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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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10/10

第十話 渋谷編 その風はいつもそばにいる

わたしは、またこの街へ戻ってきた。

戻ってきた、なんて言うと少し変かもしれない。

だって、風には住所がない。

帰る家もない。

待っていてくれる家族もいない。

表札もないし、鍵も持っていない。

海から吹くこともある。

川を渡ることもある。

ビルの隙間で迷うこともある。

誰かの髪を揺らして、誰かのため息を運んで、気づけば知らない街の朝に混ざっている。

わたしは、そういうもの。

ひとつの場所にじっとしているのが苦手。

第1話のわたしなら、たぶんそう言って笑っていたと思う。

でもね。

今は少しだけ違う。

この街には、戻ってきた、という言葉を使いたくなる。

それが不思議だった。

風なのに。

どこにも属さないはずなのに。

この街に入ると、胸の奥が少しだけきゅっとなる。

もちろん、胸なんてないんだけど。

でも、あるみたいに苦しくなる。

渋谷。

朝の光はまだ薄かった。

夜の熱が、道の端に少しだけ残っている。

飲み終えた人たちが駅へ向かう。

清掃員がゴミを集める。

コンビニの前で眠そうな男の子が缶コーヒーを開ける。

昨日の化粧を少し残した女の子が、スマートフォンを見ながら小さくため息をつく。

タクシーが一台、静かに坂を下りていく。

昼の渋谷はまだ始まっていない。

でも夜の渋谷も、完全には終わっていない。

この時間が好き。

夜と朝の境目。

昨日と今日の境目。

人間が、自分の顔をまだ選び直せていない時間。

わたしはビルの隙間から、そっと街に入り込んだ。

最初に触れたのは、スクランブル交差点の信号機だった。

赤。

青。

黄。

また赤。

相変わらず、真面目に光っている。

あの人は、ほんとうに律儀。

自分には三つの色しかないと言いながら、誰よりも多くの色を見ている。

わたしは彼の冷たい金属の身体を、ほんの少し撫でた。

「おはよう」

声にはならない。

でも、そう思った。

彼は何も言わない。

信号機だから。

ただ赤になり、青になり、黄色になる。

でも、わたしは知っている。

彼の中には、たくさんの人間の時間が残っている。

赤信号を無視して走った少年。

黒塗りの車で戻ってきた社長。

チーマーだった警察官。

昔泣いていた少女。

今は母親になった女の子。

映画に映った夜。

DJポリスの声。

ハロウィンの騒ぎ。

コロナで誰も渡らなかった青信号。

彼は全部見てきた。

たった三色しか持っていないのに、七色どころではない街の真ん中で、ずっと立ってきた。

わたしは彼の青い灯りの前を通り過ぎた。

その時、一人の男が青なのに立ち止まった。

彼ではない。

赤い髪の青年ではない。

別の誰か。

でもその立ち止まり方は、少し似ていた。

信号機はきっと思ったはず。

人間には、赤でも青でもない時間がある。

わたしも、今なら少し分かる。

進めと言われても進めない時がある。

止まれと言われても、心だけが先へ行ってしまう時がある。

人間ってほんとうに面倒くさい。

でも、だから愛しい。

次に、ベンチのところへ行った。

まだ朝だから、彼女は少し冷えていた。

彼女、と呼びたくなる。

あのベンチは、八十歳くらいの女の人みたいだった。

口数は少ない。

でも、背中を支えることを知っている。

わたしは座面の上をすっと撫でた。

夜露が少し残っていた。

そこに、昨日の誰かの体温がまだある気がした。

泣いていた女の子。

疲れた会社員。

別れ話をした恋人。

ネタを口にしていた若い芸人。

赤い髪の青年。

彼も、あのベンチに座った。

強そうな服を着て。

派手な髪をして。

でも、そっと座った。

座ることに許可を求めるみたいに。

あの時、ベンチは何も聞かなかった。

ただ支えた。

それだけ。

でも、それだけのことに救われる夜がある。

わたしは今なら分かる。

言葉をかけることだけが優しさじゃない。

何も聞かずにそこにいること。

少しだけ背中を預けられること。

立ち上がるまで待ってくれること。

それも優しさなんだ。

わたしは彼女の古い木目の間を通り抜けた。

誰かが今日も座るだろう。

笑いながら。

泣きながら。

何でもない顔をしながら。

彼女は今日も、きっと何も聞かない。

昼が近づくにつれて、街は少しずつ色を取り戻していった。

店が開き始める。

シャッターが上がる。

人の声が増える。

駅から流れてくる足音が濃くなる。

わたしは109の方へ向かった。

あの女は今日も綺麗だった。

外側の大型ビジョンは、相変わらず自信満々。

見て。

わたしを見て。

そんな声が聞こえてくる気がする。

二十八歳くらいの女。

綺麗で、派手で、少し意地悪で、でも本当は少し寂しがり。

私は彼女の光を揺らした。

画面の中では、新しいコスメの広告が流れていた。

笑う女の子。

完璧な肌。

完璧な髪。

完璧な角度。

でも、その下。

建物の内側には、別の女がいる。

五十八歳くらいの女。

何十年も女の子たちを迎え入れてきた女。

試着室の涙。

買えなかった服。

初めて似合った口紅。

元コギャルの母親。

娘を連れて戻ってきた女の子。

カリスマ店員だった祖母。

地方から来て、東京に住むようになった子。

夢を叶えた子。

消えた子。

自分を嫌いになりながら、それでも鏡の前に立った子。

109は、ただ服を売る場所じゃない。

女の子たちが、少しだけ別の自分になろうとする場所だった。

わたしはビジョンの光を撫で、ガラスを鳴らし、入り口の空気を少しだけ揺らした。

若い女の子が一人、立ち止まった。

スマートフォンを見て、自分の前髪を直した。

その仕草が可愛かった。

でもその目には少しだけ不安があった。

わたしはそっと彼女の髪を揺らした。

大丈夫だよ、なんて言えない。

でも少しだけ、そう思った。

可愛くなりたいなら、なればいい。

なれない日があってもいい。

似合わない服に泣いてもいい。

買えなくてもいい。

また来ればいい。

この街は、何度でも来ていい場所だから。

午後になると、わたしはセンター街へ流れた。

足元に、あのマンホールがいた。

丸い鉄の蓋。

少し錆びていて、少し重い。

七十歳くらいの、低い声の人。

人間の顔は知らない。

でも足元を知っている。

わたしは彼の隙間へ少しだけ入り込んだ。

地下の匂い。

湿った空気。

水の音。

遠くを走る電気の気配。

通信の震え。

街の下には、別の街がある。

地上では笑い声が響いている。

動画が撮られている。

恋が始まっている。

流行が生まれている。

でもその下では、雨水が流れ、下水が流れ、ケーブルが働き、誰にも見られないものたちが街を支えている。

マンホールは言っていた。

上ばかり見るなよ。

そうだね。

わたしも、前は上ばかり見ていたかもしれない。

ビルの間。

看板。

髪。

服。

顔。

でも今は分かる。

街は見えるものだけでできていない。

見えないものがなければ、見えるものは立っていられない。

人間もそうかもしれない。

笑顔の下に不安がある。

派手な服の下に迷いがある。

怒った言葉の下に寂しさがある。

強がった足元に、震えがある。

赤い髪の青年の重いブーツも、彼は覚えていた。

かかとが少し削れていて、右足だけ少し遅れる歩き方。

マンホールは顔を知らない。

でも、足で彼を覚えている。

それって、すごく渋谷らしいと思った。

この街では、誰もが誰かの全てを知るわけじゃない。

でも、どこか一部だけを覚えている。

髪。

靴。

声。

匂い。

背中。

泣いた場所。

座った時間。

それだけでも、人は誰かの中に残る。

夕方、宇田川町交番の前を通った。

窓に灯りが入っていた。

まだ夜ではない。

でも、夜の気配が少しずつ街へ降りてきている。

あの交番は、五十五歳くらいの女。

少し口うるさい。

少し頑固。

でも困っている子を見ると放っておけない。

わたしは交番の旗をふわっと揺らした。

窓の中で警察官が書類を書いていた。

誰かが道を聞きに来る。

外国人。

迷子。

財布をなくした女の子。

座っていいですか、と聞いた少年。

怖いのに平気なふりをしていた子。

酔って泣いた若者。

怒鳴った男。

嘘をついた人。

本当のことを言えなかった人。

あの交番は、渋谷の壊れそうな瞬間を知っている。

楽しい時、人間は交番へ行かない。

何かが少し崩れた時に、あの窓を叩く。

だから彼女は、街の華やかさよりも、人間の震えを知っている。

風であるわたしには、窓の中へ入り込むこともできる。

わたしは少しだけ、書類の端を揺らした。

彼女は気づかない。

でも、窓の灯りはあたたかかった。

渋谷には自由がある。

でも自由な街には、迷子も多い。

何者にもなれる街には、何者にもなれずに立ち尽くす人もいる。

浮かない街には、誰にも気づかれない孤独もある。

だから、眠らない窓がある。

わたしはそのことを、少し嬉しく思った。

夜が降りてくる。

街が、昼の顔を脱ぐ。

音楽が濃くなる。

酒の匂いが混ざる。

ネオンが強くなる。

人間の声が少し大きくなる。

そして、あいつが出てくる。

ネズミ。

三十五歳くらいの男。

ちょっと嫌味で、少し自慢屋で、人間を馬鹿にしているふりをしている。

でも本当は、人間が好き。

わたしはゴミ袋の影を抜けて、彼の髭をちょっと揺らした。

「また来たのか」

そんな顔をしていた。

もちろん、実際には聞こえない。

でも、そんな気がした。

彼は夜の渋谷をよく知っている。

酔っぱらい。

ホスト。

キャバ嬢。

家出少女。

始発待ち。

ゴミ袋。

排気ダクト。

飲食店の裏口。

人間が捨てたもの。

人間が落としたもの。

人間が隠したもの。

彼は全部見ている。

昼間の人間は、上を向く。

夜の人間は、ときどき下を向く。

だからネズミは、人間の弱さを知っている。

彼は言っていた。

昼の渋谷は人間の街。

夜の渋谷は俺たちの街。

でも、夜の渋谷を歩く人間たちも、どこかネズミに似ている。

見つかりたくない。

でも見つけてほしい。

隠れたい。

でも誰かに気づいてほしい。

そんな矛盾を抱えている。

わたしは彼のそばを通り過ぎながら、少し笑った。

夜の住人は、きっと今夜も人間をからかいながら、誰かの孤独を見ている。

そのまま道玄坂へ向かった。

古い入口。

チケット売り場。

第8話の女。

六十五歳くらいの、少し無愛想な女。

口紅を引き、眉を描き、窓の向こうで人間の顔を見ている。

四千円。

三千円。

一枚の紙切れ。

客。

踊り子。

芸人。

スタッフ。

みんな同じ入口から入る。

同じ階段を降りる。

わたしは窓の隙間を通り抜けた。

古い木の匂い。

少し湿った空気。

化粧品の甘さ。

紙の匂い。

お金の匂い。

彼女は今日もチケットを渡していた。

「一枚」

「はいよ」

その短いやりとりの中に、いくつもの人生がある。

初めて来た若者。

四十年通った常連。

父親の秘密を探しに来た息子。

新人の踊り子。

売れない芸人。

売れた芸人。

消えた芸人。

優しい踊り子。

冷たい踊り子。

人間は、一枚の紙切れで顔が変わる。

地上から地下へ降りる前に、少しだけ本音が出る。

わたしは窓口の女の髪を、ほんの少し揺らした。

彼女はふと顔を上げた。

「風か」

そう言った。

わたしは驚いた。

たぶん偶然。

でも、偶然ってそんなに軽いものなのかな。

彼女はまた窓の向こうを見た。

今夜も誰かを地下へ送る。

ここから先は、階段の仕事。

そう思っているようだった。

だから、わたしも降りることにした。

地下へ。

あの階段へ。

暗い階段は、今日も静かだった。

七十を少し過ぎた女。

人を送る女。

彼女は、誰かの足音を聞き続けてきた。

初めての客の迷い。

新人踊り子の震え。

売れない芸人の重さ。

常連の老い。

赤い髪の青年の息。

わたしは段差の角を撫でながら、ゆっくり下りた。

地上の音が少しずつ遠くなる。

地下の空気が濃くなる。

この階段は、人間の覚悟を知っている。

一段目。

二段目。

三段目。

人間は少しずつ、地上の顔を脱いでいく。

ここで引き返す人もいる。

ここで息を整える人もいる。

ここで泣く人もいる。

ここで、誰にも聞こえないように「怖い」と言う踊り子もいる。

階段の女は、それを全部聞いてきた。

でも、何も言わない。

ただ支える。

わたしはなぜか、彼女のそばにいると胸が痛くなる。

彼女は昔、誰かを送り出したことがあるのかもしれない。

人間だった頃。

母だったのか。

恋人だったのか。

姉だったのか。

駅のホームで誰かを見送ったのか。

舞台袖で誰かの背中を押したのか。

本人は知らない。

もちろん、わたしも知らない。

でも彼女の中には、送り出すことへの懐かしさがある。

それはただの階段には重すぎる感情だった。

重い観音開きの扉の前に来る。

この扉は、地上と地下を分けている。

闇と閃光を分けている。

外の夜と、舞台の夜を分けている。

わたしはその隙間をすり抜けた。

中は静かだった。

今はまだ始まっていない。

回り舞台は止まっていた。

でも、そこには音が残っている。

拍手。

野次。

音楽。

足音。

照明の熱。

笑い。

沈黙。

若い芸人の汗。

踊り子の呼吸。

客席の息。

八十を過ぎた男のような回り舞台。

無口。

職人気質。

余計なことは言わない。

ただ回る。

ただ人間を光の中へ送り出す。

わたしは舞台の上を流れた。

その瞬間、またあの懐かしさが来た。

どうして?

どうして、わたしはここを知っている気がするんだろう。

わたしは風なのに。

どこにでもいて、どこにも残らないはずなのに。

この地下の匂い。

この舞台の木の熱。

消えた拍手。

照明が落ちた後の闇。

それが、なぜか懐かしい。

階段の女も、回り舞台の男も、きっと同じ。

信号機も。

ベンチも。

109も。

マンホールも。

交番も。

ネズミも。

チケット売り場の女も。

みんな、自分では気づいていない。

ただの物。

ただの場所。

ただの風。

ただのネズミ。

そう思っている。

でも、何かを覚えている。

理由の分からない痛み。

説明できない懐かしさ。

誰かを見た時に胸が鳴る感覚。

人間の涙に反応してしまうこと。

拍手を懐かしいと思うこと。

誰かを送り出したくなること。

もしかしたら。

わたしたちは、前にもどこかで会っていたのかもしれない。

別の形で。

別の名前で。

別の街で。

あるいは、人間として。

でも、それを知る必要はないのかもしれない。

知ってしまった瞬間に、また次の問いが来るから。

なぜ知ったのか。

なぜ思い出したのか。

なぜ今なのか。

答えはない。

ただ、意味はある。

わたしは地下から地上へ戻った。

夜は深くなっていた。

道玄坂にはまだ人がいる。

飲みに行く人。

駅へ向かう人。

誰かを待つ人。

誰かから逃げる人。

わたしは交差点の方へ流れる。

そこで、赤い髪の青年を見つけた。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうなブーツ。

でも、初めて会った時とは少し違った。

ほんの少しだけ。

他の人には分からないかもしれない。

でも、わたしには分かった。

彼の歩き方が変わっていた。

足元の重さが変わっていた。

顔を上げる時間が少しだけ長くなっていた。

彼は交差点の手前で立ち止まった。

信号機が赤になった。

人が止まる。

彼も止まる。

でも、それはただ信号に従っているだけではないように見えた。

彼は、自分で止まっていた。

そして青になった。

人が流れる。

彼はすぐには歩かなかった。

まただ。

彼はいつも少し遅れる。

でも今度の遅れ方は違った。

迷っているだけではなかった。

自分の中の青を待っているようだった。

わたしは彼の髪を揺らした。

最初に会った時と同じように。

赤い髪がふわっと揺れる。

彼は目を閉じた。

そして、少しだけ笑った。

本当に少しだけ。

誰も気づかないくらい。

でも、わたしは見た。

彼は歩き出した。

人混みの中へ。

浮いているようで、浮いていない。

寂しいようで、少し強い。

変わったのかもしれない。

何も変わっていないのかもしれない。

でも、わたしは思った。

この街は、人をほんの少しだけ変える。

大きな奇跡なんて起こさない。

運命を派手に変えるわけでもない。

ただ、髪を揺らすくらいに。

息を整えるくらいに。

足音を少し変えるくらいに。

人の中の何かを、ほんの少しだけ動かす。

それで十分なのかもしれない。

夜の渋谷が広がっている。

信号機は光っている。

ベンチは誰かを支えている。

109はまだ街の記憶を抱えている。

マンホールの下では水が流れている。

交番の窓は開いている。

ネズミは裏路地を走っている。

チケット売り場の女は窓を閉める。

階段は静かに次の足音を待っている。

回り舞台は闇の中で、次の閃光を待っている。

みんな、そこにいる。

誰も、自分が何者だったのか知らない。

誰も、自分が何者になるのか知らない。

でも、今そこにいる。

この街の一部として。

この瞬間の色として。

わたしはその間を流れる。

見えない。

名前もない。

つかまえられない。

でも、いる。

誰かの髪を揺らしながら。

誰かの涙を少し乾かしながら。

誰かのため息を遠くへ運びながら。

誰かの香水を、別の誰かの記憶へ届けながら。

誰かの背中を、ほんの少しだけ押しながら。

わたしは、ずっとそばにいた。

第1話で、わたしはこの街を不思議だと思った。

浮いている人ばかりなのに、誰も浮いていない。

その理由が分からなかった。

今も、完全には分からない。

でも少しだけ思う。

この街には、見えないものがたくさんいる。

人を止める信号機。

背中を支えるベンチ。

憧れを映す109。

地下を守るマンホール。

迷子を受け止める交番。

夜を知るネズミ。

地下へ送る窓口。

足音を受ける階段。

閃光へ回す舞台。

そして、風。

誰も全部を知らない。

でもそれぞれが、誰かのそばにいる。

だから人間は、完全にはひとりにならないのかもしれない。

たとえ本人が、ひとりだと思っていても。

たとえ誰にも見られていないと思っていても。

たとえ誰にも助けを求められなくても。

街は、どこかで見ている。

物も、場所も、光も、闇も、風も。

それぞれのやり方で。

優しさとは限らない。

助けとは限らない。

ただ見ているだけかもしれない。

ただ支えているだけかもしれない。

ただ流れているだけかもしれない。

でも、その「ただ」が集まって、街になる。

人間も同じだ。

ただ歩く。

ただ笑う。

ただ待つ。

ただ泣く。

ただ降りる。

ただ戻る。

ただ生きる。

その全部に意味があるのかもしれない。

答えはない。

わたしは知らない。

誰も知らない。

でも、知らなくても意味はある。

分からなくても、そこにある。

名前をつけた瞬間に、こぼれてしまうものがある。

答えを出した瞬間に、終わってしまうものがある。

だから、分からないままでいい。

わたしは渋谷の上へ上がっていく。

ビルの隙間を抜ける。

ネオンが下に広がる。

スクランブル交差点が小さくなる。

道玄坂が曲がって見える。

109が光る。

センター街が揺れる。

地下の劇場は見えない。

でも、そこにある。

見えなくても、ある。

聞こえなくても、残っている。

誰かが今日、そこで何かを見た。

誰かが今日、そこで少し変わった。

誰かが今日、そこで何も変わらなかった。

その全部が、この街の一部になる。

わたしはまた流れていく。

別の街へ。

別の夜へ。

別の誰かの髪へ。

でも、きっとまた戻ってくる。

渋谷には、まだわたしの知らない風が吹いているから。

そして、もし誰かが。

この街のどこかで。

交差点で。

ベンチで。

109の前で。

センター街の足元で。

交番の窓の前で。

裏路地で。

道玄坂の古い入口で。

地下へ降りる階段で。

重い扉の前で。

あるいは、誰にも言えない夜の途中で。

ふと、髪が揺れたなら。

それはたぶん、わたしだ。

泣いているなら、涙を少しだけ乾かす。

迷っているなら、背中をほんの少しだけ押す。

立ち止まっているなら、頬をそっと撫でる。

笑っているなら、その笑い声を少し遠くへ運ぶ。

誰も気づかなくていい。

それでいい。

わたしは風だから。

名前なんてなくていい。

答えなんてなくていい。

ただ、そばにいる。

その風は、いつもそばにいる。


街は静かに息を吐く。


そして物語は、次の街へ流れていく。


── 渋谷編 完 ──


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