転移先は、戦国時代?
黒い靄のかかった草原で、似つかわしくない高校の制服を着た少年は、迫りくる脅威から全速力で逃げていた。
現代日本で、命がけで逃げるという事態はまず発生しない。彼が逃げているのは辺りに民家一つない草原であったが、それでも命懸けというのはおかしい話である。
そう、それが現代日本なら。
「まてえ! 汚らわしい怪魔め! 我々が成敗してくれる!」
闇夜のように視界を奪う靄の中、南一鉄は背後から迫る声を恐れて必死に走り回っていた。
「くそっ! なんなんだ一体!」
いくら走っても現れない出口に、一鉄は怒りの声を上げた。しかし、敵は待ってはくれない。霧をかき分ける怒号とともに、大きな足音を立てて迫ってくる。
「怪魔だのなんだの知らねえってんだよ! 俺は、人間だ!」
届くことのない彼の虚しい叫びが、霧の中に消えていく。一体なんでこんな目に合わなければいけないのか。つい先ほど死んだばかりだというのに、もう一度死なねばならないのか。
一鉄は訳も分からぬまま、ただただ出口を目指して走るのだった。
南一鉄は、歴史をこよなく愛する男子高校生だ。
小学三年生の頃、父親に連れられて行った大阪城で初めて歴史に興味を持ち、中学生の時にはすっかり日本の歴史マニアへと染まっていた。
夏休みには家族で歴史旅行に、平日は一人で歴史書を読み漁る日々。同級生からは変人といわれる日々、それが南一鉄の日常だ。
もちろん、少ないながらに友達もいたし、部活動にも入っていた。
「ペース落とすな! あと五周!」
中学から始めた陸上。戦国時代が一番好きな一鉄は、この部活によって古い山城を巡り歩く為の体力を培っていた。元々体力はあったのが幸いし、部内でもトップの長距離選手としてちょっとした有名人だ。
「は~……相変わらずすげえ体力だな」
夏休み最後の日曜日。部活を終えて程よくかいた汗を流した一鉄は、親友の高島と一緒に帰っていた。
高島は中学時代から同級生で、一鉄にとって数少ない親友だった。
「昔からよく歩き回っていたからね」
「山城巡りだっけか? ホント飽きないよな」
高島は一鉄の趣味に理解を示しているが、彼の高校生らしからぬ趣味にはいつも疑問を漏らしていた。
しかし歴史オタクの一鉄にとってはそれも日常茶飯事、高島が嫌味で言っていないことは十分理解している。
「ああ、歴史はいいぞ! 生き様、生活、政治! 何をとってもロマンがある!」
「あー、うん。お前、めっちゃ元気だな」
部活終わりとは思えないほど生き生きと語る一鉄を置いて、高島はすたすたと先を行く。一度モードに入った一鉄がどれだけめんどくさいか、高島はよく知っていた。
「元気さ! 歴史の事を考えるだけで、ワクワクするじゃないか!」
「いいねぇ。でも、一鉄は実際に行けるとしたら、行きたい時代とかあったりするのか?」
「もちろんあるさ! やっぱり戦国時代かな!」
一鉄は見せつける様に鞄についたキーホルダーを揺らす。織田家、武田家、毛利家等々、有名な戦国大名の家紋がプリントされたアクリルキーホルダーが、鞄のひもがちぎれそうになるほどびっしり留められている。
「やっぱり武士の生き様って、見ててかっこいいだよなぁ」
「そうかよ、俺は平和な方がよっぽど好きだぜ」
「その太平の世を目指していたのが、戦国大名なんだよ。やっぱかっけえんだよな~」
親友にも伝わるように、一鉄が熱く語っていると、不意に自転車が二人の間を横切る。
「うお! おい、危ねえぞ!」
間を通り抜けたのは二人の小学生で、楽しそうに話しているのか周りへの注意が疎かになっていたのだろう。不意に、そのうちの一人が石を踏んだのか、バランスを崩して転倒する。
「ほーら、言わんこっちゃねぇ」
「いいから、助けに行くぞ」
勢いはあまりなかったものの、赤い短パンの男の子は膝を抑えて大泣きしている。よく見ると血も出ていた。と言っても、軽く擦りむいた程度だろう。
しかし、一鉄が男の子を助け起こそうと近づいたとき、彼は背筋が凍る様な気配を察知した。そして初めて、自分達がいる場所に気づいたのだ。
そこは交通量の多い通りの真ん中で、ちょうどカーブがあって見通しが悪い。そしてそのカーブを曲がって、猛スピードでトラックが突っ込んできていたのだ。
考えている時間はなかった。一鉄は咄嗟に小学生を掴み、歩道めがけて投げ飛ばす。しかし次に自分も、と一鉄が思った時には、もう遅かった。
鋼鉄でできた質量の塊が、逃げ遅れた一鉄を宙に跳ね飛ばす。
一瞬が永遠に感じられる。やがてふわりと浮いたからだが地面に叩きつけられると同時に、激しい痛みが全身を駆け巡る。
悲鳴があたりに響く中、一鉄は叫びながら走り寄る高島を見る。なんて言ってるか聞こえなかったが、子供達が無事ならよかったと、一鉄は口元をかすかに動かす。
しかし一鉄がその顔をほんの少しだけ動かすと、途端に視界が揺れて、そのまま暗い闇が視界を一瞬で奪う。
指先から体温が消えていくのを感じながら、一鉄は静かに意識を失った。
風に揺れる草の感触に、一鉄はゆっくりと目をあける。彼は自分の身体が動くことに驚いたが、それ以上に今いる場所に困惑してしまう。
辺りには黒い霧のようなものが色濃くかかり、先程までいたはずの住宅街も、自分が倒れこんでいたはずのアスファルトも見当たらない。自分の身体を触ってみるが、血も出ていなければ痛みもない。轢かれたのが夢なのか、はたまたここが夢なのか。
「おーい、高島~?」
呼びかけても、返事がない。
言葉も出ずに座り込んでいると、不意に霧の中から鉄同士がぶつかり合う音が聞こえてくる。来たことのないその音に、一鉄は驚いて立ち上がるが、霧に視界を奪われ音の正体が掴めない。
周囲の音に気を付けながら、一鉄は音のした方向へ向かう。近づくにつれ、衝突音が次第に大きくなり、人間の怒号のようなものが聞こえてくる。
やがて霧の向こう側に、二つの目のようなものが現れる。それは巨大な生物のようで、もう一体の何者かと戦っているようだった。
そして次の瞬間、獣の様な鈍い叫び声が響き、辺りは一瞬にして静寂を取り戻す。
一鉄が音の主へ恐る恐る近づいていくと、不意に霧の中から巨大な物体が現れる。黒い鉄に覆われたその物体は、一鉄よりも一回り大きく、目には霧の中でもわかる不気味な眼光がともっていた。
正体不明の鋼鉄は、やがてギュイーン、という機械音とともに腕を上げたかと思うと、その手に握られた長い棒を一鉄目掛けて振り下ろす。
とっさの反応で、一鉄は横に飛んでその一撃をかわす。
そして自分に向かって振り下ろされた物体を見て、彼の体中の血が一斉に引いていく。
それは、巨大でな日本刀だった。その刃をつたうように視線を移して、一鉄は刀を握る持ち主を見る。
歴史書で見たことのある甲冑の様な物に身を包み、機械の面鎧に二つの眼光を灯らせて、座り込んでいる一鉄を見下ろす侍がいた。
「外したか」
侍は地面を抉った刀を引き抜くと、一鉄に向き直り刀を構える。
「次は外さん。一撃でその首、はねてくれるわ!」
「待て待て待て! いったいなんだよこれ!」
一鉄は真っ直ぐ振り下ろされた二撃目を再び躱すと、元来た道を全速力で駆け戻る。背後からは、先程の侍らしき怪物の怒号が、彼の背中に飛んでくる。
「待て、怪魔め! その首撥ねてくれようぞ!」
「何だか知らねえが、誤解だ!」
見知らぬ場所で目覚めてからはや十分。こうして一鉄は、二度目の死の危機に陥ったのだった。
怪物から逃げること十五分。元々部活動で身体は鍛えていたものの、緊張と恐怖からくる疲労は彼の想像を超えて体力を奪っていた。足元もおぼつかない霧の中、一鉄はついに疲労によって転倒してしまう。
慌てた一鉄はすぐに立ち上がろうと足に力を籠めるが、恐怖と疲労でうまく力が入らない。そうしているうちに、とうとう声の主が背後に現れる。
「追いついたぞ、怪魔め!」
霧をかき分けて現れたのは、一鉄より二回りも大きい甲冑の様なアーマーに身を包み、ヘルメットの様な面鎧を装着し、奇妙な模様の入った刀身を持つ刀を振りかざした、巨大なロボットだった。
そう、まさに侍ロボットだった。
「人の皮を被った化け物め! 往生せい!」
「ま、待って! 俺は人間……」
「問答無用! 死ねえ!」
鬼気迫る侍ロボットの様相は、一鉄を更なる恐怖に突き落とした。侍ロボットは鋼鉄の足底で一鉄を押さえつけると、一鉄の言葉に一切耳を傾けることなく、振りかざした刀身を一鉄の首元目掛けて勢い良く振り下ろす。
もうダメだ。そう思った一鉄は、恐怖で目を閉じ運命をまつ。トラックにはねられた次は、まさか刀で死ぬことになるなんて。どれだけの不幸な星の下に生まれたのだろうか。
否、一鉄は幸運の星の下に生まれていたのだろう。
「お待ちなさい!」
まさに刃が彼の首を斬り落とそうと振り下ろされた瞬間、鋭い女性の声が響く。その直後、侍の横から割り込んできた細い刀が、大きな刀を受け止め衝突音を引き起こした。
驚いた一鉄が顔を上げると、先程の侍ロボットよりも小さいながらも、しっかりとした甲冑アーマーに身を包んだ女性と思しきロボットが、彼を庇うようにして立っていた。
「お市様⁉ 何故お止めになるのですか!」
お市。その名前には。聞き覚えがあった。
まさかと思っていると、一鉄は巨大な侍の背中に、旗指物が立っているのを見つける。白の布地に書かれているのは、あの有名な木瓜紋。かの有名な戦国大名、織田家の家紋だった。
「この方は怪魔ではなく人間ではありませんか! 恐れだけで切りかかってはいけません!」
「しかしお市様、この者は魔霧の中でも平気で動き回っておりまする! 人間とは到底……」
「黙りなさい!」
お市と呼ばれた女性は大柄な侍を一喝すると、足元に倒れていた一鉄を助け起こす。面鎧越しで顔がわからなかったが、お市は先程の侍とは違い優しい言葉とともに手を差し伸べる。
「臣下の者が、大変なご無礼を働いたようで申し訳ありません。私、織田家当主信長が妹の市と申します」
織田家。信長。市。
どれも、歴史好きの一鉄には聞き覚えのある言葉だ。
彼女の口から発せられた単語を落ち着いて理解した一鉄は、自分の考えが確信に変わったのと同時に、驚きのあまり叫ぶ。
「えーーー!」
彼がいたのは天国でもなければ、現代日本でも、ましてや異世界でもなかった。
一鉄が目を覚ましたのは、まさかのまさか。そう、夢にまで見た戦国時代なのだった。




