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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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6/9

第六話 渋谷編 夜を知る女

私は、眠らない。

そう言うと少し大げさに聞こえるかもしれない。

けれど、少なくとも人間のようには眠らない。

朝になっても。

昼になっても。

夕方になっても。

夜になっても。

深夜になっても。

私の窓には、どこかしら明かりが残っている。

誰かが道を聞きに来る。

誰かが落とし物を届けに来る。

誰かが財布をなくしたと言って入って来る。

誰かが怒鳴りながら連れて来られる。

誰かが泣きながら助けを求める。

誰かが何も言えないまま、ただ座っている。

私は宇田川交番。

人間にたとえるなら、五十五歳くらいの女だと思う。

若くはない。

けれど、年寄りでもない。

少し口うるさい。

少し頑固。

正しさを信じている。

でも、正しさだけでは人間を救えないことも知っている。

それを知ってしまった女だ。

私は渋谷のすべてを見ているわけではない。

スクランブル交差点の信号機ほど、多くの人間を見ているわけではない。

風のように自由に動けるわけでもない。

マンホールのように地下を知っているわけでもない。

109のように女の子たちの憧れを抱えているわけでもない。

けれど私は、渋谷で人間が少し壊れそうになる瞬間をよく知っている。

交番に来る人間は、たいてい何かが足りなくなっている。

道が分からない。

財布がない。

スマートフォンがない。

友達がいない。

帰り方が分からない。

帰る場所が分からない。

自分が何をしたのか分からない。

自分がどうしたいのか分からない。

人間は、何かを失った時に私の窓を叩く。

だから私は、華やかな渋谷よりも、その華やかさの裏側にある震えをよく知っている。

昼の私は、道案内をする女だ。

観光客が来る。

外国語が飛び交う。

スマートフォンの画面を見せられる。

ホテルはどこか。

駅はどこか。

ライブハウスはどこか。

クラブはどこか。

この店はどこか。

あのビルはどこか。

言葉が通じなくても、迷子の顔はどこの国でも同じだ。

眉が少し下がる。

口元だけが笑う。

申し訳なさそうに画面を差し出す。

私はそれを見るたびに思う。

人間は、知らない街に来ると少しだけ子供に戻る。

世界中から来た人間が、私の前で同じ顔をする。

渋谷を知っているつもりで来た人たち。

動画で見た街。

映画で見た街。

スクランブル交差点。

大型ビジョン。

人混み。

ネオン。

でも、一本路地を間違えただけで、その街は急に知らない場所になる。

その時、人間は少しだけ不安になる。

そして私の窓を探す。

私はその不安を嫌いではない。

不安になるということは、自分が一人では生きられないと知ることだから。

昼過ぎになると、落とし物が増える。

財布。

スマートフォン。

イヤホン。

学生証。

社員証。

鍵。

誰かの大事なもの。

誰かにとっては、ただの物。

でも、失くした人間にとっては、その一日を壊してしまうもの。

若い女の子が来たことがある。

明るい髪。

短いスカート。

強そうなメイク。

「財布、なくしました」

そう言った。

声は平気そうだった。

でも手が震えていた。

警察官が優しく聞いた。

最後に使ったのはどこか。

中に何が入っていたか。

連絡先は分かるか。

帰れるか。

その子は何度も笑った。

「ほんと最悪」

そう言って笑った。

でも最後に、小さく言った。

「帰れない」

私はその声を覚えている。

財布をなくしたことより、帰れないことの方が怖かったのだ。

渋谷には、帰る場所がある人間がいる。

帰る場所があるのに帰れない人間がいる。

帰る場所そのものが曖昧な人間もいる。

私の窓には、その違いがよく現れる。

夕方になると、街の温度が変わる。

昼の観光地としての渋谷が、夜の入口へ向かい始める。

学生が増える。

仕事帰りの人が増える。

買い物帰りの女の子が増える。

待ち合わせが増える。

そして、トラブルの匂いも少しずつ濃くなる。

「変な人について来られた」

「友達とはぐれた」

「ナンパがしつこい」

そう言って入って来る女の子たちがいる。

強そうな服を着ている。

派手なメイクをしている。

でも窓口の前では、急に声が小さくなる。

渋谷では、強く見せることができる。

でも本当に怖い時、人間はちゃんと怖がる。

私はそれでいいと思っている。

怖いものを怖いと言える子は、まだ大丈夫だ。

問題は、怖いのに平気なふりをする子だ。

私はそういう子を何人も見てきた。

夜へ一人で入っていく子。

知らない男の車に乗る子。

友達に置いていかれたのに、笑っている子。

本当は帰りたいのに、帰りたいと言えない子。

私は動けない。

呼び止められない。

ただ、窓の中から見ている。

それがもどかしい夜がある。

そして私には、もうひとつ見えているものがある。

私の背中には、欲望の灯りがある。

昔からそうだ。

私のすぐ後ろに、男たちが入っていく場所がある。

派手な看板。

閉じたシャッター。

一見、昼間は静かだ。

けれど、夜になれば人間の別の顔がそこへ向かう。

この景色を、私は長い間見てきた。

正しさを守る私の背中に、欲望を受け止める場所がある。

最初の頃、私はそれが少し嫌だった。

なぜ私の背中なのだろう。

なぜこんなに近いのだろう。

秩序と欲望が、まるで背中合わせに立っている。

でも、長くここにいるうちに、私は考えを変えた。

人間は、正しさだけでは生きられない。

欲望だけでも生きられない。

その両方を持ったまま、毎日を何とか歩いている。

私に来る人間は、困っている。

迷っている。

壊れそうになっている。

あちらへ行く人間も、もしかしたら同じなのかもしれない。

寂しい。

触れたい。

忘れたい。

自分がまだ誰かに必要とされるか確かめたい。

ただ欲だけで来る男もいるだろう。

でも、欲だけで説明できない男もいる。

私はそれを、夜の顔で知っている。

正しさは、人間を裁くためだけにあるのではない。

迷った人間が戻れる場所としても必要なのだ。

それを教えてくれたのは、実は私の背中の欲望だったのかもしれない。

夜になる。

私は一番忙しくなる。

酒が入る。

声が大きくなる。

足元が乱れる。

喧嘩が増える。

スマートフォンが消える。

財布が消える。

記憶も消える。

酔った若者が連れて来られる。

怒っている者。

泣いている者。

何も覚えていない者。

自分は悪くないと言い張る者。

黙ってうつむく者。

警察官たちは根気よく聞く。

名前。

住所。

誰と来たのか。

帰れるのか。

連絡できる相手はいるのか。

私はそのやり取りを何千回も聞いてきた。

若者たちは、自分だけが特別な夜を過ごしていると思っている。

でも、似たような夜は何度もある。

それでも、本人にとっては初めてなのだ。

初めて酔いつぶれた夜。

初めて殴られた夜。

初めて警察官に名前を聞かれた夜。

初めて、自分が思っていたより弱いと知った夜。

その夜にも意味がある。

良い意味かどうかは分からない。

でも、人間はそういう夜を越えて変わることがある。

私は昔の若者たちを覚えている。

チーマーと呼ばれた子たち。

肩を揺らして歩いていた子たち。

警察官に反発していた子たち。

何度も私の前で注意された子もいた。

そのうちの一人が、何年も経って制服を着て戻ってきた。

警察官になっていた。

最初に見た時、私は少し驚いた。

彼はもう若くなかった。

でも目の奥に、昔の色が少し残っていた。

若者を注意する声は厳しかった。

けれど、その厳しさの奥に、かつて自分も向こう側にいた人間の温度があった。

人間は変わる。

本当に変わる。

悪かった子が、人を守る側へ回ることもある。

逆もある。

真面目だった子が、ある日突然、誰かを傷つける側へ行くこともある。

だから私は、人間を簡単には決めつけない。

交番である私が言うのも変かもしれないけれど、人間は白黒ではない。

補導された少年が、将来誰かを助けるかもしれない。

泣きながら助けを求めた少女が、いつか誰かの母になるかもしれない。

今日嘘をついた男が、明日、本当のことを言うかもしれない。

今日正しいことを言った女が、明日、誰かを裏切るかもしれない。

人間は動く。

色を変える。

そのたびに、私の窓の前を通る。

ハロウィンの夜は、特に大変だ。

魔女。

ゾンビ。

天使。

悪魔。

アニメの登場人物。

映画の悪役。

どこからどこまでが本当の顔なのか分からなくなる。

仮装した人間は、普段より大胆になる。

知らない者同士が抱き合う。

知らない者同士が喧嘩する。

ゴミが増える。

酒が増える。

警察官の声が増える。

私は思う。

人間は、別の顔になると、自分の中の境界線を少し越えてしまうのだろう。

でも、それを求めてこの街へ来るのかもしれない。

渋谷は、普段の自分から少し外れることを許してしまう。

それが魅力であり、怖さでもある。

ワールドカップの夜も覚えている。

歓声。

ユニフォーム。

旗。

交差点へ向かう人の波。

警察官たちは必死だった。

その中で、人々を言葉で落ち着かせた警察官がいた。

後に人間たちは彼をDJポリスと呼んだ。

私は少し誇らしかった。

交番という場所は、命令だけでは人を動かせない。

時には、言葉の温度が必要になる。

怒鳴ればいいわけではない。

押さえつければいいわけでもない。

人間は、意外と耳を持っている。

ちゃんと届く言葉なら、聞くことがある。

もちろん、聞かないことも多い。

それでも、言葉を諦めてはいけない。

私はそう思っている。

あの静かな春も忘れられない。

コロナの頃。

渋谷から人が消えた。

私の前も静かだった。

道を聞きに来る外国人もいない。

酔った若者もいない。

落とし物も少ない。

喧嘩も少ない。

一見すると、平和だった。

でも私は知っていた。

あれは平和ではなかった。

街が息を止めていただけだ。

人のいない渋谷は整っていた。

でも生きていなかった。

交番は、人が来て初めて交番になる。

困った人がいて、迷った人がいて、泣く人がいて、怒る人がいて、ようやく私には意味が生まれる。

誰も来ない窓口ほど、寂しいものはない。

赤い髪の若者を、私は何度か見ている。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうな靴。

彼は私の前を通る時、少しだけ歩く速度が変わる。

交番の前だからだろう。

人間は、何も悪いことをしていなくても、交番の前では少しだけ姿勢を正す。

それが少し面白い。

彼は悪い子には見えない。

いや、悪い子かどうかなど、見ただけでは分からない。

私はそれをよく知っている。

真面目そうな男が、とんでもないことをすることがある。

派手な若者が、落とし物を届けることもある。

優しそうな女が、平気で嘘をつくこともある。

酔って暴れた男が、翌朝になって泣きながら謝ることもある。

人間は見た目では決まらない。

だが、見た目に人生が滲むこともある。

赤い髪の彼は、誰かを待っているような足取りをしていた。

交番の前を通り過ぎ、少し先で立ち止まる。

スマートフォンを見る。

また歩く。

また止まる。

私は思った。

あの子は、まだ何かの途中にいる。

渋谷には、途中の人間が多い。

夢の途中。

恋の途中。

失恋の途中。

家出の途中。

上京の途中。

転落の途中。

再出発の途中。

完了した人間は少ない。

だからこの街は、いつも落ち着かない。

ある深夜、彼は私の前で立ち止まった。

雨は降っていなかった。

けれど、彼の足元はどこか濡れているように見えた。

心の話ではない。

本当にどこかで水たまりを踏んだのだろう。

でも私は、それだけではない気がした。

彼は窓を見た。

ほんの一瞬。

助けを求めている顔ではなかった。

でも、何かを確かめるような顔だった。

入ってくればいいのに。

私はそう思った。

何もなくてもいい。

道を聞くふりでもいい。

座りたいだけでもいい。

自分ではどうにもならないことが、まだ事件になる前に来ればいい。

人間は、助けを求めるのが下手だ。

本当に危なくなるまで、平気なふりをする。

まだ大丈夫。

自分で何とかできる。

迷惑をかけたくない。

こんなことで頼れない。

そう言いながら、少しずつ沈んでいく。

私は何度も見てきた。

だから、私の窓は開いている。

事件になる前に来ればいい。

泣く前に来ればいい。

帰れなくなる前に来ればいい。

何も話せなくてもいい。

ただ座って、息を整えるだけでもいい。

けれど、私は声をかけられない。

建物だから。

窓だから。

交番だから。

私はここにいて、待つことしかできない。

赤い髪の若者は、結局入って来なかった。

少し先でスマートフォンを見て、それから人混みへ消えた。

彼がどこへ向かったのかは分からない。

誰かに会えたのか。

会えなかったのか。

帰ったのか。

帰れなかったのか。

分からない。

でも、もし本当に困った時は、ここへ来ればいい。

それだけは覚えておいてほしい。

私は夜を知っている。

夜の渋谷は、人間を少し裸にする。

肩書きも。

年齢も。

服も。

強がりも。

酒と暗闇と人混みの中で、少しずつ剥がれていく。

正しさだけでは届かない場所がある。

欲望だけでは救えない夜がある。

だから私はここにいる。

私の背中には欲望の灯りがあり、私の窓には助けを求める人間が来る。

その両方を抱えたまま、私は立っている。

昔なら、この景色を矛盾だと思った。

今は違う。

これは渋谷そのものだ。

秩序と欲望。

昼と夜。

安全と危うさ。

助けを求める人間と、寂しさを紛らわせる人間。

全部が隣り合っている。

そして人間は、その間を歩いている。

時々ふらつきながら。

時々間違えながら。

それでも、どうにか朝へ向かっている。

朝が来る。

夜の熱が引いていく。

清掃員が道路を掃く。

コンビニの前に新しい人が立つ。

駅へ向かう人の流れが生まれる。

私の背中の灯りは静かになる。

私の窓はまた昼の顔になる。

道を聞く人が来るだろう。

財布をなくした人が来るだろう。

泣いている人が来るかもしれない。

怒っている人も来るだろう。

嘘をつく人もいる。

本当のことを言えない人もいる。

私は全部を見抜けるわけではない。

そんなに偉くない。

でも、ここにいる。

それが私の役目だ。

なぜ私は、人間が壊れそうになる瞬間を見ると、胸が痛むのだろう。

なぜ、助けを求められなかった背中を、こんなに長く覚えているのだろう。

昔、私は誰かを助けられなかったのかもしれない。

あるいは、誰かに助けを求められなかったのかもしれない。

分からない。

思い出せない。

けれど、窓の明かりを消すことだけはできない。

渋谷という街は、人を解き放つ。

風が髪を揺らし、信号機が人を流し、ベンチが疲れを受け止め、109が憧れを映し、マンホールが境界を守る。

そして私は、迷った人間が最後に立ち寄れる小さな窓でいたい。

眠らない街に、眠らない窓がひとつくらいあってもいい。

私は宇田川交番。

夜を知る女。

今日も誰かが私の前を通り過ぎる。

誰かが振り返る。

誰かが入る。

誰かが入らずに去る。

その全部に、きっと意味がある。

たとえ本人が、それを助けとは思っていなくても。


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