いた。
振り返ると、フィンが木剣を振り回しながらこちらへ駆けてくるところだった。
「朝から元気だね」
ミリアが苦笑すると、フィンは勢いよく頷いた。
「当たり前だろ!だって俺、昨日全然眠れなかったんだ!」
「なんでですぅ〜?」
後ろからリリシアが眠そうに目を擦りながら歩いてくる。
その隣ではゼインが欠伸を噛み殺していた。
フィンは興奮したように木剣を掲げた。
「だってさ!ミリアたち、めちゃくちゃカッコよかったんだぞ!?」
「おう。特に俺な」
ライガがニヤリと笑いながら割り込む。
「いや、ミリア!」
「おいガキ」
「だってライガ途中でボロボロだったじゃん!」
「ぶっ飛ばすぞ」
いつもの調子で騒ぎ始める二人を見て、ミリアは小さく笑った。
こういう時間が、少し好きだった。
戦いの最中には決して味わえない、穏やかな空気。
失いたくないと思える時間。
その時、少し離れた場所でオズが薪を組んでいるのが見えた。
年老いた身体だというのに、その動きには一切無駄がない。
フィンはそんな祖父を見つめると、急に真剣な顔になる。
「……なぁ、ミリア」
「ん?」
「強くなるって、どうしたらいいんだ?」
突然の問いだった。
ミリアは少し考える。
簡単な言葉では答えられない質問だった。
すると後ろからライガが鼻を鳴らした。
「んなもん決まってんだろ。死ぬほど鍛えるんだよ」
「脳筋ですぅ〜……」
「なんか言ったか?」
「ひぃっ」
リリシアがゼインの後ろに隠れる。
ゼインは肩を竦めた。
「ま、間違っちゃいねぇけどな」
フィンは木剣を見つめる。
その瞳は昨日までとは少し違っていた。
ただ憧れているだけの目ではない。
何かを決意した目だった。
その時、オズがゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「お前さんら、そろそろ出るんじゃろ」
「あぁ。天空山までまだ遠いしな」
ライガが答える。
「ポーションを飲んでも全ての傷は治りきらん……。ゆっくりしていけばいいものを……」
オズはミリアを見る。
その目には、どこか懐かしさが滲んでいた。
「……無理はするんじゃないぞ」
ミリアは静かに目を伏せた。
「一人で背負うことはない……人にはそれぞれ役割がある」
オズは笑う。
「お前さんは、お前さんにしかできないことをすればいい。仲間を頼るのだ」
その言葉に、ミリアは少し目を見開いた。
今まで何度も言われてきた。
“英雄の娘”
“竜殺しの英雄”
それは誇らしいことだった。
けれど同時に、自分自身にとてつもない責任を感じていた。
だからこそ。その言葉は、胸に沁みた。
「……ありがとう」
オズは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「礼を言われるようなことじゃない」
風が吹く。
草原が揺れる。
その時だった。
フィンが突然口を開いた。
「俺、やっぱ強くなりたい」
全員が彼を見る。
オズは呆れたように肩を落とした。
「また始まったか」
「でも今回は本気だ!」
フィンは木剣を強く握る。
「俺、昨日すげぇ怖かった」
その声は震えていた。
「魔物も、黒狼の牙も……何もできない自分も……」
フィンは悔しそうに唇を噛む。
「でも……」
顔を上げる。
その瞳には確かな意志が宿っていた。
「それでも、逃げたくなかった」
ミリアたちは黙って聞いていた。
フィンは続ける。
「だから俺、強くなる!」
オズがため息をつく。
「冒険者になんぞならんでええと言っとるじゃろ!」
するとフィンは首を振った。
「ならない」
「……は?」
オズが目を丸くする。
フィンは真っ直ぐ祖父を見る。
「俺、冒険者にはならない」
少し照れ臭そうに笑った。
「強くなって……ここでじーちゃんを守る」
その瞬間だった。
オズの表情が固まる。
フィンは続けた。
「じーちゃん、歳なんだからさ。無茶しないでよ」
「お、お前……」
オズの声が震える。
目元に涙が滲んでいた。
それを見られたくないのか、オズは顔を背ける。
「……まったく」
掠れた声で笑う。
「年寄りは涙もろくていかんわ」
フィンは少し恥ずかしそうに笑った。
その光景を見て、ミリアの胸が温かくなる。
ライガは腕を組みながら鼻を鳴らした。
「守るために強くなりてぇ、か。嫌いじゃねぇな」
「フィンくんならきっと大丈夫ですぅ〜」
リリシアも優しく笑う。
ゼインは静かにフィンを見ると、小さく口元を緩めた。
「……いい男になるぜ、坊主」
その声はどこか寂しそうだった。
ミリアはそんな仲間たちを見つめ、静かに笑う。
強さとは何か。
その答えはまだ分からない。
けれど、誰かを守りたいと思う気持ちは、きっと間違いじゃない。
そう思えた。
やがて旅立ちの時が来る。
ミリアたちは荷物を背負い、風の丘の果てへ向かって歩き出した。
フィンが大きく手を振る。
「また来いよー!!」
「うん、また来るよ!」
ミリアも振り返って笑う。
風が吹き抜ける。
空はどこまでも青かった。
その先。
遥か遠く。
雲を突き抜けるように巨大な山が見えている。
天空山。
その頂は、雲がかかって全容が掴めない。
ミリアは静かにその山を見つめる。
「待ってて……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
けれど。
必ず辿り着く。
その決意だけは揺るがない。
ミリアたちは再び歩き出す。
新たな旅路へ向かって。




