夢か、はたまた現実か
「お、お市の方? 本物の?」
急展開に次ぐ急展開。一鉄は目の前の光景に啞然としていた。差し出された手を握ったまま、硬直して動かない。
「本物? 何処かでお会いしたことがおありでしょうか?」
お市は一鉄の顔をよく確認するように、かがんで顔を近づける。驚いた一鉄が再び後ろに転んだところで、市はハッと我に返り、恥ずかしそうに一鉄を助け起こす。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、恥ずかしい……」
「ああ、いえ……」
本で見たことが、なんて言っても伝わらないだろうし。そもそも怪しまれては敵わない。
一鉄はごまかすように笑うと、再び彼女の手を掴み今度はしっかりと立ち上がる。すると、不意に彼女の後ろから伸びた手が一鉄を首元を掴み上げ、乱暴に引き寄せた。
「貴様! さっさとその手を離さんか無礼者!」
先程より一層強い剣幕で、巨大な侍は一鉄を乱雑に持ち上げ怒鳴る。普通の高校生なら首へのダメージが酷かっただろうか、一鉄は何とか引きはがそうとするがその鋼鉄の腕はびくともしない。
「信盛殿! 乱暴はいけません!」
すかさずお市が止めに入る。侍は少しばかり不満げに息を吐くと、一鉄を地面に降ろす。あれほど怒っていたのに、彼は意外にも優しく手を離してくれた。
息が通るようになり、一鉄は咽こみながら自分を追っていた侍の姿を見上げる。
信盛。仮に、一鉄がいるここが戦国時代だとするのなら。もし目の前にいるお市の方が本物であるとするのならば。一鉄は自分を追っていた侍の名に心当たりがあった。
「……目付としてお市様を任された身なれば、某の立場も弁えていただきたいものですな」
「だからといって、ここまでする必要はないでしょう⁉ ましてや斬りかかるなど……」
「お市様に何かあっては一臣下として御屋形様に顔向けできませぬ。ましてや某は家老の身。迂闊な行動はお控えください」
一鉄の予想が確信へと変わる。
佐久間右衛門尉信盛。信長に仕えた戦国武将で、家老衆を取り纏める宿老という立場についていた人物だ。歴史上だと、一五八〇年に信長によって追放されていることから、今はそれよりも前の時代ということだろうか。
一鉄がそうこう考えている内に、当の本人を差し置いた二人の口論は激しさを増していた。
「ですから、彼は怪魔ではありません! 私に触れてなお、危害一つ加えなかったではありませんか!」
「魔霧の中で魔匠具足も着けずに動ける人間がいるとでも⁉ それともお市様は長年仕えた某の言葉が戯言と申されるか!」
「決めつけるのが早々だと言っているのです!」
言い争っている二人を見ると、一鉄は何だか申し訳ない気持ちがあふれてきた。見知らぬ自分を助けようとしてくれる彼女には悪いが、ここは大人しく居なくなろう。そう決めた一鉄は、勇気を出して二人の間に割って入る。
「お市さん、もう十分ですから! その侍さんの言うことはもっともです。僕が立ち去ります」
一鉄は震えながらも、恐ろしさを堪えて何とか言葉を絞り出す。二人は驚いて一瞬言葉を止め、そして物凄い剣幕で一鉄に怒鳴るのだった。
「お前は黙ってろ!」
「貴方は黙っていてください!」
ああ、もうだめだこれ。これ、僕の事じゃないんですか?
当事者の話って、もう少し聞いてくれてもいいと思うんですけど。
悲痛な嘆きを心にしまい、二人の圧に気をされた一鉄は再び隅に座り込む。一体いつになったら終わるのだろうか。夢なら早く覚めてくれと、一鉄は心の中で願う。いや、むしろ夢であってほしかった。
そんな彼の願いは、すぐに切り裂かれることになる。
突然霧の中から獣の様な叫び声が上がる。そして三人が反応するより素早く、霧の中から飛び出した巨大な物体が、一鉄目掛けて襲い掛かった。
「え......」
それは、虎のような怪物だった。頬に大きく裂けた口を開け、一鉄を食べようと襲い掛かったのである。
一瞬の出来事に反応が遅れた一鉄は、もう少しでバラバラになっていてもおかしくなかっただろう。咄嗟の反応で前に出た信盛が、怪魔の一撃を払いのける。
「ふんっ!」
巨大な口を受け止めた信盛は、そのまま身体を引き裂くように刀を前に振り抜く。しかし虎のような怪物はすらりと身をひるがえし、距離を置いてこちらを睨む。
「無事か小僧!」
「私の後ろに」
一鉄を庇うように動いた二人は、化け物をまっすぐと捉えて身構える。先程までの砕けた空気は消え失せ、辺りには嫌な緊張が漂っている。
「あれはいったい......なんなんですか......」
「あれが怪魔。魔霧より出でたる災厄であり、我ら人間に仇なす存在です」
市は微かに震える手でしっかりと刀を握り直し、構えをとる。
怪魔。聞き覚えの無い単語に、一鉄は呆然と目の前の怪物を再び眺める。恐ろしい風貌の怪物は、よだれを垂らしたその口を開けて機会を伺っている。少なくとも、一鉄は歴史書の中で怪魔という存在を聞いたことが無い。
とうとう一鉄は、ここが彼の知っている戦国時代ではないという確証に至る。
緊張の走る静寂の中、彼はごくりと固唾をのんで、己の置かれた現実を嚙み締めるだった。
同刻――
――尾張国 清洲城
雲一つない晴天の青空を、男は屋敷の庭から一人で見つめていた。見上げた空には雲の代わりに、久しく見ていなかった一羽の鷹が優雅に羽ばたいている。
彼の名は織田上総介信長。かの有名な戦国大名、後の歴史において魔王と呼ばれた男である。もっとも、それは正史の話。今の彼は、未だ尾張一国の主であり、世にはびこる怪魔と戦う一大名に過ぎなかった。
「……帰蝶か?」
不意に、彼は背後に忍び寄る者の名を呼ぶ。屋敷には彼一人しかいないはずだが、彼は幽かな気配を感じてその者の名前を口にした。
するとその声に呼応するように、彼の背後が揺らめく。やがて何もない空間から、身体のラインが分かる黒い装束に身を包んだ女性が現れる。
「さすがですねお前様」
帰蝶は鬼面の面鎧を外し、黒髪をかき上げる。整った顔立ち、豊満な身体、長くも手入れに行き届いた美しい黒髪。その風貌は絶世の美女という言葉がよく似合う。
帰蝶は見向きもせずに空を眺める夫に近寄ると、ピトリと身体を抱き合わせる。
「市に何かあったのか?」
「いいえ。ただ一点、報告が」
彼女は夫の鍛え上げられた肢体に妖艶な手つきで指を這わす。
「市ちゃんが何やら面白い男を拾ったようです」
顔元まで両手を這わすと、帰蝶は信長の耳元で呟く。信長はその言葉に目を見開くと、天高らかに笑い出す。
「はっはっはっ! なるほど、今日は吉日であったか!」
「あら珍しい。随分とお気に召したようね」
「うむ。帰蝶、その男連れてまいれ」
いつになく判断が速い信長に、帰蝶は驚いて抱擁を解く。
「訳を聞いてもよろしくて?」
信長は右手を静かに伸ばすと、先程まで見上げていた空を飛ぶ鷹に指をさす。
「あら、鷹ですか。珍しいですね」
「野生のものは実に十年ぶりである! あれは吉兆に違いあるまい!」
信長には絶対的な自信があった。彼は風水をやるような人ではなかったが、己の勘が、歴史の変わり目を伝えている気がしてならなかったのだ。
「面白い人。では、その様に致しましょう」
信長が振り返った時には、既に彼女は霧のように消えていた。帰蝶が向かったのを確認した信長は、次に大声で臣下の者を呼びつける。
「恒興!」
すぐに、屋敷の廊下から一人の男が現れる。
「随分楽しそうでしたな御屋形様」
着崩した小袖姿に無精ひげが生やした男は、久方ぶりに大笑いした乳兄弟の姿にとても満足した様子だった。
「臣下の者をすぐに集めよ。半刻後に評定を行う旨、触れて回れ」
「滝川殿と柴田の叔父貴がいねえぞ」
「居るものだけでよい。すぐに行け」
承知、という軽い返事を残して、恒興は速足に信長の元を後にする。
彼が立ち去ってから、信長は小姓から着替えを受け取り素早く着替える。先程までの砕けた様相が消え去り、威厳のある大名へと早変わりした彼は、誰にも聞こえぬ居室の中で、独り言を漏らす。
「時代が動くか。はたまた破滅への呼び声か。いずれにせよ、是非もなしか」
不敵に笑う彼の呟きは、誰に聞こえることもなく消えていくのであった。