表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/9

第八話 渋谷編 紙切れの向こう側

私は、人を地下へ送る。

そう言うと、ずいぶん大げさに聞こえるかもしれない。

別に私は船頭じゃない。

駅員でもない。

ましてや、あの世への案内人でもない。

私はただ、古い建物の一階にある、小さなチケット売り場だ。

ガラス一枚の向こう側で、客から金を受け取り、紙切れを渡す。

それだけ。

だけどね。

それだけのことを何十年も続けていると、人間の顔というものが少しは分かるようになる。

私は道頓堀劇場のチケット売り場。

人間で言えば、六十五歳くらいの女だろうね。

若い頃は、まあ、それなりに綺麗だったと思う。

今だって、そう悪くはない。

口紅は引く。

眉も描く。

少しくたびれてはいるけれど、目だけはまだ死んでいない。

窓口に座る女の目は、死んだら終わりだ。

金だけを見ていたら駄目。

チケットだけを見ていても駄目。

見るべきなのは、手だ。

目だ。

声だ。

財布を開ける時の迷いだ。

足元だ。

地下へ降りる前、人間は少しだけ本音を出す。

ここは古い建物だ。

新しい劇場のような明るさはない。

外から見れば、何の店か分からずに通り過ぎる人間もいる。

渋谷駅から道玄坂を上がり、途中を右へ折れて少し入ったところ。

ほんの二十メートルほどなのに、表通りのざわめきが少し遠くなる。

その右側に、私がいる。

一階にチケット売り場と入口。

チケットを買い、入口で渡し、そこから地下へ降りる。

客も。

踊り子も。

芸人も。

スタッフも。

たぶん、みんな同じ入口を通る。

偉そうな客も、初めて来た若者も、売れっ子の踊り子も、駆け出しの芸人も、照明係も、掃除の人も、同じ階段を降りる。

そこがいい。

地上にはいろいろな差がある。

金がある人間。

名前がある人間。

若い人間。

老いた人間。

見られる人間。

見るだけの人間。

だけど地下へ降りる時、みんな一度だけ同じ動線になる。

一枚の紙切れを持って。

料金は四千円。

時間によっては三千円。

最終回になると安くなる。

人によっては高いと言う。

人によっては安いと言う。

私は、そのどちらも少しおかしいと思っている。

値段なんて、買うものによって意味が変わる。

四千円で酒を飲めばすぐ消える。

四千円の服は安物かもしれない。

四千円の本は少し高い。

四千円の舞台は、安いとも高いとも言える。

でもここで売っているのは、ただ裸を見る時間ではない。

もちろん、そう思って来る客も多い。

それは否定しない。

人間の欲なんて、きれいな言葉で隠しても仕方がない。

けれど、地下へ降りたあとに人間が見るものは、欲だけでは済まない。

踊り子の背中。

スポットライト。

手拍子。

沈黙。

緊張。

拍手。

古い床の匂い。

四ステージ。

一日に四回。

一ステージにだいたい五人の踊り子が出る。

それを四回。

最後が終わるのは二十二時半。

閉館して外へ出ても、まだ飲む時間はある。

渋谷の夜は、そのくらいでは終わらない。

むしろ、地上へ戻ってからが本番みたいな顔をする客もいる。

私はその顔も見てきた。

入る時の顔と、出る時の顔。

人間はそこが面白い。

同じ階段を降りて、同じ階段を上がってくるだけなのに、顔が少し変わっている。

私はここへ来た客を何十年も見てきた。

初めて来る男はすぐ分かる。

入口の前で立ち止まる。

看板を見る。

料金を見る。

一度通り過ぎるふりをする。

そして戻ってくる。

財布を出す手が少し遅い。

「一枚」

声が小さい。

私は言う。

「はいよ」

それ以上は聞かない。

人間には、初めての場所へ入る時の顔がある。

映画館なら堂々としている。

居酒屋なら平気なふりをする。

でもここは少し違う。

恥ずかしさと好奇心と、少しの後ろめたさが混ざる。

その顔は、何十年経っても変わらない。

昔は煙草の匂いが強かった。

客の服にも、髪にも、財布にも、煙草が染みついていた。

昭和の終わり頃の男たちは、今よりも雑だった。

金の出し方も雑。

言葉も雑。

でも、妙に照れ屋だった。

「一枚くれ」

そう言いながら、私と目を合わせない。

バブルの頃は、少し違った。

羽振りのいい男たちが来た。

高そうなスーツ。

太い時計。

香水。

女連れ。

自分は何でも知っているような顔をしている。

そういう男に限って、地下へ降りる前に少し顔が硬くなる。

私はそれを見るのが少し好きだった。

地上で偉そうな男ほど、階段の前では少しだけ人間に戻る。

踊り子たちも見てきた。

昼過ぎになると、キャリーケースを引いた女の子がやって来る。

化粧前の顔。

舞台ではなく、地上の顔。

眠そうな子。

不機嫌な子。

よく喋る子。

黙っている子。

新人は分かる。

足が少し遅い。

入口をくぐる時、わずかに息を止める。

平気なふりをしている。

けれど、平気なふりをしている時点で平気ではない。

ある新人の子がいた。

二十歳くらいだった。

地方から出てきたばかり。

大きすぎるバッグを持っていた。

私の前で立ち止まって、

「おはようございます」

と小さく言った。

私は聞いた。

「初日?」

彼女は頷いた。

私は言った。

「逃げるなら今だよ」

彼女は笑った。

泣きそうな顔で笑った。

半年後、その子は笑うようになった。

一年後、常連がついた。

三年後、名前が知られるようになった。

五年後、引退した。

最後の日、彼女は私の窓口の前で立ち止まった。

「ありがとうございました」

そう言った。

私は言った。

「あんた、よく頑張ったね」

それだけ。

地下へ降りる最初の背中と、最後に上がってくる背中は違う。

人間は、自分がどれだけ変わったか気づいていないことが多い。

けれど私は見ている。

ある踊り子は、最初から強かった。

客の視線を怖がらなかった。

むしろ、視線を食べるような女だった。

ああいう子は舞台向きだ。

でも、強い女が壊れないわけではない。

彼女はある夜、階段を降りる前に私の窓口の横で立ち止まった。

「今日、足が震える」

そう言った。

私は言った。

「震えてても、足は足だよ」

彼女は笑った。

その日も舞台に立った。

見事だったらしい。

私は中を見られない。

でも客の出てくる顔で分かる。

いい舞台だった日は、客の目が少し静かになる。

ただ興奮しているだけではない。

何かを見てしまった顔になる。

芸人も見てきた。

あれは厳しかった。

客は裸を見に来ている。

踊り子を待っている。

その前に、若い芸人が立つ。

まだ名前もない。

売れてもいない。

客に歓迎されているわけでもない。

むしろ、早く終われと思われている。

その空気の中で、芸をする。

声を張る。

滑る。

野次が飛ぶ。

ブーイングが出る。

ある若い芸人は、降りていく時より、上がってきた時の方がずっと小さく見えた。

目が赤かった。

「もう無理です」

そう言った。

私は言った。

「そう」

翌週、また来た。

その次も来た。

半年後も来た。

何年か後、テレビに出た。

常連が教えてくれた。

「あの時の兄ちゃん、売れたよ」

私は言った。

「そう」

それだけ。

嬉しくなかったわけではない。

でも、売れた人間だけを特別扱いするのは違う。

同じように滑って、同じように消えた芸人も何人もいる。

売れた芸人も、消えた芸人も、最初は同じ階段を降りた。

同じように汗をかき、同じように客席を怖がった。

そこに意味がある。

別の芸人は、二度と来なかった。

一度だけ来て、野次を浴びて、上がってきて、私の前で財布を開けた。

何かを探していた。

たぶん、帰りの電車賃だったのだろう。

小銭が足りなかった。

その時、踊り子の一人が後ろから来て、何も言わずに小銭を渡した。

芸人は頭を下げた。

踊り子は言った。

「次、笑わせな」

優しい女だった。

逆の女もいた。

若い芸人が震えている横で、

「向いてないなら辞めれば」

と言った踊り子もいた。

冷たいと思うかもしれない。

でも、それも間違いとは言い切れない。

舞台は優しさだけでは立てない。

優しい踊り子もいた。

冷たい踊り子もいた。

どちらも舞台で生きていた。

私はどちらも見てきた。

常連客もいる。

昔、二十代だった男が、今は七十を越えている。

最初は落ち着きがなかった。

入口でにやけていた。

今は「一枚」とだけ言う。

声も小さい。

足も少し悪い。

でも来る。

雨の日も。

暑い日も。

年末も。

私は聞かない。

家族がいるのか。

いないのか。

妻に先立たれたのか。

独身なのか。

誰にも言えない楽しみなのか。

私は聞かない。

ただチケットを渡す。

彼は受け取る。

それだけの関係が、何十年も続くことがある。

ある日、その常連が来なくなった。

一週間。

一ヶ月。

半年。

もう来ないのだろうと思った。

一年後、若い男が来た。

「祖父がここによく来ていたみたいで」

そう言った。

私は何も言わなかった。

その若い男は、一枚買って地下へ降りた。

上がってきた時、少し困ったように笑っていた。

「じいちゃん、こういうところ来てたんですね」

私は言った。

「人間には、家族に言わない顔があるんだよ」

男は少し黙って、それから頭を下げた。

私はその背中を見送った。

そういうこともある。

チケット売り場は、家族の知らない時間を少しだけ預かっている。

夜になると、客の顔が変わる。

最終回。

割引の時間。

三千円。

この時間の客が私は好きだ。

仕事を終えた男。

一杯飲んでから来た男。

飲む前に来た男。

一人で来る若者。

少し疲れた会社員。

誰かと喧嘩した後の人。

失恋した人。

ただ、どこにも行き場所がない人。

最終回の客は、昼の客より少しだけ寂しい。

だからいい。

人間の寂しさは、悪いものばかりじゃない。

寂しいからこそ、人は何かを見に行く。

誰かの身体。

誰かの芸。

誰かの拍手。

誰かの人生。

それを借りて、自分の夜を越す。

二十二時半。

最後のステージが終わる。

客が上がってくる。

この時間が一番好きだ。

入る時と違う顔。

少し赤くなった顔。

黙った顔。

笑っている顔。

考え込んでいる顔。

常連同士で話す顔。

すぐ飲みに行く顔。

急いで駅へ向かう顔。

渋谷の夜はまだ終わらない。

閉館後でも、十分に飲む時間がある。

むしろ、地下で何かを見た後に飲む酒は、少し味が変わるのだろう。

私は外へ出ていく客たちを見送る。

店の灯り。

道玄坂の空気。

飲み屋の呼び込み。

タクシー。

若者の声。

地下の時間を抱えたまま、彼らは地上の夜へ戻っていく。

ある夜、赤い髪の若者が来た。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうな靴。

まだ若い。

けれど、若いだけではない顔をしていた。

何かを探している。

誰かではなく、何か。

そんな顔だった。

「一枚」

声は小さくなかった。

でも、少し疲れていた。

「最終回?」

「はい」

私は三千円を受け取った。

彼の指は冷たそうだった。

チケットを渡す。

彼はそれを見た。

ただの紙切れだ。

でも人間は、紙切れひとつで別の場所へ行ける。

電車の切符。

映画のチケット。

ライブの半券。

そして、ここへ降りる紙切れ。

私は言った。

「階段、足元気をつけな」

彼は少しだけ私を見た。

驚いたような顔だった。

「ありがとうございます」

そう言った。

私はそれ以上何も言わなかった。

言いすぎる窓口は嫌われる。

彼は入口でチケットを渡し、地下へ降りていった。

その背中を見ながら思った。

ああいう子は、昔からいる。

自分がどこへ行きたいのか分からないまま、どこかへ降りていく子。

地下が答えをくれるわけではない。

舞台が人生を変えるわけでもない。

けれど、何かを見ることで、少しだけ息ができる夜がある。

私はそれを知っている。

私の仕事は、チケットを売ることじゃない。

人間を地下へ送ることだ。

四千円や三千円の向こう側へ。

踊り子の汗。

芸人の震え。

客席の沈黙。

拍手。

スポットライト。

昭和から続く匂い。

そこへ送る。

そして、戻ってきた顔を見る。

赤い髪の若者は、最後の回が終わると上がってきた。

来た時より、少しだけ静かな顔をしていた。

楽しかったのか。

悲しかったのか。

何かを思い出したのか。

何かを置いてきたのか。

分からない。

でも足取りは少し変わっていた。

軽くなったわけではない。

重さの種類が変わっていた。

彼は私の前を通り過ぎる時、小さく頭を下げた。

私は頷いた。

それだけ。

人間は、全部を言葉にする必要はない。

地上へ出れば、まだ夜がある。

飲みに行くこともできる。

一人で歩くこともできる。

誰かに電話することもできる。

そのまま帰ることもできる。

どれでもいい。

地下へ降りた人間は、地上へ戻ったあと、自分の夜を選べばいい。

私は窓口の灯りを落とす。

今日もたくさんの人間を見た。

初めての客。

常連。

踊り子。

芸人。

スタッフ。

迷っている人。

慣れている人。

震えている人。

平気なふりをしている人。

みんな同じ入口から入り、同じ階段を降りた。

ここから先は、もう私の仕事じゃない。

階段の仕事だ。

重い観音開きの扉の仕事だ。

そして、その奥で回り続ける舞台の仕事だ。

私はただ、紙切れを渡す。

けれど、その紙切れの向こう側には、人間の別の顔がある。

欲。

夢。

挫折。

拍手。

裸。

芸。

笑い。

沈黙。

優しさ。

冷たさ。

そして、説明できない何か。

私はそれを何十年も見送ってきた。

人間って、本当に面白い。

たった一枚の紙切れで、顔が変わる。

たった数段の階段で、空気が変わる。

たった一つの舞台で、人生の見え方が少し変わる。

だから私は明日も窓を開ける。

口紅を引いて。

眉を描いて。

少し無愛想な顔をして。

「一枚」

そう言う誰かに、また紙切れを渡す。

そして心の中でだけ、こう言う。

行っといで。

ここから先は、地上とは違うよ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ