Episode.30 少年の背中
紫色の髪が、風に揺れていた。
いや、かつては“揺れていた” という表現すら贅沢だったかもしれない。
幼いヴィオラは、路地裏でうずくまっていた。
服は破れ、肌は汚れ、長く伸びた紫の髪は手入れもされず、前髪が目を覆っている。
その下で、瞳だけが、かすかに生を訴えていた。
(……おなか、すいた……)
声にすらならない。
両親はもういない。
理由も覚えていない。
ただ、気づいた時には一人だった。
何日歩いたのかもわからない。
足は鉛のように重く、意識は何度も途切れかける。
(――このまま、死ぬんだ。)
そう思った瞬間だった。
「……大丈夫か?」
頭上から、少年の声がした。
ヴィオラが顔を上げると、そこには自分より少し年上の少年が立っていた。
鬱陶しく伸びた銀色の髪が、鋭い目つきを隠している。そして質素な服。
肩には荷物を担ぎ、剣を腰に差している。
その少年は、少し困ったように笑っていた。
「こんなところで倒れてたら、死ぬぞ」
少年は躊躇なく、手を差し伸べた。
その瞬間――
ヴィオラの中で、何かが決定的に変わった。
胸が、きゅっと締めつけられる。
理由はわからない。
ただ、その手が、世界で一番温かいものに見えた。
「……」
「喋れなくてもいい。立てるか?」
ヴィオラは、震える手でその手を取った。
倒れかけた身体を、少年はしっかりと支えた。
「俺はガルフ・ガルシア。冒険者の息子だ」
歩きながら、少年は語った。
「母はもういない。父は病で寝たきりだ。
だから俺が働いてる。妹もいるんだ」
ヴィオラは、黙って頷いた。
「お前……妹のルーナに似てたんだ。
だから、放っておけなかった……」
その言葉で、ヴィオラの胸が熱くなった。
――この人が好きだ。
それは幼いながらも、はっきりとした“一目惚れ” だった。
それが"黒狼の牙"首領――ガルフ・ガルシアとの出会いだった。
それ以来、ヴィオラはガルフのそばにいた。
彼の家に居候し、食事を分けてもらい、ルーナと一緒に笑った。
ガルフはいつも優しかった。
"あの事件"が起きる前までは――。
◆◆◆
そして今。
ヴィオラは戦場に立ち、あの少年の背中を思い出す。
(……私は、あの人のために生きる)
翡翠の瞳が、再び獣のように光った。
崩れた床に、血が一滴、また一滴と落ちる。
それでもヴィオラは、かろうじて立っていた。
「……はぁ、はぁ……」
紫の髪は乱れ、艶やかだったはずの表情は疲弊に歪んでいる。
だが、その瞳だけは――燃えていた。
(立て……まだ……)
脳裏に浮かぶのは、少年の頃のガルフの背中。
血にまみれ、復讐を誓ったあの日の声。
――『俺は、奪われたものを奪い返す』
「……ふふ」
ヴィオラは笑った。
血を吐きながら、歪んだ笑みを浮かべる。
「まだ……終われないわ」
その瞬間、彼女の魔力が跳ね上がる。
ウィップソードが、低く唸った。
「……まさか」
ミリアが息を呑む。
刃に纏わりつくのは、風の魔装。
だがただの付与ではない――
特性が、明確に表れていた。
「切断……!」
空気そのものが裂ける。
ヴィオラが腕を振るうだけで、不可視の刃が神殿を走った。
轟音。
石柱が断ち切られ、壁が崩れ、床が抉れる。
「うそ……!」
リィナが声を上げる。
メアリーは慌てて流水道に身を潜めた。
「下がれ!」
ライガが叫ぶが、逃げ場はない。
壁際へ、じわじわと追い詰められていく。
ウィップソードが舞い、神殿全体が切り刻まれる。
一歩間違えれば、即死――その領域。
だが。
ミリアは、動いた。
――見える
光の魔装が、瞳に集中する。
視界が、別の次元へ引き上げられた。
筋肉の収縮。
風の流れ。
刃が“来る前” の兆し。
ここ……!
燕武。
最小限の動きで、刃の隙間を縫う。
「なっ……!?」
ヴィオラの目が見開かれる。
「どうしたの?さっきまでの余裕は」
ミリアの声は静かだった。
「……っ、コネクト!」
ウィップソードが連結し、剣へ戻る。
ガルフ直伝――我流の剣。
剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。
「ッ……!お頭に教えてもらった剣は……!」
ヴィオラの声が、怒りと誇りを孕む。
「負けはしないのよッ!」
ヴィオラは歯を食いしばる。
腕が、悲鳴を上げている。
(まだ……やれる……!)
だが次の瞬間。
ミリアの呼吸が変わった。
龍牙の呼吸――。
体内の血流が加速し、力を極限まで引き出した。
「――終わりよ」
そして剣には魔装を纏う。
「"光武一閃"!」
一閃。
ウィップソードが砕け、ヴィオラの身体が吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、鈍い音が響いた。
彼女は地面に崩れ落ちる。
震える手で、剣を掴もうとするが――指が、動かない。
「……まだ……」
立ち上がろうとする意思だけが、空回りする。
「トドメは刺さねぇのか?」
ライガが問う。
ミリアは、少し考え――首を振った。
「ヴィオラ……だったね」
ゆっくりと近づき、言葉を投げる。
「あなたたちのお頭に伝えて。
もう、無駄に部下を傷つけるのはやめることを」
ヴィオラは、歪んだ笑みを浮かべた。
「……調子に乗らないことね」
血を吐きながら、睨みつける。
「私を見逃したこと……いつか後悔させてあげるわ」
「何度来ても同じよ」
ミリアはそう言い捨て、背を向けた。
――戦いは、終わった。
ミリアたちは"人魚の涙"を一塊取り出し、回収した。
船へ戻ると、ゼインが煙草をふかしながら笑った。
「よう。そっちも大変だったみてぇだな」
船には黒狼の牙の構成員が何人か転がっていた。
「うん……お互いにね……」
グレイヴが舵を握る。
「出航するぞ」
船はゆっくりと浮上し、夜の海へ戻っていった。
月明かりの下、ミリアは一人、振り返る。
(今回は……本当に危なかった。もう一人、手練がいたら。
リリシアやリィナは、無事では済まなかった。
……私が、もっと強くならないと)
拳を、静かに握りしめる。
海は、静かだった。
だがその奥では、まだ物語が続いている。
――次なる戦いを、予感させながら。




