Episode.62 桜霞の国
薄紅の花びらが風に乗り、街を染め上げる。
ここは東国――桜霞の国"シエン"。
木造の家屋が並び、武士や職人たちが行き交うこの国には、
静かな緊張感と品格が漂っていた。
「これがツバキの故郷か……」
アルトが感嘆の声を漏らすと、ツバキは誇らしげに笑った。
「ああ! 私が育った国だ。春になると、ずっと桜が舞っている」
通りの屋台では焼き魚や団子の香ばしい匂いが漂い、
子どもたちの笑い声が響く。
リナが感心したように言う。
「どこを見ても風情があるね……
剣の国って聞いてたけど、こんなに綺麗なんだ」
セシリアも頷く。
「人々の所作もどこか凛としていて、見惚れてしまう
わ」
ツバキの家に着くと、家族や近隣の人々が彼女の帰郷を喜び、
温かくアルトたちを迎えてくれた。
夜には囲炉裏を囲んでのささやかな宴。
笑いと酒の香りが満ち、旅の疲れを癒すひとときとなった。
◆◆◆
翌朝――。
アルトたちはツバキに案内され、「翡翠の神殿」と呼ばれる場所へ向かっていた。
東国に伝わる古代伝承に名を残す場所であり、アーティファクトの素材に関わる
手がかりを求めての訪問だった。
だが――
そこにあったのは、崩れかけた石の祠と、朽ちた柱の残骸だけだった。
「……これが神殿の跡、なのか?」
アルトが呟く。
ツバキが荒れた地面を調べながら、険しい表情を浮かべた。
「おかしい……昔はここに大きな建物があったはずだ」
セシリアが神殿跡の地面を見つめる。
「何かを持ち去ったような跡があるわ。掘り返された形跡も」
リナが顔を上げる。
「誰かが……神殿の中身を盗んだってこと?」
ツバキは小さく頷いた。
「そう考えるのが妥当か。
心当たりはある。追跡の達人に頼むとしよう」
そう言うと、彼女は振り返り、軽やかに駆け出した。
「私は少し別行動する! 頼れる者に話を通してくる!」
アルトは頷く。
「わかった。俺たちは街で情報を集めてみる」
◆◆◆
その日の午後。
街の中央通りを歩いていたアルト、リナ、セシリアの耳に怒号が響いた。
「おい、表に出ろって言ってんだろうが!」
「上等だ、やってやらぁ!」
通りの真ん中で、数人の男たちが殴り合いを始めていた。
リナが慌てて言う。
「止めないと……!」
アルトが駆け寄ろうとしたその瞬間――
群れの中へ、ふらりと一人の男が足を踏み入れた。
黒い羽織を纏い、長く伸びた黒髪を無造作に束ね、無精髭を生やしている。
片手には酒瓶をぶら下げ、どこか気だるげな様子。
一見、ただの酔っ払いにしか見えなかった。
だが――
次の瞬間、男の姿が霞のように揺らぎ、風を切る音がした。
バタバタッ――!
喧嘩していた男たちが一瞬で地面に転がる。
その間、ほんのまばたき一つ。
「な、何が起こったの……?」
リナが呆然と呟く。
アルトは息を詰める。
(今の動き……目で追えなかった。
けど、確かに打撃の痕跡がある……!)
男は酒瓶を口に運び、何事もなかったように言った。
「まったく……酒がまずくなる」
アルトが恐る恐る近づく。
「あんた、今のは……どんな技を?」
男は肩をすくめ、気怠そうに答える。
「ただの“体技”さ。名を――龍牙という」
セシリアが目を細める。
セシリア「龍牙……?」
男は少しだけ笑って説明した。
「呼吸で体内の血の流れを操り、力を極限まで引き出す。
火のように熱く、刃のように鋭く。
打撃も、速さも、防御も――その瞬間だけ、命を燃やす術だ」
アルトが息を呑む。
「……呼吸で血を巡らせて、戦う……?」
男は「ま、昔の話だ」とだけ言い、再び酒瓶を傾けた。
その時――
「師匠っ!!!」
元気な声が通りに響いた。
アルトたちが振り返ると、ツバキが駆け寄ってくる。
男は少しだけ目を細めた。
「……ツバキか。お前、まだ生きてたか」
ツバキは笑って言った。
「当然でしょう! 師匠の教え、忘れるわけがありません!」
アルトたちは思わず顔を見合わせる。
まさか、この酔っ払いのような男が――ツバキの師匠だとは。
桜の花びらが舞う中、静かに火が灯るように、
新たな出会いがアルトたちの運命を動かし始めていた。
東国・シエンの静寂な夜。
月光に照らされた街並みの中、ツバキの師である男――ソウガは、
縁側で酒を片手にゆるやかに腰を下ろしていた。
風が流れ、桜の花びらがひとひら、彼の肩に落ちる。
「――神殿の遺物を盗んだ奴の足取りは、ツバキの知り合いに任せよう。
すぐに報せが入るだろう」
そう言いながら、ソウガは片目を開け、アルトたちを見た。
「しばらくは動けねぇな。待機の間、無駄にすんなよ」
ツバキが腕を組みながら苦笑する。
「やっぱりそう来ますか……。“修行”……ですね?」
ソウガはニヤリと笑う。
「お前、まだ龍牙を完璧に使えてねぇだろ。ちょうどいい、続きだ」
そして、視線をアルトたちに向ける。
「お前らもやるか?」
アルトが一歩前に出て頷いた。
「お願いします。もっと強くならなきゃ、魔族を止められない」
ソウガは酒瓶を地面に置き、立ち上がる。
「いい目をしてる。なら、まずは手合わせだ。口より剣で語れ」
◆◆◆
訓練場の空気が張り詰める。
ソウガは黒い羽織を脱ぎ、軽く肩を回した。
その身に纏う気迫だけで、空気が震えるようだった。
「掛かってこい。俺がどんな奴か、身体で覚えろ」
アルト、リナ、セシリアが陣を組む。
燕武の動きを思い出しながら、アルトが先手を取った。
「行くぞっ!」
砂を蹴って飛び込み、燕武の流れるような連撃を放つ。
しかしソウガは微動だにせず、紙一重で全てを避ける。
リナが風魔法で援護、セシリアが水の刃で連携する。
息を合わせ、攻撃の隙を作り出すが――。
「悪くねぇ」
ソウガの一歩。
それだけで、空気が爆ぜた。
次の瞬間、アルトの頬をかすめる衝撃波。
踏み込みだけで、地面が砕ける。
「これが……龍牙……っ!」
息を整えながら、アルトは目を見開く。
ソウガは笑みを浮かべて言った。
「“血を燃やす”感覚だ。呼吸で体を巡らせろ。
己の血を剣に変えるつもりでな」
ソウガが静かに拳を握る。
「しかし……その構え、見覚えがあるな……」
アルトが息を詰める。
「構え……?」
「燕武――だろ」
ソウガの声が低く響く。
「昔、一度だけ“燕武”の使い手と拳を交えたことがある。
あいつの拳は、風のように掴めねぇ速さだった」
アルトの目が驚きに見開かれる。
「……それって、もしかしてラシードか?」
その名を聞いた瞬間、ソウガの目が見開かれた。
「ラシード……! あの野郎、まだ生きてんのか!」
笑い声が訓練場に響く。
「懐かしいな。あいつとは戦友であり、宿敵でもあった。
俺の“龍牙”と、あいつの“燕武”――
どちらが真に極まるか、いつも競い合ってたんだ」
アルトが思わず笑みをこぼす。
「俺たちは、ラシードに燕武を教わったんだ」
ソウガは腕を組み、嬉しそうに頷く。
「そうか……なら、お前は“あいつの後継”ってわけか。
ラシードの弟子に龍牙を教える日が来るとはな」
彼はわずかに目を細める。
「……あいつの弟子なら、手加減はいらねぇな」
その言葉を合図に、地面を蹴る轟音が響く。
再びアルトたちが挑む。
ソウガの拳を避け、燕武の動きで懐に潜り込む。
風と炎のような動きの応酬。
やがて、アルトの剣がソウガの胸元をかすめた。
「――なるほど、やるじゃねぇか」
笑いながら、ソウガは拳を下ろした。
「合格だ。龍牙を学ぶ資格はある」
◆◆◆
それから三日間――。
彼らはひたすら呼吸を整え、血流の流れを意識する訓練を続けた。
龍牙の呼吸法は苛烈で、少しでも集中を欠けば倒れるほどの負荷を伴う。
アルトは何度も倒れながらも、立ち上がるたびに呼吸が研ぎ澄まされていった。
三日目の夕暮れ、ソウガは肩を回しながら言った。
「よし、基礎は叩き込んだ。あとは実戦で磨け。
龍牙は理屈じゃねぇ、感覚で掴む技だ」
アルトたちは深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
ソウガは背を向けながら手を振る。
「礼なんざいらねぇ。剣で返せ。それが武士ってもんだ」
◆◆◆
その夜――。
静まり返った宿の一室。
アルトたちは疲労でぐっすりと眠っていた。
窓の外、月明かりの下を、一つの影がすり抜ける。
黒装束に身を包み、顔を覆ったその者は、まるで夜そのもののように静かだった。
――スッ。
影が音もなく部屋の中に入る。
アルトが微かに目を開けたとき、その姿を見た。
忍装束。ツバキと同じ体格、同じ顔。
だが、無言。まるで人形のような冷たさを纏っていた。
「……ツバキ?」
その問いに、影は何も答えず、ただ視線を落とす。
そして、月明かりの下でその瞳がわずかに揺れた――。




