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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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4/12

第四話 渋谷編 二つの顔を持つ女

――見て。

ほら、今日も誰かが私を見ている。

信号待ちの女の子。

スマートフォンを構えた観光客。

待ち合わせに遅れてきた男の子。

買い物袋を持った母親。

制服のまま背伸びしている高校生。

昔ここへ通っていたような顔をした女の人。

ほんの数秒。

人間の視線が私に触れる。

その瞬間、私は少しだけ背筋を伸ばす。

もちろん、背筋なんてない。

私は建物だから。

でも、女にはそういう瞬間がある。

見られた時に、少しだけ姿勢を正す瞬間。

私はSHIBUYA109。

渋谷の真ん中に立つ女。

昔はね。

みんな、私を見上げた。

本当に、みんな見上げていた。

私の丸い身体。

白い肌。

大きなロゴ。

流行を詰め込んだフロア。

女の子たちの夢。

渋谷の空。

あの頃、私はこの街の女王だった。

誰もそう言わなくても、私は知っていた。

待ち合わせは私の前。

憧れは私の中。

流行は私の階段を上り下りしていた。

女の子たちは、私に入る前から少し顔を変えた。

少し緊張して。

少し背伸びして。

少し自分を変えたくて。

私はその顔を見るのが好きだった。

あの子たちは、私に服を買いに来ていたんじゃない。

別の自分になりに来ていた。

それを私は、ずっと知っていた。

「また昔の話?」

上の方から、少し若い声がする。

私の外側に付いた大型ビジョンだ。

人間にたとえるなら、二十八歳くらいの女。

派手で、自信家で、流行に敏感で、少しだけ意地悪。

見られることが大好き。

自分が今でも渋谷の顔だと思っている。

「昔の話じゃないわ。記憶の話よ。」

私がそう言うと、彼女は笑う。

「記憶って言い方、年上っぽい。」

「年上ですもの。」

「それ、自分で言っちゃうんだ。」

「言うわよ。もう隠す年でもないもの。」

昔の私は、年を取ることが怖かった。

いや、建物がそんなことを思うのはおかしいかもしれない。

でも私は女だから。

少なくとも、自分ではそう思っている。

外から見られる顔と、内側で人を抱える顔。

私はその二つを持っている。

だから、この街で何十年も女の子たちを見ているうちに、自分も少しずつ年を取っているような気がしていた。

昔は、私より高いものなんて少なかった。

渋谷の空は、今より広かった。

私の上には雲があり、光があり、風があった。

女の子たちは私を見上げ、その向こうに空を見た。

でも今は違う。

周りに高いビルが増えた。

ガラスの塔。

新しい通路。

巨大な駅ビル。

再開発のクレーン。

空は狭くなった。

私より高いものが、いくつもできた。

私より新しいものが、いくつもできた。

私よりきれいなガラスをまとった建物が、いくつもできた。

昔なら、私が渋谷の空を持っていた。

今は、私はビルの谷間にいる。

それでも私は、ここを動かない。

「ねえ、最近さ。」

大型ビジョンの彼女が言う。

「何?」

「私たち、ちょっと疲れて見える?」

私は少し黙った。

写真を撮られることがある。

観光客が私を撮る。

昔ここへ来ていた人が、懐かしそうに私を撮る。

その写真の中の私は、たしかに少し疲れている。

白い肌は、昔ほど眩しくない。

周りの看板は増えた。

新しい建物に囲まれた。

空は重く、雲は低い。

それでも、私は思う。

疲れていることは、負けたことではない。

長く立ってきた女にしか持てない顔がある。

若いだけでは出せない美しさがある。

「疲れているかもしれないわね。」

私は言った。

「え、認めるの?」

「認めるわ。」

「昔は絶対認めなかったのに。」

「昔は若かったもの。」

大型ビジョンは少し黙った。

きっと彼女にはまだ分からない。

見られることの気持ちよさも、見られなくなっていくことの寂しさも。

私はどちらも知っている。

渋谷の女の子たちも、同じだ。

一番見られたかった時期がある。

一番派手だった時期がある。

一番強がっていた時期がある。

そして、いつか少しずつ、人から見られることより、自分が何を見てきたかの方が大事になる。

私はそういう女たちを、たくさん見てきた。

九十年代。

女の子たちは私の中へ流れ込んだ。

ルーズソックス。

厚底。

茶髪。

金髪。

ガングロ。

細い眉。

大きなバッグ。

ポケベル。

プリクラ。

笑い声。

彼女たちはいつも強そうだった。

でも試着室では、よく泣いた。

彼氏に振られた。

友達と喧嘩した。

親に怒られた。

お金が足りない。

サイズが入らない。

自分だけ似合わない。

外では笑う。

中では泣く。

そういう女の子を、私は何万人も見てきた。

ある子は、毎週のように来ていた。

肌を焼いて、髪を明るくして、友達と大声で笑っていた。

エスカレーターでよく転びそうになった。

初めての厚底が、まだ足に馴染んでいなかったのだ。

その子はいつも言っていた。

「109の店員になりたい」

本当に、なった。

最初は声が小さかった。

「いらっしゃいませ」が少し震えていた。

けれど一年後には、客の女の子たちが彼女に憧れるようになった。

雑誌に小さく載ったこともある。

やがて結婚した。

子供を産んだ。

しばらく来なくなった。

そして何十年か後、娘を連れて戻ってきた。

娘は高校生だった。

母親は言った。

「ママ、昔ここで働いてたんだよ」

娘は笑った。

「うそでしょ」

私は見ていた。

母親は少し照れていた。

でもその横顔には、昔の彼女が少し残っていた。

人間は若さを失うのではない。

若さをどこかにしまうのだ。

必要な時に、少しだけ取り出して笑う。

カリスマ店員と呼ばれた子たちもいた。

彼女たちは本当に輝いていた。

女の子たちは彼女たちに会いに来た。

同じ服を買い、同じ髪型にし、同じメイクをした。

店員なのに、スターだった。

でも閉店後、バックヤードで泣いていた子もいる。

売上。

ノルマ。

先輩。

後輩。

恋愛。

体調。

肌荒れ。

雑誌に載ることへの重圧。

憧れられることは、幸せだけではない。

憧れられる人間は、勝手に強いと思われる。

でも本当は、憧れられる人ほど、弱いところを隠すのがうまくなるだけだ。

あるカリスマ店員は、今は孫がいる。

この前、孫に服を選んでいた。

「ばあば、これ似合う?」

そう聞かれて、彼女は笑った。

その笑い方が昔と同じだった。

私は、胸の奥が少しあたたかくなった。

胸なんてないけれど。

昼過ぎ、地方から来たらしい女の子がいた。

友達と三人。

一人だけ、少し歩き方がぎこちない。

この街に慣れていない子は、周りを見すぎる。

彼女は私を見上げた。

目が輝いていた。

でもすぐに、自分の服を見た。

友達の服を見た。

通り過ぎる女の子たちの服を見た。

少し肩が小さくなった。

私は知っている。

初めて109に来た女の子は、自分が小さく見えることがある。

雑誌や動画で見ていた場所。

憧れていた場所。

そこへ本当に来た瞬間、夢が近づくのではなく、自分との差を見せつけられることがある。

その子は中へ入った。

何も買えなかった。

値札を見て、そっと戻した。

試着室で少し泣いた。

でも私は、そういう子を何度も見てきた。

三年後、戻ってくる子がいる。

東京に住むようになる子がいる。

店員になる子がいる。

夢を諦めて地元へ帰る子もいる。

どれが正解かなんて、私には分からない。

でも、一度ここで自分を小さく感じたことは、消えない。

それが悔しさになる人もいる。

やさしさになる人もいる。

傷になる人もいる。

人間は、傷を何に変えるかで歩き方が変わる。

私は、それを見てきた。

「私、最近の子たちも好きよ。」

大型ビジョンが言った。

「意外ね。」

「なんでよ。」

「あなた、昔のギャルの方が好きそうだから。」

「昔のギャルも好き。でも今の子たちも面白いじゃない。」

今の子たちは、スマートフォンの中にもう一つの顔を持っている。

写真。

動画。

SNS。

フィルター。

加工。

いいね。

フォロワー。

昔の女の子たちは、鏡の前で自分を作った。

今の女の子たちは、画面の中でも自分を作る。

どちらが本当か。

私は分からない。

たぶん、どちらも本当だ。

そして、どちらも少し嘘だ。

でも、それでいい。

女の子たちは昔から、自分を作りながら生きてきた。

服で。

髪で。

化粧で。

言葉で。

写真で。

嘘ではなく、願いとして。

こう見られたい。

こうなりたい。

こういう自分なら愛されるかもしれない。

その願いは、時代が変わっても消えない。

夕方、赤い髪の若者が私の前を通った。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうなブーツ。

「あの子、また私を見ない。」

大型ビジョンが少し拗ねた声で言った。

「いいじゃない。」

「よくない。私は見られるためにいるの。」

「でも、見上げられないからといって、あなたが消えるわけじゃないでしょう。」

彼は何かを探しているようだった。

誰かを待っているようでもあり、自分を探しているようでもあった。

私は思う。

昔から、ああいう男の子はいる。

バンドマン。

役者志望。

DJ。

美容師。

服を作りたい子。

何者かになりたいけれど、まだ何者でもない子。

そういう男の子を好きになる女の子も、昔からいた。

未来を持っているように見えるから。

危うさが優しさに見えるから。

寂しさが才能に見えるから。

でも、本当に未来を持っているかどうかは分からない。

人間の未来は、服よりもずっと読みにくい。

あの赤い髪の若者も、いつか父親になるのかもしれない。

会社員になるのかもしれない。

舞台に立つのかもしれない。

消えるのかもしれない。

それでも今、この街を歩いている。

それだけで、何かの途中なのだ。

夜が近づく。

私は少し疲れる。

でも大型ビジョンは夜になるほど元気になる。

光が強くなる。

街が暗くなるほど、彼女は映える。

それが少し羨ましい。

若さは、夜に強い。

私はもう、夜の明るさより、閉店後の静けさの方が少し好きになっている。

でもそれを言うと、彼女は笑うだろう。

「老けたね」って。

そうよ。

老けたのよ。

そして、それを悪いことだとは思わなくなったの。

私は長く立ってきた。

女の子たちを迎え入れてきた。

泣いた子も、笑った子も、売れた子も、消えた子も、母になった子も、祖母になった子も見てきた。

アイドルになった子もいる。

女優になった子もいる。

モデルになった子もいる。

AVの世界へ行った子もいる。

キャバクラで働いた子もいる。

結婚した子もいる。

離婚した子もいる。

誰にも知られず、ただ生活を続けた子もいる。

どの人生が上で、どの人生が下なのか。

そんなことは私には決められない。

全員、一度は鏡を見た。

全員、一度は少し変わりたいと思った。

それだけは同じだ。

再開発が進む。

周りの景色が変わる。

高いビルが増える。

ガラスの壁が空を切り取る。

人の流れが変わる。

昔の待ち合わせ場所が、別の名前になる。

昔の店が消える。

昔のブランドを知らない子が増える。

私は時々、取り残されたような気持ちになる。

でも、取り残されたものにしか見えないものもある。

新しいビルは、今日の渋谷を映す。

私は、昨日の渋谷も映している。

その違いだけは、誰にも奪えない。

「ねえ。」

大型ビジョンが言った。

「何?」

「私たち、まだ綺麗かな。」

私は少し笑った。

「綺麗よ。」

「本当に?」

「本当。」

「若い頃より?」

「若い頃とは違う綺麗さね。」

「それ、褒めてる?」

「もちろん。」

長く愛された女だけが持つ美しさがある。

傷も。

疲れも。

見られなくなった時間も。

見送った人の数も。

全部が、顔になる。

建物にも顔がある。

街にも顔がある。

女にも顔がある。

そして顔は、若さだけで作られるものではない。

夜。

雨が降りそうな雲が空を覆った。

狭くなった空に、重い雲。

私はそれを見上げた。

昔より空は小さい。

でも、風はまだ通る。

ビルの隙間を抜けて、誰かの髪を揺らす。

その風が、私の壁を撫でていった。

懐かしい気がした。

なぜだろう。

私はずっとここにいる建物なのに。

風に触れられると、どこか遠い場所を思い出しそうになる。

まだ私が人間だった頃。

そんな頃があったのかどうかも知らない。

誰かの母だったのか。

誰かの娘だったのか。

誰かに見られたい女だったのか。

誰かを見守る女だったのか。

分からない。

でも、女の子たちが鏡の前で泣くたびに、胸が痛む。

昔、自分もそんなふうに泣いたことがあるような気がする。

見られなくなることを怖がるたびに、私は妙に苦しくなる。

昔、自分もそうだったような気がする。

理由は分からない。

でも、分からなくてもいいのかもしれない。

意味は、名前をつけなくてもそこにある。

閉店の時間が近づく。

人の流れが少し変わる。

昼間の買い物客は減り、夜の街へ向かう人が増える。

私の前を、母娘が通る。

母親は私を懐かしそうに見上げる。

娘はスマートフォンを見ている。

母親が言う。

「昔、ここすごかったんだよ」

娘は言う。

「今もすごいじゃん」

その言葉を聞いて、私は少し泣きそうになった。

今もすごい。

それだけでよかった。

昔ほどではなくても。

一番高くなくても。

一番新しくなくても。

誰かにとって、今もすごいなら。

私はまだここにいる意味がある。

大型ビジョンが、明るく光る。

私の古い身体の上で、若い顔が笑う。

外側の私はまだ見られたい。

内側の私はもう見守りたい。

その二つが同じ身体にいる。

だから私は、二つの顔を持つ女。

若さと時間。

憧れと現実。

光と疲れ。

見られる顔と、見守る顔。

どちらが本当かなんて、決めなくていい。

どちらも私だ。

渋谷の空は狭くなった。

でもその狭い空の下で、今日も女の子たちは鏡を見る。

少しだけ自分を変えたいと思う。

誰かに見られたいと思う。

誰にも見られたくないと思う。

可愛くなりたいと思う。

今のままでもいいと思いたい。

その全部を抱えて、私の中へ入ってくる。

私は今日も扉を開ける。

疲れていても。

少し古くなっても。

元女王と呼ばれても。

私はここにいる。

誰かが初めてヒールを履くために。

誰かが買えなかった服を忘れないために。

誰かが昔の自分に会いに来るために。

誰かが娘に、昔の自分を少しだけ見せるために。

そして誰かが、ほんの少しだけ自分を好きになるために。

私はSHIBUYA109。

かつて渋谷の女王だった女。

今も渋谷に立ち続ける女。

二つの顔を持つ女。

今日も、狭くなった空の下で。

少し疲れた顔をしながら。

それでも、誰かの憧れでいる。


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