リディとグラシアン(2)
10月21日。2ページ目。
ぺし、と軽い衝撃が頬に走った。
え、と思うまま無意識に下がっていた顔を上げれば、反対側の頬にも音が鳴る。
「ばか」
ひらひらと手を振ったバルバラが、軽く叩いたからだとわかった。
呆れて言葉もないとばかりの表情を浮かべながら、もう一度同じことを言われる。
「馬鹿よね」
いつぶりか……。
もう随分前、幼い頃の喧嘩以来かもしれない。あのときはそれこそ引っ掻き傷がところどころに走るほどにやり合ったが、こうして優しく――でも不思議と痛い一撃を食らったのは、初めだ。
「じゃあ、やめるの?」
「え……」
「今さら。他人様の持ち物奪っといて、やっぱり私には不相応だからってやめるの? もうあんたの名前を書いちゃってて、元の持ち主には返還なんて出来やしないのに」
誰もが見える場所に書かれた名前は消せないの、とバルバラは言う。
「どんなことしても手に入れたかったんでしょ。そしてもう持ってるのよ。これから大事に磨いて輝かせるのも、錆びたガラクタにするのもあんた次第じゃない」
そして仕方がないと笑われた。
「そうだよ、馬鹿だよ。リディはさ」
うんうんとペイジーが頷く。何故か彼女は涙目で、優しい手つきでリディの頭を撫でてきた。平凡な焦げ茶の髪が、さらりと顎先で揺れる。
「あたしの話、ちゃんと聞いてた? あんたが何も出来なくたって、迷惑かけたって、何か覚えるのに時間かかったって、殿下はあんたを選んだ。それでもあんたを愛してくれるの。あんたから与えられるものがあるって思うから――リディ・サンリークだから愛されたの」
「その貴族のお嬢様より、リディがいいんだよ。損得じゃなくてさ。殿下だって、リディには『好き』だってそれしか想ってないよ」
「でも、それじゃ……」
「それだけじゃ納得出来ない自分がいるなら、頑張ればいいじゃない。一度失敗したら、もうその先もおしまいなの? 新しく始めればいいのよ。もう殿下は王太子じゃなくて、王都からも出る。あんただけじゃない。殿下だって初めてのことをしていくのよ」
泣くのよして、とバルバラが乱暴に頬を拭ってくれる。
「あんたは器用じゃない。でも同じことは失敗しないわ。何か間違っても、反省したなら後は笑いなさい。それがあんたでしょ。元気で明るくてどこか抜けてるけど、一生懸命なリディ・サンリーク。殿下が好きになったあんたのまま、成長できるはずでしょう?」
「王都から出ていくのは寂しいけどさ。大好きな人と一緒なんだよ? 二人なら、頑張れるよ」
だって家族になるんでしょ、とペイジーが微笑んだ。いいなあと憧憬を滲ませて。
「家族……」
「怖いことも、不安なことも全部殿下に話しなさい。遠くに行っちゃったら、手紙だって時間かかるんだからね。こうやってすぐに引っ叩いてあげられないのよ?」
茶化すようなバルバラの言葉だけれども、リディははっとした。
――この心を預けるべきは、彼だ。
同じように彼にとっても、私がそうでありたいと願った。怖いことも、不安なことも、彼が抱えるものをリディ自身がが聞いてあげたかったのだ。
「侯爵家のお嬢様が持ってなくて、あんたが持っているものを殿下は愛してるのよ。ならそれだけはしっかり守るの。『好き』を貫きなさいよ。好きで居続けることを覚悟にしなさい」
「わからないことがあったら殿下に教えてもらえばいいよ。だって旦那様になるんだしー? 手取り足取りむふふふ」
「ちょっとペイジー、やらしいわね」
「むふふー」
口に手を当て流し見てくるペイジーに顔を赤くしつつ、リディは心の裡にも熱が灯るのがわかった。
漠然としてものが、形になる。
薄くよどんでいたモノも、あるいは弱くとも光を放っていたモノも。
「ほら、未来の旦那様がお迎えよ」
「え……」
振り向けば、食堂の扉に嵌められた硝子の向こうに、見慣れた金糸の頭が覗いた。
深緑の瞳がリディと目が合うなり柔らかに細められ、求めてやまない温かな心が透けて見えた。
「……ねえバルバラ、ペイジー」
親しい友人たちの名を、まるで甘露のように舌の上で転がす。
――誰かの名前がこんなに愛しいと思うのも、自分が愛されているから。
そうか。一人じゃ、ないのだった。
「何よ」
「んー?」
「ありがとう」
失ったものの代わりに手に入れたのは、嘆くための未来じゃない。
……そんな簡単なことも忘れて、どこに行こうとしていたのか。
――旅立ちに涙はいらない。
「リディ、待ってるわ」
「また会おうね」
「うん」
もう一度大きく、リディは頷いた。
***
随分と長く話し込んでいたらしい。もうすぐ日が落ちる。
夕暮れ時の城下は、同じく帰宅する人々の一日の疲れを労わるような空気に満ちていた。
外国はおろか王都すら出たことのないリディの目にも、ここにいる人々は日々の苦労や嘆き、悲しみがあったとしても、不幸ではないと思った。
そんな人々の生活を守る立場の人間について、想いを馳せることなんて数ヶ月前までは微塵もなかった。
王族は畏れ多すぎて別としても、特権階級の人間が持つのは傲慢と偏見ばかりだと考えていたし、そこにどんな義務が生じているのかも知らなかった。あったとして、律儀に務めてる人間がどれほどいることかと、苦く思ってさえいた。
確かに、孤児院時代に見かけた貴族の中には碌でもなく感じる人間が山ほどいた。
けれどそれが全てだと思い込んでいたのは、間違いだ。
不思議な気分になる。
ただ一人との出会いが、見える世界すら変えてしまったこと――。
歩くとき、手を繋ぐのがもう二人の自然な形になった。貴族の男女のように、紳士にさり気無く淑女が腕を絡ませるようなものではなく、堅く指と指を絡ませる。
最初は気恥ずかしかったそれが、グラシアンもまたそうだったというのは、いつ聞いたのだったか。
リディの歩幅に合わせてくれる長身を横目で見上げながら、ようやく、と頭のどこかで思った。
――夢うつつのような気分だった。
自分の生活の中に突如紛れ込んだ男が、この国の王太子だったなんてこと。
そんな人と恋仲になったこと。
一緒にいるために貴族の世界に飛び込んだこと。
全部幸せな時間だったはずが、隣に立つ人の姿を見上げては、何度も信じられないと口にしていた。
それは幸喜であり、不安だった。夢は覚めるものだから。
けれど今、ようやくこれが現実だと全部で理解した。
謙虚なふりをして奥に縮こまっていた臆病さを、自分は見つけた。それがどれだけの失敗を生み出したのかも、もう認められる。
「グラシアン」
はっきりと発音したそれは、リディが思うよりずっと強い響きで伝わった。
吸い込まれそうな深緑の色が、驚くように見開かれる。
「これからは、二人のときはそう呼ぶね」
「……どうしたんだ、急に」
あの場所でのことを気にしているのかと、迷ったようにそう続けて問われた。
“グレイ”などという人間はいない――耳を塞いでしまいたかった第三王子の指摘を思い出すと、今でも指先が冷える。
足場が急に消え去って、奈落の底に落ちるような感覚を味わった。年下だということも忘れて、怖いと思った。
「ううん。ああ、んー……違うのかな。まったく関係ないとは言わないけど、でも一番の理由は、別なの」
上手くは言えないかもしれないと思いつつ、リディは言葉を紡ぐ。
「愛称を使うのは、やっぱり親しさの証なんだって今でも思ってる。誰も呼ばない“グレイ”って名前で呼びかけるときは、きっと優越感も感じてた。嬉しかった」
それがグラシアンの為だとも――。
偽名であったそれが実は少年期までの愛称だったのだと聞いたとき、グラシアンは切なげな表情を見せた。王太子という姿が己と重なっていく過程で、もう誰も呼ばなくなった名前だと。
それは懐古であり寂寥だと、リディは察した。ならば自分は、王太子という姿の中にいる“グレイ”を見てあげようと思った。呼ぶたびに嬉しそうな彼を見ては、間違っていないのだと。
……けれどそれは優しさなどでは、なかったのだ。
子供から大人へと――王太子へとなったグラシアンにとって、それは甘美な毒だ。過去を振り返ることはときに必要でも、彼はそれよりずっと多く、未来を見つめるべき人だった。
リディが名残惜しく引き止めてしまった。彼を、かつての場所に。
「あたしが好きになった“グレイ”や、あなたの過去だったその名前を否定するんじゃないの。今のあなた……グラシアンという人の中に、彼らはもう溶け込んでる。親しかった人たちがあなたの愛称を呼ばなくなったときに。あなたがあたしに真実の姿を告げたときに。消えてしまったんじゃなく、溶けて一つになったの」
だからと、リディはなるだけ綺麗に笑おうとした。けして美人とは言えない自分が、それでもグラシアンには一等美しく見えるように。
「“グレイ”を好きだった」
さり気無い優しさと強さ、ときに見せる寂しさ。そんな全てが愛しい存在だった。自分に通じるものさえあると思った。心の根にある孤独感や、誰かを護りたいという気持ち。人の温かさを欲しがるところ。
好きだった。
愛していた。
「……『だった』、なのか?」
いつの間にか歩を留めていた二人、道の隅に向かいあって立っていた。往来は人も少なになりつつあって、誰もリディやグラシアンに注目などしない。
人目を引く容姿ではあったものの、巷に流れる絵姿の人とグラシアンを重ねる人は今までもいなかった。王都に住む人々であってもこんな街中にふいに王子様が立っているとは思いもしないのだ。その男が手を握り、問い詰めるように見下ろす女性が、今最も話題の幸運を得た女性などとは。
そう考えれば、この自分にとっては何気ない光景が少しだけおかしかった。
ときに脆い男の姿が顔を見せる。
こんなにも誰かの愛情に飢えたのは、本当に何故なのだろう。あの場でだって彼の家族は、それなりに優しく思い遣りを持っているようだった。兄弟仲も良さそうだった。……それが何故?
――まだ知らないものを持っていることに、ときめいた。
「好きよ」
零れ落ちた言葉の飾り気のなさにあきれる。
「グラシアンが好き。これから先も、好き。もっともっと好きになる」
ねえ先は長いね、とリディは握りしめる指の力を強めた。
家族になるんでしょとペイジーに言われたときに、涙が出そうになった。
孤児院の院長は、親代わりであって親ではなかった。仲間たちはそれぞれに今を生きていて、バルバラ以外とはあまり会う機会もないし、現在の境遇も様々だ。中には世の暗がりの方へと流れて行った者もいる。
……家族が欲しかった。自分だけの家族が。
素敵な人に恋をして、その人を愛して。一緒になって、増やしていける。
リディにとってのわかりやすい愛情と幸福の姿だった。
「愛してるの」
ああ、とグラシアンが息を吐き出した。
しばし伏せた瞳がリディを捉えたとき、そこに籠る熱の量に眩暈がしそうになる。
「私も好きだ」
噛み締めるような、滲むような一言。
続けられた絶対の五文字にも、胸が苦しくなるほどに幸せを感じる。
至らない自分を知っている。けれどリディは、なら最初の一歩は愛することに決めた。
愛し続けること、さらに増やすこと。
目の前の彼が、いつしか何の不安や迷いもなく、愛されている事実を受け止められるように。自分もまた、彼の想いを疑わないように。
この王都に戻ってくる日がいつになるかは、わからない。
周囲に振り撒いてしまった憂鬱の種がどのように処理されるのかを、当事者であるくせに、遠くの地で待たねばならない。その事実はこれからも、ふとした折にリディとグラシアンを苦しめるだろう。
けれど不幸には成り得ない。
小さな積み重ねが日々を作るように、この場所に戻ってきたときには、今よりずっと強い存在になっているはずだから。
そして世界は二人だけじゃない。幸福を報告したい人間は、沢山いる。
いつかこの世に生まれる愛情の証にも、この日々を話したい。
だからあなたが愛しいのだと、伝えたい。
二人のロマンスはまだ、ここから――――。
若人世代、唯一のらぶがこれです。
ロマンスと言えども最高に恋愛との相性が悪い……
そんな作品に付き合っていただけて、感謝感謝です。
さて、です。
これにて完結とさせていただこうと思います。
蛇足的番外編までお付き合いいただき、ありがとうございました。
本編主軸や終わり方からしても
ここでオレリアの未来の旦那様をお披露目は出来ませんが……
まだ若い彼女が成長して自分の中の愛情に気付けたとき、
きっと涙も流せるだろうし、相手に甘えもします。
やれば出来る子! そのはずです。
本編・番外編通して唯一、視点での出番がなかった「奴」ですが
腹の中は灰色でも脳内は誰よりピュアで奥手とフォローしておきます。
策士だろうと好きな相手には負け続けですので、
生暖かい目で見てやってくださいませ。
それでは、『ロマンスに踊れ』をありがとうございました。




