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「く・し・あ・み・き・ちゃ・そ」  作者: 西崎小春


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第二話 渋谷編 赤になれない男

私は、人を止めるためにここにいる。

赤になれば、止まれ。

青になれば、進め。

黄色になれば、気をつけろ。

たった三つ。

私はたった三つの色しか持っていない。

それなのに、私はこの街の真ん中に立っている。

渋谷のスクランブル交差点。

人間たちは、そう呼ぶ。

世界中の人間がカメラを向ける場所。

若者が集まる場所。

映画に映る場所。

ニュースに映る場所。

誰かにとっては憧れで、誰かにとっては通り道で、誰かにとってはただの待ち合わせ場所。

だが私にとっては、職場だ。

私はここで、もう何十年も赤になり、青になり、黄色になってきた。

身体は何度も替わった。

電球も替わった。

レンズも替わった。

配線も制御盤も、昔とは違う。

それでも私は私だ。

人間だってそうだろう。

髪型が変わる。

服が変わる。

肩書きが変わる。

住む場所が変わる。

それでも、どこかに昔の色が残っている。

私はそれを、嫌というほど見てきた。

昭和の終わり頃、この街は今ほど背が高くなかった。

空がもう少し広かった。

若者はいた。

派手な者もいた。

喧嘩っ早い者もいた。

それでも、今のように世界中の言葉が交差する場所ではなかった。

あの頃、毎週のように私の下を走り抜ける少年がいた。

髪を後ろへ流し、細い身体に見栄だけをまとっていた。赤信号でも平気で渡った。仲間と笑い、誰かに肩をぶつけ、時には警官に追われていた。

私は嫌いだった。

赤だと言っているのに止まらない。

止まれと言っているのに笑う。

だが三十年以上経って、私はその少年をまた見た。

黒い車の後部座席にいた。

髪は薄くなっていた。

スーツは上等だった。

隣には秘書らしき男が座っていた。

車が赤で止まった。

彼は窓の外を見た。

一瞬だけ、私の方を見上げた。

あの少年だった。

今は会社の社長らしい。

私は思った。

お前、昔は私の赤を無視していたではないか。

だが彼は、きちんと止まっていた。

人間は変わる。

いや、変わったように見えるだけなのかもしれない。

あの頃の無謀さが、今の会社を作ったのかもしれない。

あの頃の勝手さが、今の決断力になったのかもしれない。

私には分からない。

私は赤と青しか知らない。

だが人間は、赤信号を無視した過去さえ、別の色に塗り替えてしまう。

平成に入ると、街の色は一気に増えた。

センター街から流れてくる若者たち。

金髪。

茶髪。

ルーズソックス。

厚底。

ガングロ。

携帯電話。

プリクラの匂い。

夜になっても帰らない少女たち。

私は毎日見ていた。

彼女たちはよく笑った。

笑いながら、どこか寂しそうだった。

その中に、ひときわ目立つ少女がいた。

短いスカート。

白いルーズソックス。

少し大きなバッグ。

友達といる時はよく笑うのに、一人になると急に無表情になる子だった。

彼女はいつも私の下で誰かを待っていた。

ある日、青になっても渡らなかった。

泣いていた。

誰にも気づかれないように下を向いていたが、私は見ていた。

それから何年か経って、彼女は駅の大きな広告になった。

アイドルになったのだ。

私は驚いた。

あの子が、と思った。

人間たちは広告を見上げ、名前を呼び、写真を撮った。

だが私は、あの子が昔ここで泣いていたことを覚えている。

さらに数年後、彼女の広告は消えた。

別の顔になった。

別の若者がそこに映った。

人間は入れ替わる。

街も入れ替わる。

だが私は、消えた顔を少しだけ覚えている。

別の少女もいた。

彼女もよくここを渡った。

友達とふざけて、カメラに向かって変な顔をしていた。

後に女優になった。

テレビで見た。

映画館のポスターにもなった。

昔と同じ笑い方をしていた。

私は少し嬉しかった。

また別の少女は、別の世界へ行った。

人間たちはその世界にいろいろな名前をつける。

私はそれを良いとも悪いとも思わない。

ただ覚えている。

彼女が初めてここを渡った時、まだ制服を着ていたことを。

そして十年後、深夜に帽子を深くかぶって、誰にも見られないように急いで渡っていたことを。

人間は、自分の選んだ道を胸を張って歩ける時もあれば、顔を隠して歩く時もある。

だがどちらの足音も、私の下を通る。

同じ白線の上を。

チーマーと呼ばれていた者たちもいた。

今の若者は、その言葉を知らないかもしれない。

彼らはよく群れていた。

夜の街を自分たちのもののように歩き、肩で風を切り、赤信号を無視し、時には喧嘩もした。

私は彼らも嫌いだった。

特に、背の高い少年がいた。

仲間の前では強く見せていたが、一人でいると案外おとなしかった。

ある夜、その少年は交差点の端で泣いていた。

誰にも見られないように、下を向いて。

二十年以上経って、私はその少年を見た。

制服を着ていた。

警察官になっていた。

彼は若者たちに声をかけていた。

「危ないから下がってください」

私は笑いそうになった。

お前がそれを言うのか。

だが、笑わなかった。

いや、笑えなかった。

人間は本当に分からない。

赤信号を無視していた少年が、今は私の赤を守っている。

別のチーマーは弁護士になった。

何度かテレビにも出ていた。

昔、私の下で仲間と騒いでいた顔と同じだった。

ただ、言葉が少し丁寧になっていた。

また別の男は消えた。

どこへ行ったのか分からない。

ある夜、よく似た男が汚れた服で歩いていた。

本人かどうかは分からない。

分からないが、もし本人なら、私は何と言えばいいのだろう。

止まれ。

進め。

私はそれしか言えない。

人間の人生には、そのどちらでもない時間があるのに。

裕福な家に生まれたらしい青年もいた。

ブランドの服。

高そうな時計。

きれいな車。

いつも違う女を連れていた。

彼は私を見なかった。

信号も、街も、自分のためにあるような顔をしていた。

二十年後。

私は彼を見た。

最初は分からなかった。

髪は乱れ、靴は汚れ、背中は丸かった。

交差点の端に座り込んでいた。

袋を抱えていた。

かつての彼と同じ顔が、少しだけ残っていた。

私は赤だった。

人は止まっていた。

だが誰も彼を見なかった。

見えていないわけではない。

見えている。

でも、見ないことにしていた。

私はその時、少し苦しかった。

信号機にも苦しいという感覚があるのかと聞かれれば、分からない。

だが、あの時の私は苦しかった。

逆もある。

地味な青年がいた。

いつも本を持っていた。

予備校帰りなのか、大学生なのか、真面目そうだった。

青になれば渡る。

赤になれば止まる。

黄色では絶対に走らない。

私は少し気に入っていた。

だが何十年か後、その青年に似た男が黒い車から降りた。

周囲に何人かの男を従えていた。

服も靴も高そうだったが、空気が冷たかった。

人が避けた。

私は青だった。

彼はゆっくり渡った。

昔の真面目な青年と同じ目をしていた。

だが、別の色をまとっていた、いわゆるカタギではない世界の人間になっていた。

人間は分からない。

まじめだから正しく生きるとは限らない。

やんちゃだから悪くなるとも限らない。

裕福だから幸せとも限らない。

貧しいから不幸とも限らない。

赤は止まれ。

青は進め。

私にはそういう簡単な世界しかない。

だが人間の色は、途中で何度も変わる。

渋谷は、その変わる途中の人間が集まる街なのかもしれない。

ワールドカップの夜を覚えている。

人が溢れた。

歓声。

旗。

ユニフォーム。

若者たちが交差点へ押し寄せた。

私は赤になった。

止まれ。

だが誰も止まらなかった。

私は悔しかった。

いや、怖かった。

このまま誰かが倒れるのではないか。

車道へ飛び出すのではないか。

押しつぶされるのではないか。

その時、一人の警察官が声を出した。

後に人間たちは彼をDJポリスと呼んだ。

「皆さんが帰るまでが応援です」

声が、交差点の上を滑った。

若者たちが笑った。

だが、その笑いは馬鹿にした笑いではなかった。

少しずつ人が動いた。

私は思った。

ああ、彼は私の代わりに赤になっている。

私は光ることしかできない。

彼は言葉で止めていた。

私は少し羨ましかった。

言葉を持つ者は強い。

だが同時に思った。

私がここにいたから、彼の言葉もこの場所で生まれたのかもしれない。

私が赤になり続けた場所で、人間は言葉の赤を作ったのだ。

ハロウィンも見てきた。

魔女。

ゾンビ。

アニメの登場人物。

映画の悪役。

見たこともない格好の若者たち。

彼らは別の自分になりたがった。

私は赤になる。

だがゾンビは止まらない。

魔女も止まらない。

ヒーローも悪魔も、信号など気にしていないように見える。

困ったものだ。

だが私は知っている。

彼らはただ騒ぎたいだけではない。

何者でもない自分から、一晩だけ離れたいのだ。

渋谷はそれを許してしまう。

良いことなのか悪いことなのか、私には分からない。

だが、そういう夜が人間には必要なのかもしれない。

映画の撮影もあった。

外国から来た撮影隊。

大きなカメラ。

照明。

スタッフ。

私の交差点を、まるで世界の中心のように撮っていた。

私はただ光っているだけだった。

だが彼らは、この場所に特別な何かを見ていた。

人間たちは海外の映画にこの交差点が映ると喜んだ。

私は少し不思議だった。

私は毎日ここにいる。

毎日見ている。

だから特別だとは思わなかった。

だが、外から来た者には、この人の流れが奇跡のように見えるらしい。

そう言われてから、私も少しだけ自分の仕事を誇りに思うようになった。

そして、あの静かな春。

コロナ。

私は忘れない。

青になった。

誰も渡らなかった。

赤になった。

誰も止まらなかった。

黄色になっても、急ぐ者すらいなかった。

スクランブル交差点から音が消えた。

外国人もいない。

若者もいない。

笑い声もない。

カメラもない。

酔っ払いもいない。

ただ、風だけが通っていった。

私はその時、初めて知った。

街は人でできている。

ビルではない。

看板ではない。

大型ビジョンではない。

有名な地名でもない。

人がいなければ、ここはただの道路だった。

白い線と、アスファルトと、私だけだった。

そして私は、誰もいない交差点で青になりながら思った。

進めと言う相手がいない青ほど、寂しいものはない。

今、赤い髪の若者が立っている。

黒いコート。

銀色のピアス。

重そうな靴。

彼は何者になるのだろう。

四十年後、社長になるのか。

警察官になるのか。

弁護士になるのか。

俳優になるのか。

消えるのか。

誰かの父親になるのか。

どこかで一人になるのか。

私には分からない。

だが私は知っている。

今の顔だけでは、人間は決まらない。

今の服だけでは、人生は決まらない。

赤信号を無視した少年が、誰かを守る大人になる。

真面目だった青年が、誰かを傷つける大人になる。

泣いていた少女が、スクリーンの中で笑う。

笑っていた少女が、人知れず泣く。

人間は、変わる。

街も変わる。

だがこの交差点は、その途中を見ている。

私は赤になる。

人が止まる。

その数秒の中で、誰かと誰かが目を合わせる。

私は青になる。

人が流れる。

その流れの中で、誰かと誰かが二度と会わなくなる。

私は黄色になる。

誰かが迷い、誰かが急ぐ。

その一瞬に意味があるのか。

分からない。

だが、分からないから意味がないとはもう思わない。

私は若い頃、赤になれればそれでよかった。

赤く光れば、人は止まる。

それが私の役目だと思っていた。

だが今は違う。

私は人を止めているのではない。

人と人がすれ違う時間を、ほんの少しだけ作っているのかもしれない。

人間の人生に、ほんの数秒だけ関わっているのかもしれない。

そう思うようになった。

赤い髪の若者がスマートフォンをしまった。

少しだけ空を見上げる。

それから、ゆっくり歩き出す。

私は青だった。

だが、彼は私の青で歩き出したわけではない。

彼の中のどこかが、青になったのだ。

私はそれを見送る。

彼の未来は知らない。

だが、もし何十年後、彼がまたここを通るなら、私はたぶん気づく。

髪が黒くなっていても。

スーツを着ていても。

杖をついていても。

誰かの手を引いていても。

私は覚えている。

人間は忘れる。

だが私は、少しだけ覚えている。

赤。

青。

黄色。

私は三色しか持たない。

だが、この街には数えきれない色がある。

若さの色。

老いの色。

成功の色。

転落の色。

恋の色。

後悔の色。

再出発の色。

誰にも見えない孤独の色。

私はそれらを、今日も見ている。

赤になりながら。

青になりながら。

黄色になりながら。

渋谷の真ん中で。

世界中の人間が通り過ぎるこの場所で。

たった三つの色しか持たない私は、今日も名前のない色を見上げている。




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