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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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7/9

第七話 渋谷編 夜の住人

俺はネズミだ。

渋谷に住んでいる。

センター街の裏、飲食店の排気口の下、ビルとビルの隙間、ゴミ袋の陰、マンホールの近く。

そういうところを走っている。

人間たちは俺たちを嫌う。

見つけると声を上げる。

気持ち悪いだの、汚いだの、怖いだの、勝手なことを言う。

まあ、別にいい。

俺だって人間が好きかと言われたら、素直に好きとは言わない。

うるさい。

でかい。

鈍い。

すぐ酔う。

すぐ泣く。

すぐ怒る。

食い散らかす。

落とす。

捨てる。

そのくせ、俺たちを見つけると被害者みたいな顔をする。

おいおい。

お前らが残したもので、俺たちは生きてるんだぜ。

それなのに、俺たちだけ悪者みたいにするのは、ちょっと都合がよすぎるんじゃないか。

俺はそう思っている。

人間で言うなら三十五歳くらい。

若くはない。

でも、まだ走れる。

まだ噛める。

まだ夜の渋谷を知った顔で歩ける。

若いネズミたちは俺を少し尊敬している。

いや、たぶんしている。

少なくとも、俺の前ではそういう顔をする。

「兄貴、この辺りは危ないですか?」

なんて聞いてくる。

俺は鼻で笑う。

「危ないに決まってるだろ。ここは渋谷だぞ」

そう言うと、若い奴らは感心したように頷く。

分かってないな、と思う。

でも、その分かってない感じも悪くない。

若いっていうのは、危ないものをまだ危ないと知らないことだ。

人間も同じだろ。

昼間の俺は、あまり動かない。

人間が多すぎるからだ。

あいつらは昼になると、自分たちの街みたいな顔で歩く。

大きな声で笑う。

道の真ん中で写真を撮る。

スマートフォンを見ながら歩く。

急に立ち止まる。

こっちからすれば、迷惑な生き物だ。

あんなに大きな身体をしているのに、足元をまったく見ない。

俺たちがいることにも気づかない。

タバコの吸い殻。

落ちたポテト。

踏み潰された紙コップ。

割れたピアス。

口紅のついた紙ナプキン。

俺たちは、そういうものの間を走る。

人間が見落としたものの中に、俺たちの暮らしがある。

夕方になると、街の匂いが変わる。

油。

酒。

香水。

雨の残り。

人間の汗。

排気ガス。

ゴミ袋。

俺はその時間が好きだ。

昼の渋谷が終わり、夜の渋谷が始まる。

人間たちは気づいていない。

でも、俺たちは知っている。

夜になると、この街の主役は少し変わる。

人間は相変わらず多い。

でも、昼のような強さはない。

少しずつ崩れていく。

仕事帰りの男がネクタイを緩める。

女の子が駅前で化粧を直す。

ホストみたいな男が髪を触る。

友達同士の笑い声が大きくなる。

酔った男が歩道の端に座る。

誰かが電話で泣く。

誰かが誰かを待つ。

誰かが誰かを諦める。

夜は人間を少し裸にする。

服を脱ぐという意味じゃない。

まあ、そういう場所もこの街にはあるけどな。

俺が言っているのは、もっと中の話だ。

昼間の人間は、何かのふりをしている。

会社員のふり。

学生のふり。

恋人のふり。

大丈夫なふり。

強いふり。

分かっているふり。

でも夜になると、そのふりが少しずつ剥がれる。

俺たちはそれを見る。

上からじゃない。

下から見る。

地面の近くから見る。

だからよく分かる。

人間は、顔より足に本音が出る。

泣いていない顔でも、足が泣いていることがある。

笑っている声でも、靴が逃げたがっていることがある。

俺はそういう人間を見るのが嫌いじゃない。

人間を馬鹿にしているようで、実は少し羨ましいのかもしれない。

あいつらは、何度でも顔を変えられる。

昼の顔。

夜の顔。

人前の顔。

ひとりの顔。

俺たちネズミはそこまで器用じゃない。

腹が減れば探す。

危なければ逃げる。

眠ければ隠れる。

好きなら近づく。

嫌なら噛む。

単純だ。

人間は複雑すぎる。

だから面白い。

俺の祖父は、昔の渋谷を知っていたらしい。

もっと空が広かった頃。

今ほど高いビルがなかった頃。

ゴミの匂いも、今とは違ったらしい。

親父はチーマーの時代を見たと言っていた。

肩を揺らして歩く若者たち。

強がり。

喧嘩。

夜中の笑い声。

親父はよく言っていた。

「人間の若いオスは、だいたい馬鹿だ」

俺は聞いていた。

今でもそう思う。

でも、馬鹿な若いオスが年を取って、警察官になったり、社長になったり、父親になったりする。

それもこの街だ。

俺が見ているのは、スマートフォンの時代だ。

人間たちは、手の中の光をずっと見ている。

目の前の人間より、画面の中の誰かを見ている。

センター街を歩きながら、別の街を見ている。

変な生き物だ。

でも、画面の中にしか逃げ場がない夜もあるのだろう。

俺はそこまで馬鹿にはしない。

いや、少しはする。

けれど、分からないわけじゃない。

ある夜、黒いワンピースの女がいた。

高いヒール。

きれいな髪。

強そうな歩き方。

毎週金曜日に現れる女だった。

男と歩いていることもあれば、ひとりのこともあった。

俺は彼女の足音を覚えていた。

強い女の足音だ。

ところが、ある夜、彼女は路地裏でしゃがみこんでいた。

靴を片方脱いでいた。

化粧が崩れていた。

電話を握りしめて、小さく笑っていた。

笑っているのに、泣いているみたいだった。

「終わったなぁ」

そう言った。

恋が終わったのか。

仕事が終わったのか。

自分の中の何かが終わったのか。

俺には分からない。

でも、その足音はその夜から変わった。

しばらく見なかった。

一年くらいして、昼間に似た歩き方の女を見た。

スニーカーだった。

手には小さな子供の手。

あの女かもしれない。

違うかもしれない。

でも俺は思った。

人間は靴を変えても、歩き方の奥に昔が残る。

赤い髪の若者を見たのは、そんな夜の少し後だった。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうなブーツ。

最初に見た時は、正直ちょっと笑った。

人間って、わざわざ目立つ格好をするんだな。

俺たちだったら絶対にやらない。

派手な色なんかしていたら、すぐ見つかる。

見つかれば終わりだ。

でも人間は違う。

見つけてほしい。

でも見つかりたくない。

覚えてほしい。

でも踏み込まれたくない。

面倒くさい。

本当に面倒くさい。

その赤い髪の若者は、よく立ち止まった。

スマートフォンを見る。

消す。

また見る。

少し歩く。

また止まる。

俺は排気ダクトの下から見ていた。

「何やってんだ、あいつ」

若いネズミが聞いた。

「待ってんだろ」

俺は言った。

「何をですか?」

「知らねえよ。人間はな、何を待ってるのか自分でも分かってない時があるんだ」

若いネズミは首を傾げた。

まあ、分からないだろう。

俺も本当は分からない。

ただ、何度も見てきた。

来ない相手を待つ人間。

来ない連絡を待つ人間。

終わったものの続きを待つ人間。

始まってもいない未来を待つ人間。

人間は待つのが好きだ。

いや、嫌いなのに待つ。

そこがまた面白い。

その夜、赤い髪の若者は壁にもたれてしゃがんだ。

俺と目線が近くなった。

人間がしゃがむ時だけ、俺たちと同じ高さになる。

俺は少し近づいた。

向こうも俺に気づいた。

たぶん。

目が合った気がした。

彼は驚かなかった。

普通の人間なら声を上げる。

逃げる。

汚いものを見る顔をする。

でも彼は、ただ俺を見た。

俺も見た。

「ああ」

俺は思った。

こいつも夜の住人だ。

昼の人間ではない。

夜を遊ぶ人間でもない。

夜に逃げる人間だ。

そういう人間は、俺たちに少し似ている。

明るい場所では落ち着かない。

人混みの中にいても、どこか隠れる場所を探している。

午前二時。

俺たちの時間。

店の裏口が開く。

酔っぱらいが減る。

タクシーを探す人間が増える。

始発を待つ人間が現れる。

ホストが歩く。

キャバ嬢が帰る。

清掃車が来る。

ゴミ袋が積まれる。

俺たちは走る。

その時間の渋谷が一番好きだ。

昼でも夜でもない。

終わった人間と、まだ終わりたくない人間が混ざっている。

ある若い男が電話で怒鳴っていた。

「もういいよ」

そう言った。

でも全然よくなさそうだった。

別の女の子は、友達に支えられて笑っていた。

片方のヒールを手に持っていた。

泣いていたのか、酔っていたのか、足が痛かったのか。

分からない。

人間の夜は、理由が混ざる。

酒のせい。

恋のせい。

仕事のせい。

孤独のせい。

全部が混ざって、本人にも分からなくなる。

若いネズミが聞いた。

「人間って幸せなんですか?」

俺は笑った。

「知らねえよ」

「でも毎日苦しそうです」

「そうだな」

「なのにまた来ます」

「そうだな」

「なんでです?」

俺は少し考えた。

そして言った。

「明日があると思ってるからだろ」

若いネズミは黙った。

俺たちにとって大事なのは今日だ。

今日、食えるか。

今日、逃げられるか。

今日、生きていられるか。

人間は違う。

明日を持っている。

明日会えるかもしれない。

明日変われるかもしれない。

明日許されるかもしれない。

明日売れるかもしれない。

明日好きになってもらえるかもしれない。

馬鹿みたいだ。

でも、少し羨ましい。

その夜、俺は少し調子が悪かった。

最初は気のせいだと思った。

ゴミ袋の上へ飛び乗った時、足が少し遅れた。

排気ダクトの隙間へ入る時、胸が重かった。

若いネズミが言った。

「兄貴、大丈夫ですか?」

「大丈夫に決まってるだろ」

俺は言った。

もちろん、大丈夫じゃなかった。

でもそう言うしかない。

人間もそうだろ。

大丈夫じゃない時ほど、大丈夫って言う。

俺も同じだ。

少し腹が痛かった。

何か変なものを食ったのかもしれない。

それとも、ただ寿命だったのかもしれない。

ネズミの一生は短い。

人間みたいに何十年も昔話はできない。

祖父の代、親父の代、俺の代。

それで街の記憶を繋ぐ。

俺自身が見てきた夜は、たぶん人間の感覚では短い。

でも俺には十分長かった。

チーマーの残り香。

ガングロの話。

スマホの光。

ハロウィンのゴミ。

コロナで静かになった夜。

人が戻ってきた時の匂い。

宇田川交番の灯り。

109の疲れた白い肌。

マンホールの隙間から上がる湿った空気。

道玄坂の古い入口。

そして赤い髪の若者。

全部見た。

それで十分じゃないか。

そう思いたかった。

明け方が近づいた。

空が少し白くなった。

俺はセンター街の端を走っていた。

いや、走っていたつもりだった。

足がもつれた。

視界が低くなった。

もともと低い視界が、もっと低くなった。

人間の足音が遠く聞こえた。

清掃員の箒の音。

缶が転がる音。

誰かの笑い声。

始発へ向かう足。

俺は壁際に行こうとした。

見つからない場所へ。

でも身体が動かなかった。

「おいおい」

俺は自分に言った。

「こんなところで寝るのかよ」

情けない。

あれだけ若いネズミたちに偉そうにしてきたのに。

ここは危ない。

人間の前に出るな。

明るくなる前に隠れろ。

そう教えてきた俺が、明るいセンター街の舗装の上で動けなくなっている。

笑える。

いや、笑えない。

でも、俺らしいのかもしれない。

最後までちょっと間抜けだ。

その時、風が吹いた。

弱い風だった。

朝の風。

夜を終わらせる風。

俺の髭を少し揺らした。

懐かしい感じがした。

なぜだろう。

俺は風なんか嫌いだった。

匂いを散らす。

気配を変える。

危険を運ぶ。

でもその風は、嫌ではなかった。

どこかで会ったことがある気がした。

そんなわけないのに。

俺は目を閉じた。

閉じたつもりだった。

次に気づいた時、俺は見ていた。

センター街の舗装の上。

一匹のネズミが横たわっている。

灰色の毛。

長いしっぽ。

少し欠けた耳。

見覚えがあった。

「……おい」

俺は言った。

声は出なかった。

いや、声というものが自分にあるのかどうかも分からなかった。

俺は近づこうとした。

でも足がない。

身体がない。

走れない。

匂いも薄い。

世界が少し遠い。

人間たちが通り過ぎる。

誰も立ち止まらない。

一人だけ、少し目を向けた。

でもすぐ歩いていった。

昼の渋谷は忙しい。

一匹のネズミの死に、立ち止まるほど暇じゃない。

俺は腹が立った。

「おい、人間」

そう言いたかった。

「そいつはな、夜の渋谷を知ってたんだぞ」

「お前らが酔って泣いてるところも、喧嘩してるところも、誰かを待ってるところも、全部見てたんだぞ」

「ちょっとくらい立ち止まれよ」

でも、誰も聞かない。

当たり前だ。

ネズミの声なんて、人間には聞こえない。

ましてや、死んだネズミの声なんて。

俺は横たわる自分を見ていた。

変な感じだった。

かわいそうだとは思わなかった。

美しいとも思わなかった。

ただ、侘しかった。

あんなに夜を知っていたのに。

あんなに偉そうにしていたのに。

朝になると、ただの小さな死骸だ。

名前もない。

墓もない。

誰にも語られない。

でも、不思議と怒りは長く続かなかった。

風がまた吹いた。

俺のない髭を、揺らした気がした。

その風は、さっきより少しだけあたたかかった。

「なんだよ」

俺は言った。

「笑ってんのか?」

風は答えない。

でも、なぜか分かった。

終わりじゃない。

そんな気がした。

俺は自分の死骸を見ている。

でも俺は、ここにいる。

ここにいるのか。

それとも、もう別のどこかに向かっているのか。

分からない。

その時、ほんの一瞬だけ、知らない景色が見えた。

交番の窓の明かり。

109の白い壁。

マンホールの暗い下。

地下へ降りる階段。

回り舞台の閃光。

そして、どこか別の街の夜。

新宿。

名前だけが浮かんだ。

なぜ知っているのか分からない。

俺は渋谷のネズミだ。

新宿なんか知らない。

いや、知っているのかもしれない。

昔。

もっと前。

別の姿で。

別の名前で。

誰かだった頃。

でも思い出せない。

思い出せないのに、懐かしい。

俺は急に怖くなった。

「おい」

俺は風に言った。

「俺、どこ行くんだよ」

もちろん返事はない。

ただ、センター街を朝の風が流れていく。

人間の足元を抜ける。

109の方へ向かう。

交番の旗を揺らす。

マンホールの隙間へ入る。

そしてまた戻ってくる。

その風は、いつもそばにいるような顔をしていた。

顔なんてないのに。

俺は笑った。

「なんだよ。お前、ずっと見てたのか」

そう思った。

夜中、赤い髪の若者と目が合った時も。

黒いワンピースの女が泣いていた時も。

若いネズミに偉そうに説教した時も。

俺が倒れた時も。

その風は、きっと近くにいた。

誰にも見えない。

誰にも気づかれない。

でも、いた。

俺の横たわる身体のそばを、人間たちは歩いていく。

昼の渋谷が始まる。

女の子たちが笑う。

会社員が急ぐ。

観光客が写真を撮る。

誰かが空を見上げる。

誰かが下を向く。

誰も俺の名前を知らない。

でも、それでいいのかもしれない。

俺は確かにここを走った。

夜の渋谷を知っていた。

人間の泣き顔を見た。

嘘を見た。

寂しさを見た。

明日を信じる馬鹿みたいな強さを見た。

それで十分じゃないか。

少なくとも、俺は退屈しなかった。

風がまた吹いた。

今度は少し強かった。

俺の意識が軽くなる。

センター街が遠くなる。

横たわる身体が、小さくなる。

俺はまだ少し文句を言いたかった。

若いネズミたちに言い残したこともある。

赤い髪の若者にも、もう一度くらい会ってやってもよかった。

人間の馬鹿さを、もう少し観察していたかった。

でも、仕方ない。

夜はいつか終わる。

夜の住人にも、朝は来る。

俺は最後に、横たわる自分へ言った。

「まあ、悪くなかったよな」

誰にも聞こえない。

でも、それでよかった。

次に目を覚ます時、俺が何になるのかは分からない。

風かもしれない。

街灯かもしれない。

新宿の古い看板かもしれない。

歌舞伎町の路地裏に転がる空き瓶かもしれない。

誰かの靴音を聞く地下道かもしれない。

またネズミかもしれない。

人間かもしれない。

分からない。

でも、もし次の俺がどこかの街で誰かを見ているなら。

人間を馬鹿にしながらも、少し好きになってしまうなら。

夜になると妙に元気になるなら。

それはきっと、今の俺が残っているのだろう。

俺はネズミだ。

いや、ネズミだった。

渋谷の夜の住人だった。

人間を馬鹿にしていた。

でも、嫌いじゃなかった。

お前らは弱い。

嘘つきだ。

寂しがりだ。

酔うし、泣くし、すぐ迷う。

でも、明日を信じる。

それが少し羨ましかった。

朝のセンター街に、もう一度風が吹く。

小さな身体の毛が、ほんの少し揺れた。

誰も気づかない。

でも、たしかに揺れた。

俺はそれを見ていた。

そして、笑った。

「じゃあな、渋谷」

その声は、風に混ざった。

どこへ運ばれたのかは、知らない。

けれど、たぶん。

次の街のどこかで。

俺はまた、誰かの夜を見る。


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