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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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3/7

第三話 渋谷編 動けない私

私は、座られるためにここにいる。

それ以上でも、それ以下でもない。

人間は、私を見ると少し安心した顔をする。

「あ、座れる」

そう思うのだろう。

けれど、いざ近づいてくると、少し迷う。

誰かが座っていないか。

汚れていないか。

濡れていないか。

隣に変な人がいないか。

人間は、疲れている時でさえ慎重だ。

私は渋谷の片隅にいるベンチだ。

交差点の真ん中ではない。

大きなビジョンの下でもない。

誰もが写真を撮る場所でもない。

少し外れた場所。

人の流れからほんの少しだけ逃げられる場所に、私は置かれている。

歳は、そうね。

人間にたとえるなら八十歳くらいかしら。

もう若くはない。

雨にも打たれた。

夏の陽にも焼かれた。

酔った男に蹴られたこともある。

恋人たちに長く占領されたこともある。

泣いている女の子を黙って受け止めた夜もある。

私は動けない。

だから見てきた。

動けないものは、見送ることだけが上手くなる。

朝の渋谷は、案外冷たい。

夜の熱がまだ残っているようで、でも人の顔は眠そうで、少し不機嫌だ。

仕事へ向かう人。

学校へ向かう子。

昨日の夜から帰っていない人。

始発までどこかで時間を潰していた人。

同じ朝でも、人によって朝の意味は違う。

私の前を、赤い髪の若者が通った。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうな靴。

昨日も、一昨日も見た気がする。

彼は私には座らなかった。

立ち止まり、スマートフォンを見て、また歩いた。

若い人は、なかなか座らない。

疲れていても座らない。

座ることを、負けみたいに思っているのかしら。

私は少し笑ってしまう。

若いって、そういうものなのよね。

足が痛くても平気な顔をする。

心が重くても歩き続ける。

誰かを待っていても、待っていないふりをする。

でもね。

座ってもいいのよ。

止まってもいいの。

進むだけが若さではないのだから。

午前中、私に最初に座ったのは年配の女の人だった。

白い髪。

深い緑のジャケット。

赤い口紅。

背筋がきれいな人。

彼女はゆっくり腰を下ろした。

でも、崩れなかった。

年を取ると、座り方にその人の人生が出る。

投げ出すように座る人。

申し訳なさそうに座る人。

誰かの隣を少し空ける人。

荷物を自分の膝の上にきちんと置く人。

この女の人は、街に対して遠慮していなかった。

私は嬉しかった。

渋谷にいる年配の人は、少し違う。

ただ歳を重ねた人ではない。

何かをまだ手放していない人が多い。

若さではない。

流行でもない。

もっと芯のようなもの。

私はそういう人が好きだ。

彼女はしばらく何もせず、通り過ぎる人を見ていた。

若者たち。

外国人。

動画を撮る人。

急ぐ人。

迷う人。

彼女の口元が少しだけ笑った。

もしかしたら、昔の自分を見ていたのかもしれない。

私は彼女の重みを感じながら、思った。

人は、昔の自分に何度も出会う。

それは鏡の中だけではない。

街の中にもいる。

赤い髪の子に。

短いスカートの少女に。

恋人を待つ男の横顔に。

かつての自分が紛れている。

本人は気づいていない。

でも、街は覚えている。

そして私のようなベンチも、少しだけ覚えている。

昼になると、私は忙しくなる。

買い物袋を持った人。

スマートフォンで通話する人。

靴擦れした女の子。

ハンバーガーを食べる学生。

外国から来たらしい親子。

私の上には、いろんな体温が残る。

人間は、自分の体温を置いていくことに気づいていない。

けれど、座った人のことは少し分かる。

疲れている人は、背中が重い。

怒っている人は、座っているのに落ち着かない。

恋をしている人は、なぜか端に座る。

泣きそうな人は、真ん中に座ることが多い。

理由は知らない。

ただ、私はそう感じてきた。

この街では、誰もが急いでいるように見える。

でも本当は、急いでいない人も多い。

急いでいるふりをしているだけ。

立ち止まるのが怖いのだと思う。

立ち止まると、自分がどこへ向かっているのか考えてしまうから。

私は動けないから、逆にそれが分かる。

動けないものには、時間が見える。

若い女の子が二人、私に座った。

一人は派手な髪色で、もう一人は制服の上に大きなパーカーを着ていた。

二人とも笑っていた。

けれど、一人がスマートフォンを見た瞬間、笑顔が少しだけ消えた。

もう一人は気づかなかった。

いや、気づかないふりをしたのかもしれない。

人間の友情は難しい。

本当は気づいているのに、気づかないふりをする。

本当は聞いてほしいのに、何でもないふりをする。

「大丈夫?」

たったそれだけの言葉を、なかなか言えない。

その子はスマートフォンを伏せた。

笑顔を戻した。

私は何もできなかった。

ただ座らせているだけ。

それが私の役目だ。

でも時々、思うの。

背中を支えることも、少しは救いになるのかしら、と。

午後、赤い髪の若者が戻ってきた。

今度は、私の前で止まった。

座るかしら、と思った。

けれど彼は座らない。

私の前に立って、またスマートフォンを見ていた。

待っているのね。

私はすぐ分かった。

待っている人には、独特の重さがある。

座っていなくても分かる。

足元に迷いが溜まる。

肩に時間が乗る。

彼は誰かを待っている。

あるいは、誰かを待つ理由を探している。

若い頃の人間は、待つことが苦手だ。

待つ時間が、自分の価値を試されているように感じるのかもしれない。

来ない相手を待つ。

返事の来ない画面を見る。

終わった関係の続きを探す。

始まってもいない未来を期待する。

私は、そういう人間をたくさん見てきた。

何十年前にもいた。

髪型は違う。

服も違う。

スマートフォンなどなかった。

でも、待つ顔は同じだった。

昔は公衆電話の近くで待つ人がいた。

ポケベルを握りしめる子がいた。

携帯電話を開いたり閉じたりする男がいた。

今はスマートフォンになった。

でも、待つ心は変わらない。

人間は道具が変わっても、同じことで胸を痛めている。

そのことが、少し愛おしい。

彼は結局、私には座らなかった。

だけど、ほんの一瞬だけ、私の方を見た。

疲れている顔だった。

座ればいいのに。

私はそう思った。

でも、言えない。

私はベンチだから。

人間の言葉は持っていない。

持っているのは、平らな座面と、少し古びた背もたれだけ。

夕方になると、街の色が赤くなった。

ビルのガラスが光り、人の顔が少し柔らかく見える。

この時間が私は好きだ。

朝の急ぎ方でもなく、夜の浮かれ方でもない。

一日のどこにも属していないような時間。

人間も少し素直になる。

仕事帰りの男が座った。

ネクタイを緩め、大きく息を吐いた。

若い頃はこの街で遊んでいたのかもしれない。

彼はしばらく、通りを眺めていた。

目の前を派手な若者が通る。

男は一瞬だけ笑った。

馬鹿にした笑いではなかった。

懐かしむような笑いだった。

人は、自分が卒業したつもりの街に、何度も戻ってくる。

用事があるからではない。

確かめに来るのだと思う。

自分が変わったのか。

街が変わったのか。

それとも、どちらも変わってしまったのか。

渋谷は、そういう街だ。

若い人だけが集まる街ではない。

若かった人も戻ってくる街。

未来を探す人と、過去を確かめる人が、同じ歩道を歩いている。

それが、この街の面白さだと思う。

夜が来る。

私は少し緊張する。

夜の渋谷は、座る人の種類が変わる。

待ち合わせ。

酔った人。

泣いた人。

靴が痛くなった人。

喧嘩した恋人。

帰りたくない若者。

私の上で、いくつもの小さな物語が始まり、終わる。

ある夜、ここで別れ話をした男女がいた。

女は泣かなかった。

男の方が泣いていた。

女は最後に言った。

「ちゃんと帰ってね」

優しいのか、残酷なのか、私には分からなかった。

でも、その言葉だけは覚えている。

また別の日、若い芸人らしき男が座っていた。

スマートフォンで何かを確認しながら、小さくネタを口にしていた。

誰も聞いていなかった。

彼は何度も同じ言葉を繰り返した。

その後、彼を見なくなった。

売れたのか。

辞めたのか。

別の街へ行ったのか。

私は知らない。

ベンチは、見送った後を追えない。

だから人間の結末を知らないことが多い。

でも、それでいいのかもしれない。

結末を知らないから、勝手に祈ることができる。

どうか元気でいて。

どうか、あの日の涙が無駄になっていませんように。

どうか、あの待ち時間にも意味がありましたように。

私は動けない。

でも祈ることくらいはできる。

たぶん。

深夜に近づく頃、赤い髪の若者がまた現れた。

少し疲れた顔をしていた。

今度こそ、彼は私に座った。

思ったより軽かった。

若い男の身体は、もっと勢いよく沈むものだと思っていたけれど、彼はそっと座った。

まるで、座ることに許可を求めるみたいに。

彼は何も言わなかった。

スマートフォンも見なかった。

ただ前を見ていた。

人が流れていく。

笑い声が通り過ぎる。

外国語が通り過ぎる。

誰かの香水が通り過ぎる。

彼はその全部を見ているようで、見ていないようだった。

私は彼の背中を支えた。

それだけしかできない。

けれど、その夜の私は、それで十分だと思った。

彼の肩が少し震えた。

泣いているのかと思った。

けれど、泣いてはいなかった。

息を吐いただけだった。

人間は泣かなくても、崩れそうになることがある。

そういう時、座る場所が必要なのだ。

どんなに派手な髪をしていても。

どんなに強そうな服を着ていても。

どんなに浮いていない街にいても。

人間は、ときどき座らなければならない。

私はそれを知っている。

彼はしばらくして立ち上がった。

そして、何事もなかったように歩き出した。

人混みの中へ。

赤い髪が、夜の光に混ざっていく。

私は見送った。

また来るかしら。

来ないかもしれない。

でも、もしまた来たら、私は同じ場所にいる。

同じように、何も聞かずに座らせる。

人間は、答えを欲しがる。

なぜここに来たのか。

なぜあの人と会ったのか。

なぜ待ったのか。

なぜ別れたのか。

でも、答えがなくても座ることはできる。

意味が分からなくても、身体は疲れる。

心が名前を持たなくても、背中は重くなる。

私はその重さを受け止める。

それが私の仕事だ。

渋谷は、誰も浮かない街に見える。

けれど私は知っている。

浮いていないように見える人も、ほんとうは少しだけ宙に浮いている。

地面に足がつかない日がある。

自分がどこにいるのか分からない日がある。

誰かに見つけてほしいのに、誰にも見られたくない日がある。

そんな時、人は座る。

たった数分でも。

名前のない不安を、私の上に置いていく。

私はそれを捨てない。

雨が降れば少し流れる。

朝になれば少し乾く。

誰かがまた座れば、別の重さに混ざる。

それでも完全には消えない。

この街には、そういうものが積もっている。

笑い声も。

涙も。

待ち合わせも。

別れ話も。

言えなかった言葉も。

座らなかった人の迷いも。

全部が少しずつ重なって、街の色になる。

私は動けない。

だからこそ、その重なりを感じる。

人は流れていく。

風も流れていく。

信号は変わる。

街は変わる。

でも私は、ここで座られる。

今日も。

明日も。

いつか撤去される日まで。

その日が来たら、私はこの街を離れるのかもしれない。

それとも、どこかで朽ちていくのかもしれない。

分からない。

けれど、それまではここにいる。

疲れた誰かのために。

泣きたい誰かのために。

待つふりをして、本当は立っていられない誰かのために。

私は、座られるためにここにいる。

それ以上でも、それ以下でもない。

でも、この街では、それだけのことにも、きっと意味がある。


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