Episode.26 人魚との邂逅
水平線と海の色が、どこか異質に歪み始めた頃。
グレイヴは舵を握る手に、わずかな力を込めた。
「ここだ。アトランティス近海――」
海図に描かれていた“沈むための道”。
それは座標ではなく、潮の流れ・海流のうねり・光の屈折までも含めた、
極めて抽象的な指示だった。
だが、確かに――海はそこだけ“別の呼吸” をしている。
「……海が、引き寄せてくるみたい」
ミリアが小さく呟く。
その時だった。
海面近くの岩礁に、水音を弾くようにして“何か” が現れた。
「わぁ! 人間だーっ!」
きらきらと陽光を反射する尾。
長く淡い桃色の髪が、水の中でふわりと揺れる。
大きな瞳で船を見上げ、無邪気に手を振るその存在――
「に、人魚ですぅ……!?」
リリシアが息を呑む。
「こんにちはっ! わたしメアリー!」
少女は満面の笑みを浮かべた。
「ねえねえ、ここまで来る人、久しぶりだよ!」
警戒するライガとは対照的に、ミリアは一歩前へ出る。
「あなた、この辺の海の……?」
「うんっ! この辺りはわたしの遊び場なの!」
メアリーは胸を張るように言った。
ゼインが小声で囁く。
「……警戒心ゼロだな」
ミリアは本題を切り出した。
「ねえメアリー。“人魚の涙” について、何か知ってる?」
その名を聞いた瞬間、メアリーの表情がぱっと変わった。
「あ、それなら――“結晶” のことだね!」
彼女はくるりと身を翻し、海の底を指差す。
「アトランティスにあるよ! この下!」
「やっぱり……」
リィナが頷く。
「ここが、アトランティスの真上?」
ミリアが尋ねると、メアリーは元気よく首を縦に振った。
「そう! でもね、人間は普通に潜ったら行けないよ!」
そして、船を見て目を輝かせる。
「でもそれ、すごい魔道具の匂いがする!」
合図のように、
リリシアが《深海呼吸核》を起動した。
淡い蒼光が船体を包み込み、空気の膜が幾重にも重なっていく。
まるで船そのものが“呼吸” を始めたかのようだった。
「……沈むぞ」
グレイヴの声が低く響く。
船はゆっくりと、静かに、海の中へと沈み始めた。
海面の光が遠ざかり、代わりに群青の世界が広がる。
魚の群れが流星のように横切り、巨大な珊瑚が森のように立ち並ぶ。
発光する海草が淡い光を放ち、深海とは思えぬほど色彩に満ちていた。
所々で海底に沈む遺跡は淡い光と相まって幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「……きれい……」
リリシアの声が、震えながら零れた。
やがて――
視界の奥に、巨大な影が現れた。
それは、古代の神殿。
石柱と円環、彫刻と紋章。
長い年月を海底で眠りながらも、威厳を失わない建造物。
「アトランティス……」
ミリアが息を呑む。
船が着底すると同時に、
周囲の水が静かに押し返され、空気の層が生まれた。
扉が開くと、そこには――地上と変わらぬ空気があった。
「ここは神殿だよ!」
メアリーが嬉しそうに言う。
「人魚も魚人も、普段はそれぞれの海で暮らしてるけど、
ここはみんなで守ってるの!」
通路の先は、神聖な気配が漂っていた。
「……ついに来たんだね」
その頃――
暗い海を進む、もう一隻の船。
「ふふ……ようやく辿り着いたわ」
紫の髪をかき上げ、艶やかな笑みを浮かべる女
――ヴィオラ。
黒狼の牙の幹部。
「人魚の涙……」
彼女は爪先で甲板を鳴らした。
「ぜんぶ、奪ってあげる」
黒い船影は、音もなく――
アトランティスへと迫っていた。




