Episode.100 無敗の帝国
団長室に異様な空気が満ちた。
「……ザンガか」
「うん。些細なことでもいいの。目撃情報とか、瘴気が発生した場所とか……何か残ってない?」
しばらく考えた後、ギルバートは首を横へ振った。
「悪いが、期待には応えられん」
「そう……」
「ザンガに関する調査と対処は、主に王都騎士団の管轄だ。もちろん帝国内で被害が出れば我々も動くが、帝国騎士団が独自に追跡しているわけではない」
「王都騎士団……」
アレクの顔が脳裏に浮かぶ。
王都へ戻れば、改めて聞いてみる価値はあるかもしれない。
するとライガが口を開いた。
「じゃあ帝国騎士団は何を担当してんだ?」
「ライガ」
「いいだろ。気になるじゃねぇか」
ギルバートは特に気分を害した様子もなかった。
「帝国内の治安維持。国境防衛。魔物の討伐。戦時における軍事行動――当然、仕事はいくらでもある」
一度そこで言葉を切る。
「だが、今の帝国騎士団が長年追い続けている対象という意味なら……一つある」
「追い続けてる?」
「ああ」
ギルバートの声が低くなる。
その表情から感情が消えていった。
「――ある組織だ」
その言葉に、隣に立っていたシャルロットの表情も変わった。
ミリアはそれを見逃さなかった。
「……どんな組織なの?」
「その話をするには、少し昔のことから話さなければならない……」
ギルバートは椅子から立ち上がる。
そして窓辺へ向かった。
眼下には帝都ラドム。
騎士たちが守り続けてきた国が広がっている。
「今から十数年前――まだ私とシャルが子供だった頃の話だ……」
窓の外を見つめたまま、静かに語り始める。
「当時の帝国騎士団団長は――ガルム・クランゼル」
ミリアが僅かに目を見開く。
「クランゼル……」
「ああ」
ギルバートが振り返った。
「私たちの父だ」
◆◆◆
――ガルム・クランゼル。
当時の帝国騎士団を率いた男。
だが、意外にも。
「父は剣士としては、それほど突出した男ではなかった」
「え?」
リリシアが目を丸くする。
「騎士団長なのにですかぁ?」
「弱かったわけではない。帝国騎士団を率いる以上、並の騎士とは比較にならん程度には強かった」
ギルバートは続ける。
「だが、帝国には父より剣の立つ者が何人もいた」
「それでも団長になった……」
ミリアが呟く。
「なぜ?」
「――戦において、父の右に出る者がいなかったからだ」
ギルバートの瞳に、僅かな誇りが宿る。
「戦場を見る目。兵の配置。敵の心理を読む力。地形、天候、兵糧、退路……父はあらゆる要素を利用した」
一の兵で十を破る。
十の兵で百を翻弄する。
敵が何を考えるかを読み。
その一手先に罠を置く。
「父は、剣で戦う男ではなかった」
ギルバートが自分の頭を指差す。
「――ここで戦う男だった」
そして。
そんなガルムを支えた人物がいた。
「当時の帝国騎士団副団長――クラリス・リアンダー」
今度はシャルロットが口を開いた。
「私たちの母だ」
その声音には、普段の鋭さとは違う柔らかさがあった。
「母は父とは正反対だった」
「正反対?」
「戦術を考えるのは苦手。でも――剣を握らせれば、誰にも負けなかった」
帝国最強の剣士。
そう呼ばれた女。
ガルムが戦場を作り。
クラリスが、その戦場を剣で切り拓く。
父が敵の逃げ道を塞ぎ。
母が敵陣の中心を斬り裂く。
頭脳と武力。
二人は互いに、自分にはないものを持っていた。
「父が道を作り、母が勝利を掴む」
ギルバートが静かに言った。
「二人が帝国騎士団を率いた時代――」
その声に誇りが宿る。
「帝国は、一度として敗北しなかった」
――無敗の帝国。
戦えば勝つ。
魔物の大群も、ならず者共も、他国との小競り合いすら。
ガルムとクラリスの率いる帝国騎士団は、すべて退けた。
「すごい人たちだったんだね……」
ミリアの言葉に、シャルロットが小さく頷く。
「私たちにとっては……ただの優しい父と母だったがな……」
やがて――ガルムとクラリスは結婚した。
そして生まれたのが――。
兄、ギルバート。
妹、シャルロット。
二人は子供が生まれた後も騎士を辞めなかった。
国を守ること。
そこに生きる者を守ること。
それが二人の誇りだったからだ。
「……だが」
ギルバートの声が変わった。
シャルロットが僅かに俯く。
「私たちがまだ幼かった頃――事件が起きた」
帝国騎士団へ、大規模討伐任務が下された。
標的は、一つの組織。
当時から各地で略奪や襲撃を繰り返し、急速に勢力を拡大していた集団だった。
「父はいつも通り、作戦を立てた」
敵の人数、拠点、周囲の地形、退路、増援の可能性。
あらゆる情報を集め、何重にも策を巡らせた。
「母も、いつも通りだった」
シャルロットが続ける。
「剣を握って、先頭に立った」
誰も負けるとは思っていなかった。
当然だった。
無敗の帝国騎士団。
その最盛期。
最高の軍師と最強の剣士、二人が揃っていたのだから。
「実際、序盤は父の想定通りに進んでいたらしい……」
敵の部隊を分断し、各個撃破する。
退路を塞ぎ、包囲を狭める。
騎士団は敵の本拠地へ着実に迫っていった。
「勝てると……誰もが思った……」
ギルバートが拳を握る。
「――だが、途中で風向きが変わった」
「何があったの?」
ギルバートは答えない。
数秒の沈黙。
「……分からない」
「え?」
「正確なことは、今でも分からない……」
なぜなら。
「その戦場から生きて帰った者が――ほとんどいなかったからだ」
部屋の空気が凍りつく。
「帝国騎士団は――壊滅した」
「……!」
リリシアが息を呑む。
無敗だった軍隊が、たった一度の戦いでほぼ全てを失った。
「生還したのは、僅かな騎士だけだった……」
彼らは傷だらけだった。
武器を失い、鎧は砕け、中にはまともに言葉を話すことすらできなくなった者もいた。
「そして生き残った者たちは、皆、同じことを口にした」
ギルバートの瞳が鋭くなる。
「――化け物がいた、と」
ライガが眉を寄せる。
「魔物か?」
「違う……」
「じゃあ何だ?」
「ただの人間だ」
沈黙。
「敵組織の――トップだ」
ギルバートは拳を強く握った。
「父の策が読まれた……」
「……!」
「父が次に何をするのか。どこへ兵を動かすのか。どこを攻めるのか――すべて」
ガルムが一手を打てば、その先に敵がいる。
二手先へ罠を置けば、その罠そのものが利用される。
「父は生まれて初めて――戦術で敗北した」
そして、前線では。
「母が負けた」
シャルロットの声だった。
唇が僅かに震えている。
「帝国最強と呼ばれた母が……剣で、負けた」
拳が握られる。
「正面から」
爪が掌へ食い込むほど強く。
「何度斬りかかっても届かなかったと……生き残った騎士から聞いた……」
ミリアは言葉を失った。
最高の軍師を――頭脳で上回り。
最強の剣士を――武力で上回る。
一人で、その両方を。
「結局――」
ギルバートが続ける。
「帝国騎士団は、その男一人を中心に崩された……」
無敗の帝国は、その日初めて敗北した。
それも、敗北などという生易しいものではない。
――蹂躙。
生き残った騎士たちは帝都へ逃げ帰った。
しかし、帰還した者の多くがそのまま剣を置いた。
もう戦場へ立てない。
もう、あの男とは戦えない。
そう言い残して。
「…………」
誰も言葉を発しなかった。
先ほどまで笑い声が響いていた団長室とは思えない。
ミリアはシャルロットを見る。
彼女は俯いていた。
噛み締めた唇が、僅かに震えている。
あれほど堂々と剣を振るっていた女騎士が。
今だけは、両親を待ち続けた幼い少女の面影を残しているように見えた。
ギルバートもまた、窓の向こうへ視線を向けていた。
「父と母は――帰ってこなかった……」
その一言が何より重かった。
ミリアは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
帰ってこない両親を待つ気持ちを。
彼女自身も知っている。
だからこそ。
簡単な慰めの言葉など、口にはできなかった。
しばらくして、ゼインが静かに尋ねる。
「……それで」
いつもの軽い調子ではない。
「その組織は、今も存在してるってことか?」
「ああ」
ギルバートが振り返る。
「存在している」
「だから帝国騎士団は追い続けている?」
「そうだ」
ミリアの中に、嫌な予感が生まれた。
なぜだろう。
聞けば聞くほど。
頭の中に、一人の男の姿が浮かんでくる。
圧倒的な力。
冷たい眼差し。
何を考えているのか分からない笑み。
そして、世界を絶望させると告げた男。
「ギルバート……」
ミリアがゆっくりと口を開く。
「その組織の名前は?」
ギルバートは答えなかった。
一秒。
二秒。
長い沈黙。
やがて――ギルバートは、低く告げた。
「――黒狼の牙」
「…………!」
ミリア。
ライガ。
リリシア。
ゼイン。
四人の表情が同時に変わった。
「黒狼の……牙……」
リリシアの声が震える。
ライガの瞳からも笑みが消えた。
兄――カイル・ヴォルフェン。
その姿が脳裏を過ぎる。
「お前たちも知っているようだな」
「……知ってるどころじゃない」
ミリアの声が低くなる。
「私たちは何度も戦ってる」
「そうか」
ギルバートは驚かなかった。
ただ――次の言葉だけは、これまで以上に重かった。
「ならば話は早い」
窓から差し込む光が、ギルバートの横顔に深い影を落とす。
シャルロットが拳を握り締める。
ギルバートは静かに目を閉じた。
「私たちの父――ガルム、そして母――クラリス」
目を開く。
その瞳には、騎士団長ではなく。
一人の息子としての感情が宿っていた。
「二人を殺した男がいる」
ミリアの呼吸が止まる。
「無敗だった帝国騎士団を壊滅させ――父の戦術を破り、母の剣を正面から打ち破った男……」
そして、その名が告げられる。
「黒狼の牙――首領」
ミリアの脳裏に。
あの男の笑みが浮かんだ。
「――ガルフ・ガルシア」
団長室から、音が消えた。
世界を絶望させると笑った男。
その過去に刻まれていたものを、ミリアたちは――まだ何も知らなかった。




