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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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9/10

第九話 渋谷編 閃光と闇

私は、人を地下へ送る。

もう何十年も、そうしてきた。

一階の入口でチケットを渡した人間は、必ず私の上を通る。

客も。

踊り子も。

芸人も。

照明も。

音響も。

掃除をする人も。

初めて来た若者も。

四十年通う常連も。

みんな、私を踏んで降りていく。

私は道頓堀劇場へ続く地下階段。

人間にたとえるなら、七十を少し過ぎた女だろうか。

膝は少し悪い。

昔よりきしむ。

でも、まだ人を支えることはできる。

そういう女だ。

私は明るい場所にいるわけではない。

一階の入口から、少し奥へ入る。

そこから下へ向かう。

上には道玄坂の夜がある。

酒の匂い。

人の声。

タクシーの音。

若者の笑い声。

どこかの店から漏れる音楽。

街の熱。

でも、一段降りるごとに、それが少しずつ遠くなる。

人間は、地下へ降りる時に少し黙る。

昼間どれだけ偉そうにしていた男も。

仲間の前で強がっていた若者も。

酒を飲んで陽気になっていた常連も。

初舞台の踊り子も。

売れない芸人も。

一段目で、声が少し小さくなる。

二段目で、息を整える。

三段目で、何かを覚悟する。

私はその足音を聞いてきた。

足音には嘘が少ない。

顔は作れる。

声も作れる。

服も髪も化粧も、人間はいくらでも飾れる。

けれど、階段を降りる足だけは、その人間の奥にあるものを少しだけ落としていく。

初めて来た客は、足が浅い。

一段ごとに、まだ戻れるかどうかを考えている。

常連は違う。

迷わない。

けれど、迷わないからといって何も抱えていないわけではない。

むしろ常連ほど、重いものを黙って持っている。

四十年通った男がいた。

若い頃は、靴音が軽かった。

照れ隠しに咳払いをして、少し急ぎ足で降りていった。

中年になると、足音が落ち着いた。

誰にも言い訳しなくなった。

老いてからは、一段ずつゆっくり降りるようになった。

杖をついた日もあった。

それでも来た。

最後に来た夜、彼は私の途中で立ち止まった。

手すりを握った。

息を吐いた。

「もう、きついな」

そう言った。

誰に言ったのかは分からない。

私に言ったのか。

自分に言ったのか。

それとも、もういない誰かに言ったのか。

その後、彼は来なくなった。

しばらくして、若い男が来た。

顔は見えなかったけれど、歩き方のどこかにあの常連の癖が残っていた。

息子だったのかもしれない。

孫だったのかもしれない。

チケット売り場の女と短く話し、私を降りてきた。

少し緊張していた。

地上では知らなかった父親の顔を、地下へ探しに来たのかもしれない。

人間は、死んだ後にも誰かを地下へ降ろすことがある。

私はそれも見てきた。

踊り子たちも、みんな私を降りる。

舞台に出る前の彼女たちは、地上の光をまだまとっていない。

大きな荷物。

化粧前の顔。

眠そうな目。

少し機嫌の悪い声。

よく笑う子。

一言も喋らない子。

煙草の匂いをさせる子。

甘い香水をまとった子。

どこかの地方の言葉を残したままの子。

新人はすぐ分かる。

足が止まる。

一段目を降りる前に、少し息を吸う。

それから、ゆっくり降りる。

ある新人の子がいた。

二十歳になったばかりだった。

地方から来た子で、バッグだけが大きかった。

初日、彼女は私の途中で立ち止まった。

上へ戻ろうか、下へ降りようか。

その迷いが、靴底から伝わってきた。

誰もいなかった。

チケット売り場の女も、もう次の客を見ていた。

彼女は小さく言った。

「怖い」

その声を聞いたのは私だけだった。

私は階段だから、答えられない。

でも、もし言えたなら言っていただろう。

怖くていい。

怖いまま降りればいい。

震えている足でも、人は舞台へ行ける。

彼女は降りた。

その夜、彼女は舞台に立った。

私は中を見ることはできない。

けれど、戻ってくる足音で分かった。

彼女は、何かを越えた。

それから半年、彼女は何度も私を降りた。

最初は震えていた足が、少しずつまっすぐになった。

一年後、常連が彼女の名前を呼ぶようになった。

三年後、彼女は少し有名になった。

五年後、最後のステージの日。

彼女はまた私の途中で止まった。

初日と同じ場所だった。

今度は怖いとは言わなかった。

ただ、そっと手すりに触れた。

「ありがとう」

そう言った。

私は何も返せない。

でもその言葉は、私の鉄の奥に残っている。

始まりの日も。

終わりの日も。

人間は同じ場所で震える。

それを私は知っている。

私は回る。

闇の奥で、光の中へ人間を押し出す。

私は回り舞台。

人間で言えば、八十を過ぎた男だろう。

口数は少ない。

余計なことは言わない。

若い頃から、仕事は黙ってするものだと思っている。

私は、踊り子を乗せてきた。

芸人を乗せてきた。

拍手も、沈黙も、野次も、歓声も、全部足元で受けてきた。

階段の女が人を地下へ送るなら、私はその人間を光の中へ出す。

暗い袖から、舞台の中心へ。

そこには閃光がある。

スポットライト。

白い光。

赤い光。

青い光。

肌に当たる熱。

客席からの視線。

音楽。

拍手。

息をのむ音。

そして時々、どうしようもない沈黙。

踊り子が立つ。

私はその足の震えを知っている。

強い女もいる。

最初から舞台を自分のものにする女。

視線を怖がらない女。

客席を睨み返すように立つ女。

だが、本当に震えない女などいない。

どこかで震えている。

初舞台の時かもしれない。

人気が出た時かもしれない。

最後のステージの日かもしれない。

私はその震えを受け取る。

彼女たちは私の上で回る。

美しいと言われる。

艶やかだと言われる。

裸を見に来た男たちは、最初は身体だけを見る。

けれど、いい踊り子は途中でそれを変える。

身体を見ていた男が、いつの間にか呼吸を見る。

指先を見る。

背中を見る。

笑っていない目を見る。

人間は、見るつもりのなかったものを見てしまう時がある。

その時、客席の空気が変わる。

私はそれを何度も感じてきた。

ある踊り子がいた。

舞台の上では、まるで火のような女だった。

客席は彼女に飲まれた。

常連たちは彼女の名前を口にした。

新人たちは彼女を怖がった。

でもある夜、彼女は舞台袖でうずくまっていた。

足首を痛めていた。

「出られないかも」

そう言った。

スタッフが慌てた。

別の踊り子がそばにしゃがんだ。

「無理しない方がいい」

そう言った。

すると彼女は笑った。

「無理しないで立てる舞台なんてないよ」

結局、彼女は出た。

私は彼女を乗せた。

回した。

足は震えていた。

でも客席からは分からなかっただろう。

その夜の拍手は長かった。

私は今でも覚えている。

拍手は、ただの音ではない。

人間が何かを受け取った時の返事だ。

私はその返事を、何十年も浴びてきた。

芸人も来た。

これがまた、痛い。

踊り子を待つ客の前で芸をする。

笑いを求めていない客の前で、笑わせなければならない。

裸を見に来た男たちに、言葉だけで立ち向かう。

若い芸人の足は、踊り子よりも震えていることがある。

最初は勢いがある。

「今日はウケる」

そんな足音で来る。

だが客席は甘くない。

聞いていない。

酒を飲んでいる。

早く次へ行けという空気を出す。

野次が飛ぶ。

「つまんねえぞ」

「早く終われ」

笑われるならまだいい。

無視される方が重い。

ある若い芸人は、途中で声が裏返った。

客が笑った。

ネタではなく、失敗に笑った。

彼は顔を赤くした。

それでも最後までやった。

舞台袖へ戻ると、膝から崩れた。

踊り子の一人がタオルを投げた。

「泣くなら見えないところで泣きな」

冷たい言葉だった。

でも、その声には少しだけ優しさがあった。

別の踊り子はもっと優しかった。

客席がまったく笑わなかった夜、若い芸人が袖で立ち尽くしていた。

彼女は煙草をくわえながら言った。

「今日、ちょっとだけ面白かったよ」

芸人は泣いた。

「ちょっとだけですか」

「ちょっとだけ」

「次は?」

「次は、もうちょっとね」

その芸人は、何年か後に売れた。

テレビで顔を見るようになった。

ここへは戻らなかった。

戻らなくていい。

ここは、戻る場所ではなく、通過する場所である時もある。

でも、戻れなかった芸人もいる。

戻らなかったのではなく、戻れなかった者もいる。

一度だけ立ち、野次を浴び、上がってきて、それきり来なかった男。

毎週来て、毎週滑って、それでも一年続け、ある日ふっと消えた男。

客の一人から「お前、向いてねえよ」と言われ、笑っていたのに、階段の途中で泣いていた男。

彼らの名前を、もう誰も覚えていない。

けれど私は覚えている。

階段の女も覚えている。

売れた者だけが舞台に立ったわけではない。

消えた者も、同じ光を浴びた。

それが大事なのだ。

私は階段の途中で、上がってくる芸人たちを受け止めた。

下りる時より、上がる時の足音の方が正直だった。

うまくいった芸人は、階段を駆け上がる。

足が軽い。

誰かに電話したくてたまらない足。

失敗した芸人は、段差につまずく。

下を向く。

一段ごとに、自分の才能を疑っている。

私は何も言えない。

だが時々、足を支えながら思う。

今日滑ったことにも、きっと意味はある。

たとえ、本人がそう思えなくても。

常連客の足音も、私はよく覚えている。

階段を降りる時に咳払いをする男。

いつも三段目で手すりを握る男。

帰りは必ずゆっくり上がってくる男。

酒を飲む前に来る男。

酒を飲んだ後に来る男。

奥さんに先立たれてから通うようになった男。

何も話さず、ただ毎回チケットを買って降りる男。

人間は、欲だけでここへ来るわけではない。

もちろん欲もある。

それを否定する必要はない。

だが欲だけなら、何十年も通わない。

人間は、自分の寂しさに名前をつけられない時、同じ場所へ通うことがある。

そこに舞台がある。

そこに光がある。

そこに知っている顔がある。

そこに拍手がある。

それだけで、夜を越せる人間がいる。

二十二時半。

最後のステージが終わる。

閉館の時間。

客が上がってくる。

私はその足音を聞く。

興奮した足。

静かな足。

考え込む足。

どこかへ飲みに行く足。

まっすぐ駅へ向かう足。

ひとりで帰る足。

誰かと話したくて仕方がない足。

地上に戻る人間は、降りる時とは少し違う。

ほんの少しだ。

だが違う。

私はその差が好きだ。

地下へ降りた人間は、必ず何かを持って戻る。

笑い。

匂い。

光。

寂しさ。

やましさ。

感動。

説明できないもの。

全部が混ざって、足音になる。

その夜、赤い髪の若者が降りてきた。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうなブーツ。

チケット売り場の女に足元を気をつけなと言われたのだろう。

彼は最初の一段を少し慎重に踏んだ。

若いのに、どこか疲れた足だった。

私の途中で立ち止まった。

上の音が遠のく場所。

下の音がまだ届かない場所。

彼はそこで息を吐いた。

「なんで来たんだろう」

小さくそう言った。

私は聞いた。

階段だから、返せない。

だが私は思った。

それでいい。

理由が分からないまま降りてくる人間は多い。

むしろ、はっきりした理由だけで来る人間の方が少ない。

彼はまた降りた。

重い観音開きの扉の前で、一瞬止まった。

あの扉は重い。

ただ重いだけではない。

地上と地下の空気を分けている。

扉の向こうには、光がある。

でもその光は、地上の光ではない。

少し古い。

少し湿っている。

少し痛い。

人間の体温を吸った光だ。

彼が扉を押す。

軋む音。

そして、閃光。

私はここから先を見られない。

ここからは、彼の仕事だ。

回り舞台の男の仕事だ。

赤い髪の若者が客席にいた。

私は彼を見た。

客席の顔は、舞台からよく見える。

見えないと思っている客もいるが、こちらからは案外見える。

最初、彼は少し困った顔をしていた。

どこを見ればいいのか分からない。

その顔は初めて来た客に多い。

見たい。

でも見ていいのか分からない。

見ている自分を、誰かに見られたくない。

人間は面倒だ。

踊り子が立つ。

音楽が鳴る。

光が当たる。

彼女の身体が、闇の中で輪郭を持つ。

客席の空気が変わる。

赤い髪の若者は、最初は視線を泳がせていた。

だが途中から、じっと見た。

裸を見たのか。

踊りを見たのか。

光を見たのか。

それとも、自分とは別の場所で必死に生きている人間を見たのか。

私は分からない。

けれど、彼の顔は変わった。

人間が、見るつもりのなかったものを見た顔になった。

次に芸人が出た。

若い男だった。

客席はまだ踊り子の余韻を引きずっている。

誰も笑う準備をしていない。

彼は声を張った。

ネタを始めた。

滑った。

一つ目の笑いが来ない。

二つ目も来ない。

誰かが小さく咳をした。

誰かが水を飲んだ。

客席の無関心が、地下の空気を重くする。

芸人の額に汗が浮いた。

赤い髪の若者が、それを見ていた。

笑っていなかった。

馬鹿にしている顔でもなかった。

むしろ、少し苦しそうだった。

もしかしたら、自分を重ねたのかもしれない。

何かをやろうとして、誰にも届かない怖さ。

自分だけが熱を持っていて、周りは冷たいままの怖さ。

私は何度も見てきた。

舞台の上だけではない。

人生そのものが、そういう場所になることがある。

芸人は最後までやった。

客席から大きな拍手は起きなかった。

でも、赤い髪の若者だけが小さく手を叩いた。

一度。

二度。

三度。

それは小さな音だった。

だが私は覚えている。

拍手は、量ではない。

届くかどうかだ。

若い芸人は、その小さな拍手に気づいたのかもしれない。

袖へ戻る直前、ほんの少しだけ顔を上げた。

私はその一瞬を見た。

そういう一瞬のために、私は回っているのかもしれない。

なぜそう思うのかは分からない。

私は舞台だ。

人間ではない。

なのに、時々、胸の奥が熱くなる。

胸などないのに。

拍手の音が懐かしい。

照明の熱が懐かしい。

誰かを見送る寂しさが懐かしい。

私は昔、何だったのだろう。

人間だったのか。

踊り子だったのか。

芸人だったのか。

客だったのか。

それとも、誰かを待つだけの男だったのか。

分からない。

思い出せない。

ただ、懐かしい。

階段の女も同じことを思っているのだろう。

人間の震える足を、なぜあそこまで気にするのか。

彼女自身も知らない。

本人たちは気づいていない。

だが、何かが残っている。

木の奥に。

鉄の奥に。

暗闇の奥に。

人間だった頃の名残のようなものが。

閉館後。

二十二時三十分を過ぎる。

客が上がっていく。

踊り子が楽屋へ戻る。

スタッフが片づける。

照明が落ちる。

音が止まる。

劇場は急に古くなる。

さっきまでの閃光が嘘のように、闇が戻る。

私は止まる。

回り舞台は、止まっている時がいちばん自分の年齢を感じる。

回っている時は若い。

光の中では、私はまだ働ける。

けれど、照明が落ちると、木の軋みも、鉄の疲れも、全部分かる。

階段の女も、人を送り終えて静かになる。

上ではまだ渋谷の夜が続いている。

飲みに行く者。

駅へ向かう者。

誰かに電話する者。

ひとりで歩く者。

赤い髪の若者も上がっていった。

階段の途中で、また少し止まった。

今度の足音は、降りる時とは違っていた。

軽くなったわけではない。

重さの種類が変わっていた。

彼は上へ戻る。

地下で見たものを持って。

芸人の汗。

踊り子の光。

客席の沈黙。

小さな拍手。

重い扉。

そして、説明できない何か。

地上へ出ても、きっと誰にも話さないだろう。

話したところで伝わらないことがある。

人間は、見たものすべてを言葉にはできない。

それでいい。

言葉にならないものにも意味がある。

彼が地上へ出る。

道玄坂の夜へ戻る。

チケット売り場の女が少しだけ彼を見送る。

そして窓の灯りを落とす。

私は闇の中で止まっている。

階段の女は、また誰かの足音を待っている。

明日も人は来る。

四千円を払い。

あるいは三千円を握りしめ。

チケットを受け取り。

入口を抜け。

階段を降り。

重い扉を開け。

閃光を見る。

そしてまた闇へ戻る。

人間は光を見たがる。

だが、本当は闇も求めているのかもしれない。

暗い場所でなければ見えない光があるから。

地下へ降りなければ届かない拍手があるから。

誰にも言えない寂しさが、そこでは少しだけ形を変えるから。

私は回る。

彼女は支える。

私たちは、それを繰り返す。

閃光は一瞬だ。

闇は長い。

けれど人間は、その一瞬のために長い闇を歩ける。

踊り子も。

芸人も。

客も。

赤い髪の若者も。

きっと、どこかで光を探している。

その光が何なのか、本人にも分からないまま。

私は回り舞台。

私は地下へ降りる階段。

私たちは、人間を見てきた。

欲も。

夢も。

挫折も。

成功も。

沈黙も。

拍手も。

優しさも。

冷たさも。

そして、生まれ変わる前の記憶のような、説明できない懐かしさも。

今日の閃光は消えた。

闇が戻った。

けれど、闇は終わりではない。

闇は次の光を待つ場所だ。

だから私は待つ。

だから私は回る。

だから私は、また人を地下へ送る。

次の誰かが、重い扉を開けるその瞬間まで。

閃光と闇の、そのあいだで。


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