Episode.105 決戦前夜
決戦まで、あと一日。
帝都ラドムの夜は静かだった。
昼間は騎士たちの掛け声と剣戟が絶えない帝国騎士団本部も、月が空高く昇る頃には、さすがにその喧騒を失っている。
しかし、誰もが眠っているわけではなかった。
――キィンッ!
静寂を破り、甲高い金属音が夜の訓練場へ響き渡った。
「――っ!」
「そこ!」
二つの影が交錯する。
白銀の剣を振るうミリア。
二本の剣を操るシャルロット。
この三日間、二人は暇を見つけては幾度となく剣を交えていた。
最初は互いの実力を確かめるため。
次は、もう一度戦ってみたいという純粋な興味。
そして気付けば――。
「はあっ!」
シャルロットの右剣をミリアがかわす。
すぐさま左。
ミリアは剣を合わせ、その軌道を逸らした。
金属音が響き火花が舞う。
シャルロットがさらに踏み込もうとする。
だが――。
「今日はここまで!」
ミリアが突然剣を引いた。
「何?」
勢いを殺したシャルロットが、不満そうに眉を寄せる。
「まだ始めて一時間も経ってないぞ」
「明日が本番でしょう?」
「…………」
「シャルロット?」
「……分かっている」
渋々、双剣を鞘へ収める。
ミリアも苦笑しながら剣を戻した。
「本当に戦うの好きなんだね」
「兄上ほどではない」
「十分だと思うけどなぁ」
二人は訓練場の端へ移動した。
夜風が火照った身体を優しく撫でる。
「ふぅ……」
ミリアは石段へ腰を下ろした。
隣へシャルロットも座る。
見上げれば満天の星が輝いている。
帝都の灯りの向こうには月が浮かんでいた。
「……いよいよ明日だね」
「ああ」
シャルロットの返事は短かった。
だが、いつもより少しだけ声が硬い。
ミリアは横目で彼女を見る。
「緊張してる?」
「……私が?」
「うん」
「してない」
「本当に?」
「してない……」
「じゃあ、怖い?」
「…………」
今度は答えがなかった。
しばらくして。
「少しだけな……」
シャルロットが認めた。
珍しく、鋭い瞳が揺れている。
「落日の砦は……両親が死んだ場所だから」
「…………」
「私自身は行ったことがない。それでも名前だけは、嫌というほど聞いてきた」
シャルロットは夜空を見上げた。
「クラリス・リアンダー。帝国最強の剣士」
その名を口にする時だけ。
彼女は副団長ではなく、一人の娘の顔になる。
「私にとって母は――憧れだった」
「憧れ……」
「ああ」
幼い頃。
母が帰ってくる日は、いつも玄関まで走った。
遠征から帰ってきたクラリスは、どれほど疲れていても娘を抱き上げてくれた。
『シャル。また背が伸びたな』
頭を撫でる手は、剣士とは思えないほど優しかった。
「母は強かった。でも、家では普通の母親だった」
シャルロットの口元が僅かに緩む。
「料理だけは壊滅的だったけどな」
「そうなの?」
「ああ。あれだけは父も止められなかった」
「ふふっ」
「笑い事ではないぞ。本当に危険だった」
「そんなに?」
「魔物討伐より覚悟が必要だったかもな」
「それはもう料理じゃないと思う……」
二人の小さな笑い声が、夜の訓練場に溶けていく。
やがて、シャルロットが自分の両手を見る。
「私が剣を選んだのも、母の影響だ」
「憧れだもんね……」
「ああ」
シャルロットは拳を握った。
「だからずっと追いかけてきた。母ならどう斬るか。母ならどう戦うか。母なら――どう守るか」
そして――。
「いつか……母を超えたいと思っていた」
声が僅かに震える。
「なのに……その機会すらなくなった」
「シャルロット……」
「だから明日、落日の砦へ行く」
瞳に、決意が宿る。
「母が負けた場所で。母を殺した男と、もう一度帝国が向き合う」
ミリアはしばらく黙っていた。
「……私もね」
自分の膝へ視線を落とした。
「父さんと母さんが、すごく強かったの」
「アルトとリナ、だったな」
「うん」
ミリアの顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「父さんは、本当に強かった。私がどれだけ頑張っても、子供の頃は一回も勝てなかった」
「当然だろう」
「まぁね……でも悔しかったんだよ?」
何度転ばされても、何度剣を落とされても、翌日にはまた木剣を持って父の前へ立った。
アルトはその度に笑った。
『まだやるのか?』
『勝つまでやる!』
『じゃあ今日は百回負けるな』
『負けない!』
――結局、百回近く負けた日もあった。
「母さんは優しかった」
リナ――。
思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。
「でも、怒ると怖かったなぁ……」
「意外だな」
「父さんも母さんには勝てなかったよ」
「最強ではないか」
「そういう意味ならね」
二人は笑う。
けれど、ミリアの笑顔もやがて少しだけ寂しさを帯びた。
「二人とも、もういない……」
「…………」
「昔はね」
ミリアは星を見る。
「強くなれば、失わなくなると思ってた……」
剣を握って己を鍛える。
強くなる――。
そうすればもう誰も失わずに済むと思っていた。
「でも……たぶん違う」
「違う?」
「どれだけ強くても、全部を守れるわけじゃない」
黒龍との戦い、天空神殿を経て、これまで旅をしてきた中で出会った人たち。
「だから私は、失わないためだけに強くなるんじゃない」
ミリアは胸へ手を置いた。
「守れるものを、一つでも増やすために強くなりたい」
シャルロットがミリアを見る。
その横顔に一瞬だけ、母クラリスの姿が重なった気がした。
「……お前は強いな」
「え?」
「剣の話ではない」
シャルロットは立ち上がる。
「明日、必ず生きて帰ろう」
「うん!」
ミリアも立つ。
「みんなでね!」
「ああ」
二人は拳を軽く合わせた。
この三日間。
幾度となく剣を交え、幾度となく言葉を交わした。
出会って間もない二人の間には――確かな絆が生まれ始めていた。
◆◆◆
同じ頃、別の訓練場。
「――ふッ!」
轟音。
ライガの拳が訓練用の岩へ突き刺さった。
岩に亀裂が走り、次の瞬間。
巨大な岩が内側から爆ぜるように砕け散る。
「……まだだ」
ライガは拳を見る。
赤い魔力が、炎のように腕へ絡みついている。
火の魔装――。
以前なら、ただ身体能力を強化するためだけに纏っていた。
だが、今は違う。
天空神殿を出た後で話したことを思い出す。
――属性の本質。
「火……」
燃焼。
爆発。
熱。
広がる。
喰らう。
燃やし尽くす。
「違ぇな……」
炎を見つめる。
何かが足りない。
あと少し、ほんの少しだけ。
指先が届きそうな場所に、何かがある。
「……もうちょいなんだよな」
そして、頭に浮かぶ。
兄――カイル・ヴォルフェン。
かつて圧倒的な力で自分たちを叩き伏せた男。
兄の背中は、昔から遠かった。
追いかけても、追いかけても届かなかった。
「兄貴……」
拳を握る。
「今度は――」
赤い魔力が揺らめく。
「俺が勝つ……」
そして小さく呟いた。
「もう少しで掴めそうだ……」
拳を炎が包む。
「――魔装の、その先が」
◆◆◆
一方。
「…………」
リリシアは部屋のベッドの上で、丸くなっていた。
「…………怖いですぅ」
膝を抱えている。
明日、黒狼の牙と戦う。
ヴィオラ、アヤメ、カイル、バラン。
名前を思い浮かべるだけで胃が痛くなってくる。
「行きたくないですぅ……」
ぽつりと本音が漏れる。
怖い、逃げたい。
できるなら安全な場所にいたい。
それが本音だった。
リリシアは自分の手を見る。
小さな掌。
そこにほんの少しだけ魔力を集める。
青、赤、緑、黄、茶、黒。
異なる属性の光が、指先で次々と生まれては消えていく。
「…………」
以前とは違う。
エリクサーを飲んでから、身体の中を流れる魔力が驚くほど澄んでいる。
暴れない。
怯えなくてもいい。
自分の意思に応えてくれる。
「わたし……」
魔力を消す。
「前より、ちゃんとできますぅ」
それでも怖い。
でも、もっと怖いことがある。
ミリア、ライガ、ゼイン、旅をしてきた仲間たち。
もし自分が怖いからと逃げて、そのせいで誰かが傷ついたら――。
もし、帰ってこなかったら――。
「…………嫌ですぅ」
身体の震えが止まる。
「そっちの方が……ずっと嫌ですぅ」
リリシアは顔を上げた。
まだ怖い。
きっと明日も怖い。
戦場に立てば、逃げたくなるかもしれない。
だから今、決める。
「逃げません」
小さな声。
けれどもう一度。
「絶対に――逃げないですぅ」
その言葉を自分自身へ誓った――。




