第五話 渋谷編 境界線
私は、踏まれるためにここにいる。
誰も私を見ない。
いや、正確には、見る者もいる。
雨の日に足元を気にする女。
スマートフォンを落とした男。
酔ってふらつく若者。
待ち合わせに遅れて走る少女。
清掃員。
工事作業員。
だが、ほとんどの人間は私を見ない。
私はセンター街のマンホールだ。
丸い鉄の蓋。
少し錆びていて、少し重い。
人間にたとえるなら七十歳くらいだろう。
男か女かと聞かれれば、どうだろうな。
まあ、長く地面に張りついているせいで、そういうことはどうでもよくなった。
ただ、声だけは低いと思う。
若い頃から、あまり騒ぐ方ではなかった。
人間が私の上を通る。
スニーカー。
革靴。
ヒール。
ブーツ。
サンダル。
安全靴。
厚底。
汚れた靴。
新品の靴。
人間は顔で嘘をつく。
だが足元は、案外正直だ。
自信のある者は、靴の裏まで強い。
迷っている者は、かかとが少し遅れる。
恋をしている者は、つま先が軽い。
失恋した者は、足音が重い。
酔った者は、左右の足が喧嘩している。
私は、顔を知らない。
見えるのは足元だけだ。
それで十分なこともある。
上を見ている者たちは、自分がどこを歩いているのか知らない。
この街を知っているつもりでいる。
センター街。
若者。
音楽。
流行。
酒。
恋。
ネオン。
笑い声。
けれど、人間が知っているのは地上だけだ。
私の下には、別の渋谷がある。
暗い。
湿っている。
音が鈍い。
雨水が流れる。
下水が流れる。
泥が流れる。
油が流れる。
人間が落としたものが流れる。
そして、ケーブルが走っている。
電気。
通信。
光ファイバー。
街を光らせるもの。
スマートフォンを繋ぐもの。
大型ビジョンを映すもの。
コンビニを冷やすもの。
クラブの低音を鳴らすもの。
人間は上の光を見る。
だが、その光を支えているのは下だ。
街は、見えないものの上に立っている。
それを知る者は少ない。
朝のセンター街は、夜の後始末から始まる。
始発の少し前。
清掃員が来る。
彼らは私をよく見る。
掃く。
拾う。
流す。
タバコの吸い殻。
空き缶。
割れたプラスチックのカップ。
口紅のついた紙ナプキン。
落ちたピアス。
折れたつけ爪。
誰かのレシート。
誰かのチケット。
誰かの吐いたもの。
夜に人間が捨てたものを、朝の人間が拾う。
私はそれを毎日見る。
夜の若者たちは、自分たちがどれだけ街を汚したか知らない。
朝の清掃員たちは、自分たちがどれだけ街を救っているか、あまり口にしない。
だが私は知っている。
この街は、朝の手によって何度も生まれ直している。
ある清掃員の男がいた。
もう十年以上前から来ている。
最初は若かった。
今は髪に白いものが混じっている。
彼はいつも私の上に溜まった砂を、少し丁寧に払う。
理由は分からない。
別に私を大事にしているわけではないのかもしれない。
ただ、仕事が丁寧なだけかもしれない。
だが私は覚えている。
人間の多くは私を踏む。
彼は私を払う。
それだけで、十分に違う。
昼が近づくと、足音が変わる。
観光客が増える。
地図を見ながら歩く足。
動画を撮りながら歩く足。
迷って何度も止まる足。
外国語が頭上を通り過ぎる。
私は言葉を知らない。
だが足音は分かる。
初めて来た人間の足音は、少し浮いている。
この街に慣れていない。
流れに乗れない。
人が多すぎて、どこを歩けばいいのか分からない。
それでも彼らは楽しそうだ。
私の上で立ち止まり、写真を撮る。
私は写らない。
写るのは、上だ。
看板。
人混み。
空。
だが写真を撮るその足元に私がいることを、彼らは知らない。
まあ、いい。
私はそういう役目だ。
赤い髪の若者が来た。
顔は知らない。
だが靴は知っている。
重そうな黒いブーツ。
かかとが少し削れている。
右足だけ、ほんの少し引きずる癖がある。
彼は何度か私の近くで止まった。
そのたびに、足の重さが違う。
朝は迷っていた。
昼は待っていた。
夕方は、何かを飲み込んでいた。
夜には、少しだけ諦めた足になっていた。
人間は顔で強がる。
服で飾る。
髪色で叫ぶ。
だが足は嘘をつききれない。
立ち止まる場所。
歩き出す速さ。
つま先の向き。
かかとの重さ。
それが本音を漏らす。
彼は派手に見えるのだろう。
地上ではそうかもしれない。
だが私には、少し疲れた足に見えた。
この街にはそういう足が多い。
浮いていないふりをしている足。
強いふりをしている足。
待っていないふりをしている足。
帰りたいのに帰らない足。
帰りたくないのに帰らなければならない足。
人間は大変だ。
午後、雨が降った。
最初は小さな雨だった。
人々は空を見上げた。
傘を出す者。
走る者。
店の軒下に逃げる者。
雨宿りのふりをして、実は誰かからの連絡を待つ者。
雨の日、人間の足元は正直になる。
新品の靴を気にする者。
ヒールで滑りそうになる女。
濡れても平気なスニーカーの若者。
びしょ濡れの革靴で歩く会社員。
私は雨を受ける。
水は私の隙間から下へ落ちる。
地上の熱を少しだけ奪いながら、地下へ流れていく。
雨は、街の表情を洗う。
だが同時に、隠していたものを流してしまう。
化粧。
涙。
煙草の灰。
血。
酒。
誰かの嘔吐。
誰かの香水。
人間が地上に置いていったものは、最後には下へ来る。
私の下へ。
下水へ。
暗闇へ。
地下の渋谷は、きれいごとを言わない。
上では恋が始まる。
下では雨水が流れる。
上では夢が語られる。
下では泥が詰まる。
上では大型ビジョンが光る。
下では電気が走る。
上ではスマートフォンが光る。
下では通信ケーブルが無言で働く。
人間は上だけを街だと思っている。
だが街は、上だけでは生きられない。
私は境界線だ。
上と下。
光と闇。
夢と現実。
見えるものと、見えないもの。
その間に私はいる。
夕方になると、足音が少し柔らかくなる。
昼の強さが抜ける。
学校帰りの子。
仕事帰りの人。
これから遊ぶ人。
これから働く人。
帰る人。
帰らない人。
同じ時間なのに、向かう方向が違う。
センター街では、夕方がひとつの境界になる。
昼の渋谷が終わる。
夜の渋谷が始まる。
だが、その線ははっきりしていない。
昼が少しずつ夜に溶けていく。
若者の笑い声が増える。
店の音が強くなる。
酒の匂いが混ざる。
女の子たちのヒールが少し高くなる。
男たちの歩幅が少し大きくなる。
私はそれを足元で知る。
地上の人間は、夜になると少し別の自分になる。
いや、本当は昼の方が別の自分なのかもしれない。
どちらが本当か、私には分からない。
ただ、靴音が変わる。
それだけは確かだ。
昔、ここを毎晩歩く女がいた。
昼は普通の事務員のような靴だった。
夜になると高いヒールになった。
最初の頃、その足は不安定だった。
何度も私の上でつまずきそうになった。
何年か経つと、足音が変わった。
強くなった。
迷いがなくなった。
さらに数年後、彼女は来なくなった。
結婚したのか。
店を辞めたのか。
別の街へ行ったのか。
分からない。
だがある日、昼間に彼女と同じ歩き方の女が通った。
スニーカーだった。
手には小さな子供の手。
顔は見えなかった。
だが足音で分かった。
あの女かもしれない。
違うかもしれない。
私は確信できない。
それでも思った。
人間は靴を変えても、歩き方の奥に昔を残す。
夜。
センター街は濃くなる。
音が下へ響く。
クラブの低音は、地下にも届く。
人間は音を耳で聞いていると思っているが、私は違う。
音は地面を震わせる。
私の鉄の身体を小さく鳴らす。
若者たちの足も、音に合わせて変わる。
弾む。
跳ねる。
揺れる。
迷う。
音楽は、人間の足を少しだけ自由にする。
その自由が長く続くとは限らない。
だが、その瞬間だけは、本当に軽い。
夜が深くなると、別の足が増える。
酔った足。
怒った足。
泣きながら歩く足。
終電に急ぐ足。
終電を諦めた足。
私は全部受ける。
ある夜、若い男が私の上で立ち止まった。
電話をしていた。
「もういいよ」
そう言った。
声は聞こえた。
その後、長く黙った。
そして電話を切った。
足が動かなかった。
私は思った。
ああ、今この男の中で何かが終わったのだな。
その男は、しばらくして歩き出した。
だが、歩幅が少し変わっていた。
人間は別れた瞬間から、もう別の人間になる。
顔より先に、足が変わる。
別の日、女が片方のヒールを脱いで歩いていた。
片足だけ裸に近い。
痛かったのだろう。
泣いていたのか、笑っていたのかは分からない。
友達が肩を貸していた。
二人はふらふらしながら私の上を越えていった。
そのヒールの片方が、朝まで私の近くに落ちていた。
清掃員が拾った。
人間は一晩でいろいろ落とす。
靴。
ピアス。
レシート。
記憶。
誇り。
涙。
時々、自分自身。
だが、落としたものすべてが失われるわけではない。
地下へ流れるものもある。
誰かに拾われるものもある。
朝になって、思い出になるものもある。
深夜。
雨が強くなった。
水が一気に流れ込む。
私の下で水音が大きくなる。
暗闇の中を、街の汚れが走っていく。
上では、若者たちが雨に笑っている。
濡れた髪。
濡れた服。
濡れたメイク。
濡れたスマートフォンをかばう手。
雨は人間を少し平等にする。
高い服も、安い服も濡れる。
強がった顔も、少し崩れる。
私はそういう雨が嫌いではない。
だが地下では別だ。
水が増える。
流れが強くなる。
汚れが集まる。
詰まりが怖くなる。
人間は地上で雨をロマンチックだと言う。
地下では、雨は仕事を増やす。
深夜の作業員が来た。
ヘルメット。
反射ベスト。
工具。
投光器。
彼らは私の上に立つ。
そして私を開ける。
重い蓋が持ち上がる。
その瞬間、私は空を見る。
普段は踏まれるだけの私が、地上から外される。
冷たい空気が、下へ入ってくる。
作業員たちは無駄口を叩きながら、手際よく動く。
彼らは私の裏側を見る数少ない人間だ。
「ここ、また詰まりそうだな」
「ケーブル気をつけろよ」
「雨のあとだからな」
そんな声が降りてくる。
私は少し嬉しい。
彼らだけは知っている。
街が地下で支えられていることを。
人間が見上げるネオンも、手の中の画面も、店の明かりも、音楽も、全部どこかで地下と繋がっていることを。
一人の若い作業員がいた。
最初は足元がおぼつかなかった。
地下へ降りる時、少し怖がっていた。
それが数年後、後輩に注意するようになった。
「そこ、踏むな」
「手元見ろ」
「上ばっか見るな」
私は思った。
そうだ。
上ばかり見るな。
上には夢がある。
だが下には、夢を支える現実がある。
人間はそれを忘れがちだ。
赤い髪の若者が、雨の中をまた通った。
黒いブーツは濡れていた。
少し泥が跳ねていた。
彼は私の上で止まった。
ほんの一瞬。
顔は見えない。
だが足が止まった。
重い。
けれど、朝よりは少しだけ前を向いていた。
私は彼の靴底の重さを覚えた。
何年か後、別の靴でここを通るかもしれない。
スーツの革靴かもしれない。
作業靴かもしれない。
誰かの子供を連れているかもしれない。
もう来ないかもしれない。
私は分からない。
だが、もしまた来たら、足音で分かるような気がする。
人間は顔を変える。
服を変える。
名前を変えることすらある。
だが、歩き方には消えないものが残る。
たぶん、その人が越えてきた境界が残るのだ。
子供から大人へ。
学生から社会人へ。
恋人から他人へ。
夢見る者から諦めた者へ。
諦めた者から、もう一度歩き出す者へ。
この街は、そういう境界だらけだ。
だが境界線は、線のようには見えない。
いつの間にか越えている。
気づいた時には、もう戻れない場所にいる。
私も同じだ。
地上と地下の境界にいる。
上の光を知っている。
下の闇も知っている。
だが、どちらにも完全には属していない。
それが私の役目なのだろう。
朝が近づく。
雨は弱まった。
人は減った。
清掃員がまた来る。
夜の残骸を拾う。
街は少しずつリセットされる。
だが完全には元に戻らない。
昨日の笑い声も、涙も、酒も、泥も、地下へ流れたものも、どこかに残っている。
街は毎日新しくなるように見えて、毎日少しずつ積もっている。
人間もそうだろう。
何でもない一日。
何でもないすれ違い。
何でもない雨。
何でもない足止め。
それらが、知らないうちに積もっていく。
そしていつか、その人の歩き方になる。
私は踏まれる。
今日も。
明日も。
誰も私を見ない。
それでいい。
私は境界線だ。
見える街と、見えない街の間。
光と闇の間。
夢と現実の間。
上を歩く人間と、下で働くものたちの間。
人間は空を見上げる。
ビジョンを見る。
看板を見る。
誰かの顔を見る。
だが、時々でいい。
足元も見てほしい。
そこにも街がある。
そこにも意味がある。
私の下では、今日も渋谷が流れている。
汚れも、光も、声も、涙も、電気も、通信も。
全部が混ざり、暗闇を抜けていく。
そして地上ではまた、誰かが笑う。
誰かが恋をする。
誰かが迷う。
誰かが境界を越える。
私はその足元で、静かに蓋をしている。
この街が、見えないものの上に立っていることを知りながら。




