Episode.34 治外法権国家
街が見えた瞬間、空気が変わった。
湿り気を帯びた夜風が、肌にまとわりつく。
石畳の向こうに広がる街並みは薄暗く、ところどころに設置された魔導灯が、
紫や青、毒々しい赤の光をネオンのように瞬かせていた。
建物はどれも背が低く、屋根は反り返り、どこか東方を思わせる異国の造りだ。
だが、装飾の美しさはなく、壁には無数の傷跡や落書きが刻まれている。
――治外法権国家、ダグダート。
法律は存在しない。
守られるのは力と金、そして情報だけ。
街に足を踏み入れた瞬間、怒声が飛び交い、金属がぶつかる乾いた音が響いた。
通りの端では酔い潰れた男が地面に転がり、別の路地では二人組が血を流しながら殴り合っている。
誰も止めない。
誰も気にしない。
「いい空気してやがる……」
ゼインが口元に煙草をくわえ、愉快そうに笑った。
長い船旅で溜まった疲れを吐き出すように、深く煙を吸い込む。
「こういう街は嫌いじゃねぇ。
情報も酒も女も、全部裏があるが……その分、正直だ」
ミリアは眉をひそめながらも、小さく頷いた。
「遊びたいなら好きにしていいよ。
ただし油断しないで。ここは危険だから……」
「分かってるさ。じゃあ、ちょいと遊んでくる」
「集合場所は?」
とライガが問う。
「街の中央にある時計塔……。目立つし、迷わないでしょ」
ミリアの言葉にゼインが頷き、
そのまま軽く手を振り、雑踏の中へと溶けていった。
ミリア、ライガ、リリシアの三人は、人波を縫うように歩き出した。
少し進んだ先で、空気がさらに重くなる。
路地の隅、壁にもたれかかるように座り込む人影があった。
顔を上げた瞬間、ミリアは息を呑む。
その男の瞳は、焦点を結んでいなかった。
「……見えねぇ……音が……」
掠れた声で呟き、男は何もない空間に向かって手を伸ばす。
その指先は、震えていた。
「魔障病……」
リリシアが小さく呟く。
瘴気に侵され、五感を失っていく病。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚――
順序は人それぞれだが、最終的に待つのは死。
通りの反対側には、鼻を削がれたように血を流しながら笑い続ける女がいた。
また別の場所では、薬に溺れ、理性を失った男が壁に頭を打ちつけている。
「……」
ミリアは拳を強く握りしめた。
王都の魔導研究所で聞いていた。
だが、実際に見るのは違う。
ザンガは伝説ではない。
今も、この世界を蝕んでいる。
(……エリクサーがなけりゃ、意味がない)
ゼインの言葉が脳裏に蘇る。
仮に父に辿り着いても、瘴気に侵されれば同じ末路を辿るだけだ。
焦りが胸を締めつける。
だが、足を止めるわけにはいかない。
長時間の聞き込みの末、ようやく一つの名が浮かび上がった。
「酒場だ。あそこに、腕のいい情報屋がいる」
街の奥、赤い魔導灯が妖しく揺れる酒場。
扉を開けると、濃い酒と汗、煙草の匂いが一気に押し寄せる。
カウンターの隅、フードを深く被った男がいた。
視線を向けるだけで、こちらを値踏みするような目。
ミリアは無言で金袋を置いた。
重い音が、カウンターに響く。
「……へへ」
男は歯を見せて笑った。
「まいど……」
まず語られたのは、天空神殿の話だった。
「北の果てにある山……天空山。その頂でな」
男は指を天井に向ける。
「夜空を見上げろ。星が天空神殿まで連れてってくれるぜ……」
「どういうこと……?」
「さぁな。行けば分かるさ……」
曖昧だが、嘘はない。
続いて、ザンガの情報。
黒い霧は、やはり世界各地にランダムに出現する。
だが最近、この街からそう遠くない場所で、霧の目撃情報が増えているという。
「霧が出てから、だいたい数日だ。そんで――“出る”」
男は言葉を濁した。
「……英雄が向かってるって噂もある」
ミリアの心臓が跳ねた。
「……どこ?」
「この街から北西へ……まっすぐ行ったところに小さい集落がある。
……理由は知らんが、忠告しとく。ザンガに関わるのはやめとけ」
男の視線が、店の外へと向く。
「この街でも、ああなった奴らを見ただろ。
命が安い街でも、あれだけは別だ」
だが、ミリアは頷かなかった。
父さんが近くにいる。
確信があった。
その時――
酒場の二階、暗がりから一つの視線が注がれていた。
黒狼の牙の構成員。
ダグダートを根城とする盗賊団の一員。
「……見つけた」
小さく呟き、男は音もなく席を立つ。
店を出てダグダートの外れへ向かう。
その先には、地下。
お頭――ガルフ・ガルシアのもとへ。
闇は、すぐそこまで迫っていた。




