Episode.6 過去の慟哭
黒い霧は、風が吹こうともその場から微動だにしなかった。
広がりもせず、縮みもせず――まるで、
そこだけ時間が止まっているかのように。
「......動かねぇな。だが、何か潜んでやがる」
ライガが肩を回しながら一歩前へ出た。
「待って、ライガ!」
ミリアが止めるより早く、ライガは霧へと駆け出した。
「止まってられるか!俺が確かめる!」
「ちょ、ちょっと――!」
ミリアの制止の声が終わる前に、ライガは拳を構え、跳躍。
その瞬間――。
――ズバァッ!
霧の中から黒い触手のようなものが幾本も伸び上がった。
それは蛇のように蠢き、ライガの足と腕に絡みつく。
「なっ......!? おいおい、触手とか聞いてねぇぞっ!」
咄嗟に身を捻るが、左足と右腕をしっかりと捕らえられていた。
霧の中で、蠢く闇が音を立てる。
「ライガッ!」
ミリアが剣を抜き放ち、一直線に駆ける。
光属性の魔力を帯びた刃が、黒い触手を正確に捉え――
――シュンッ! 一閃。
霧が裂け、ライガを絡めていた触手が霧散するように消えた。
「ふぅ......助かったぜ。ありがとよ」
「もう、無茶しないでって言ったでしょ!」
ミリアは呆れ顔で言うが、剣先はまだ下げない。
「......これが何なのかは分からないけど、
放っておくわけにはいかないね」
ライガは腕を振り、残る黒い霧を睨みつけた。
「だな。けど、今度は俺が――」
「いや、戦闘の相性的に...ここは私がやる」
ミリアが一歩、前に出た。
その背中は小柄ながら、芯の通った強さを感じさせた。
ライガは少し不満そうに鼻を鳴らしたが、
すぐに笑って肩をすくめた。
「......しゃーねぇ。お前の戦いっぷり、
もうちょい見たくなったしな」
「見物料、取るよ?」
「勘弁してくれ」
そんな軽口を交わしながら、ミリアは深呼吸をした。
剣を構え、霧の中に歩み出る。
――ザァ......。
黒い霧がざわめいた。
瞬く間に、無数の触手が再び姿を現す。
まるで生き物のようにうねり、ミリアめがけて襲いかかる。
だがミリアは一歩も退かない。
身体をひらりと傾け、剣先を流れるように動かす。
ミリアの足が軽やかに地を蹴る。
旋回、反転、斬撃。
彼女の動きはまるで踊り子のようだった。
前進しながら、次々と迫る触手を切り刻んでいく。
「すげぇ......!」
ライガが思わず声を漏らす。
「踊るように避けながら全部斬ってやがる......
あれが”燕武”ってやつか」
ミリアの身体が風を裂く。
霧の抵抗をものともせず、ミリアは中心へと近づいていく。
黒い霧の奥――そこに、うっすらと“人影”が見えた。
「......やはり、中に何かいる!」
ミリアは刃を構え、
光属性の”魔装”を纏って最後の一歩を踏み込む。
「"光武一閃"!」
剣が光を纏い、狙いを定めた瞬間――
「ま、待ってくださいぃぃぃ~~!!!」
情けない叫び声が霧の中から響いた。
ミリアは反射的に剣を止めた。
「えっ?」
霧が一気に薄れ、黒い煙が霧散していく。
そして、そこに現れたのは――
黒いローブを纏った、小柄な女性だった。
顔は青ざめ、瞳には涙が浮かんでいる。
「ひぃぃぃ~! 怖すぎますぅぅぅぅ~!!」
魔法使いの女はその場にぺたりと座り込み、
震えながらわんわん泣き出した。
「......は?」
「......なんだ、これ」
ミリアとライガは顔を見合わせ、きょとんとした。
ライガが頭をかきながら言う。
「おいおい、まさかの“人間オチ”かよ......」
ミリアも呆然としたまま、剣をおろした。
黒霧の正体――それは、怯えた魔法使いの少女だったのだ。
氷の街ラズハルに響く、彼女の泣き声。
そのあまりの拍子抜けに、ミリアとライガはしばらく言葉を失った。
「う、ううぅ......殺されるかと思いましたぁ~~」
黒いローブの少女は、鼻をすすりながらまだ震えていた。
ミリアは剣を鞘に納め、少し柔らかい声で尋ねる。
「あなた、名前は?」
「り、リリシア・シンクレア......ですぅ~~」
「私はミリア・ハワード。こっちは――」
「ライガ・ヴォルフェンだ。脅かして悪かったな」
「ひぃっ、声が怖いですぅ~!」
ライガは思わず頭をかいた。
「お、おいおい......」
ミリアは苦笑しつつも、
真剣な目でリリシアに向き直る。
「それで――なんで、こんな裏路地で人を襲ってたの?」
「ち、違うんですぅ~~! 襲ってなんていませんっ!」
リリシアはぶんぶんと手を振った。
「私、人目が怖くて......闇魔法で姿を隠してただけなんですぅ。
そしたら、いきなりライガさんが“うおおおおっ!”って
飛びかかってきたから、 反撃するしかなかったんですぅ~~!」
ミリアは思わずライガを睨んだ。
「......ライガ」
「お、俺のせいかよ!? あんな怪しい霧、
誰だって戦闘体制になるだろ!?」
「まぁ、確かに......」
とミリアが小さくため息をつくと、
リリシアは再びしくしくと泣き出した。
「もう、怖くて外にも出られません~~」
ライガは腕を組みながら、ふんと鼻を鳴らした。
「だったら、家でのんびりしてりゃいいじゃねぇか。
そんなにビビって生きてたら、外の世界なんて地獄だぞ」
その言葉に、リリシアの泣き声がぴたりと止まった。
そして、俯いたまま、かすれた声で呟いた。
「......家なんて、もう、ないんですぅ」
ミリアとライガが同時に顔を上げる。
「......どういうこと?」
リリシアはゆっくりとローブの袖で涙を拭い、
ほんの少し、覚悟を決めたような表情になった。
「......私の故郷は、“ザンガ”という厄災に滅ぼされましたぁ......」
その名を聞いた瞬間、ミリアの心臓が強く跳ねた。
ライガも息を呑む。
だが、ミリアは口を開こうとして――やめた。
“故郷を滅ぼされた話を聞く”など、あまりに酷だ。
「......無理に話さなくてもいいわ」
ミリアが静かに言う。
けれど、リリシアは首を振った。
「いえ......話します。だから、見逃してくださいぃ~」
「おいおい、誰も捕まえるなんて言ってねぇよ」
しかし彼女は聞いていないようだった。
そして――静かに語り出した。
◆◆◆
リリシアは西方の国の出身だった。
生まれながらにして異常なほどの魔力量を持っており、
それゆえに“化け物”として恐れられていた。
「子どもたちは私に石を投げてきましたぁ......。
“魔女の子”って呼ばれて、笑われて......。
大人たちは睨んで、私の前では道を空けて通るんですぅ」
唯一の支えは、優しい両親だった。
「いいんだよ、リリ。お前は神様が選んだ子なんだ」
いつもそう言って、頭を撫でてくれた。
しかし、その穏やかな日々は長く続かなかった。
「ある日、空が黒く染まって......黒い霧が街を包みましたぁ。
霧が出始めて数日後に、ザンガが現れたんですぅ。
みんなが悲鳴を上げて逃げる中、私は見たんです。
あの“ザンガ”が......」
リリシアの声が震える。
「ザンガは......笑いながら街を壊していきましたぁ......。
猪の化け物みたいな風貌で、大きな斧を使って
建物も、人も、全部......黒い火に飲まれて......」
リリシアは逃げるしかなかった。
街は崩れ落ち、空には瘴気が渦巻いた。
ザンガが去った後、残ったのは焼けた瓦礫と、
息絶えた人々の影だった。
「私は、父と母を探しました。
でも、家は潰れてて......姿は、どこにも......」
涙が一粒、頬を伝う。
「それでも、街の広場に人が集まっているって聞いて、
きっと生きてると思って、向かったんですぅ」
ミリアの喉が、きゅっと詰まる。
「......そこにいたのは、磔にされた父と母でしたぁ。
みんな、私が魔力を暴走させたせいで街が滅んだって......。
だから、“魔女を産んだ罰”だって......火を......」
その先の言葉は、涙に溶けて消えた。
ミリアもライガも、言葉を失った。
「私、怖くて......逃げましたぁ。
助けることも、声を出すことも、できなかったんですぅ......。
それから、ずっと一人で、どこにも居場所がなくて......
この街に辿り着いたんです......」
リリシアは、うつむいたまま静かに涙をこぼした。
◆◆◆
長い沈黙が続いた。
ミリアは胸の奥が締め付けられるのを感じていた。
母を失った自分の痛みと、リリシアの絶望が重なって見えた。
ライガが腕を組み、低く唸った。
「......そんなことが、あってたまるかよ」
ミリアも小さく頷いた。
「......リリシア、あなた、もう一人じゃないわ」
リリシアは顔を上げた。
その目に、わずかな光が宿る。
「え......?」
ミリアは微笑んだ。
「あなたが生きてここにいる。それが、奇跡なの」
ライガがにやりと笑う。
「ま、運命の女神が俺らにくっつけたんだろ。悪くねぇ」
「うぇぇぇ......やっぱり怖いですぅ~~!」
その泣き声に、ミリアとライガは顔を見合わせ、 ふっと笑った。
けれど、その笑いの裏で、
ミリアの胸の奥には一つの決意が芽生えていた。
――ザンガを、必ず討つ。




